1÷0=生きる意味とはなにか

pikarrr2009-10-17

1÷0=生きる意味とはなにか


生きる意味とはなにか。これは「1÷0=」に似ているのではないだろうか。数学において、0で割ることはできない。これはルールである。1÷0は、1個のケーキを0個に分割するということではない。1個のケーキを0個に分割するということが、1÷0という数式のあとに言葉にされただけである。

西洋でアラビア数字が広まったのは活版印刷が普及しだした15世紀である。そのときまで西洋には0はなかった。だからといって0は発見されたのではない。発明品として西洋に伝わったのだ。そして新たな数学技術が生み出されたのである。

「1÷0=」が数学という体系の臨界であるように、「生きる意味とはなにか」は言語体系の臨界である。「生きる」ということは実際の生存とは関係がなく、言語表記である。だから生きる意味が答えられないことに絶望するのは、1÷0=に解がないことに絶望することと同じである。

人以外の動物を考えると、ただ生きているだけで、生きている意味を問わない。これは人間のみが「生きる意味」を発見したのではない。人間は言語を獲得することでで、「生きる意味」を発明したのだ。

しかしより正確に言えば言語の獲得のときに「生きる意味」が発明されたとはいえない。一般的に「生きる意味」が発明され普及したのもまた活版印刷が普及しだした15世紀以降であるといえるのかもしれない。生きることに意味があるということが普及するには豊かさや教育された知識、そしてなんといっても社会的な自由と平等が必要だろう。封建社会のように社会に深く埋め込まれて、神の深く根を下ろしていた時代にはこの発明はまだ普及していなかっただろう。




言葉の次元とフェティシズム


だからこの発明された「生きる意味」と実際の生存とは関係がない。では本当の生存とはなにか?お解りのようにこう問うこと自体に意味がないのだ。生きることはいま生存しているという事実そのものにしかない。毎日の習慣であり、ただ他者と環境と交わり生きているという日常だ。しかし語る以上いかに語たろうが純粋性をともなってしまう。だから「生きる」は言葉の次元にはないのである。

そうはいっても人は誰もが「生きる意味とはなにか」につまずいてしまう。これは、たとえば外食のときに食器の清潔さが気になってしまう衝動に似ている。誰もがこのようなフェティシズムを持っている。このようなフェティシズムは食器の清潔さが気にあることが問題ではないだろう。なぜ過剰に清潔さが気になるのかが問題である。同様に「生きる意味とはなにか」が問題ではなく、なぜ過剰に「生きる意味とはなにか」を問うてしまうのか、が問題だ。そのフェティシズムはどこから来るのか。そしてそれはまた多くにおいて言葉の次元に関係するのだ。「生きる意味とはなにか」が強く人を引き付けるのはまさに言語の臨界であるからだろう。

ヒンズー・アラビア・システムの最大の貢献はゼロの発明である。・・・ゼロの概念は当初人々にはなかなか理解されなかった。当時の人間は、自分達が殺した動物の数を数えたり、過ぎ去った日数や旅行の日数を数えるだけの生活に慣れ切っていたからだ。ゼロというのは、その意味では、数を数えることとは何の関係もなかった。二〇世紀のイギリスの哲学者アルフレッド・ホワイトヘットは次のように述べている。「ゼロについて大事なのは、それは人間の日常生活の営みとは無縁であるという点である。誰もゼロ匹の魚を買いに出かけたりしない。それは、ある意味で、あらゆる数字の中で最も文明的であり、洗練された思考様式を採用する上でゼロを使うということが必要になってきたのだ。」

ヒンズー・アラビア式の数字体系の採用は一五〇〇年代初めまで激しい抵抗を受けていた。・・・十五世紀半ばの活版印刷の発明は新しい数字を普及させる上で触媒の役割を果たした。印刷術の発達で不正な書き換えはできなくなり、いまやローマ数字を使うことが莫迦々々しいほど複雑なことは誰の目にも明らかだった。この難関を突破できたことで商業は飛躍的に発達した。P55-60


「リスク 神々への反逆」 ピーター バーンスタイン (ISBN:4532190797


*1

*1:画像元 拾いもの