いかに理性は数量化されたのか

pikarrr2009-10-23

啓蒙思想の残存

啓蒙思想はあらゆる人間が共通の理性をもっていると措定し、世界に何らかの根本法則があり、それは理性によって認知可能であるとする考え方である。方法論としては17世紀以来の自然科学的方法を重視した。理性による認識がそのまま科学的研究と結びつくと考えられ、宗教と科学の分離を促した一方、啓蒙主義に基づく自然科学や社会科学の研究は認識論に著しく接近している。これらの研究を支える理論哲学としてはイギリス経験論が主流であった。


wiki 啓蒙思想 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%93%E8%92%99%E6%80%9D%E6%83%B3

いまでは哲学は理性について、科学は身体についてと明確に分離されている。17〜18世紀の啓蒙思想の面白さは、現代と異なり理性と科学が境界なく混在していたことだ。すなわち「科学化された精神」。それは今ではタブーとされる道徳科学、優生学へと発展した。しかし社会学、経済学はまさにこの土壌から生まれ、いまもベースに成立しているにもかかわらず、隠されている。これは学問の問題ではなく、忘れられた「科学化された精神」という領域は、いまも社会の基盤となっているにも関わらず隠され続けているのである。

だから問題は、啓蒙思想の理性主義の何が間違っていたのか、でない。それはその時代の真理であるとともに、現代においても根底としてリアリティ(真理)を支えていることを明らかにすること。それがフーコーが示した系譜学である。




経験の確率論


ロックの経験論が習慣を重視するとき、そこには絶えず質から量への変換が隠されている。習慣とはいかに経験が反復されるかという(数量)確率である。そしてさらには、個から集団への転換でもある。習慣とは単に個人の経験の反復ではなく、集団がもつ経験の反復である。ある社会が反復させて経験させることがその社会の習慣(正しさ)であるといえる。だからロックを経たヒュームの「慣習(コンベンション)」ベンサム功利主義へ繋がったことは不思議ではない。より数量化を進めただけのことである。

デカルトが精神/身体の二元論というときに、精神は私に唯一であった。しかし精神が習慣(経験の反復)によって形成されるとき、精神は集団に共有されたものとなる。社会においてより多く反復される経験が正しいのである。

これが決して過去のものではなく、まさに現代の「生政治」を支えていることがわかるだろう。より多く経験させるように社会環境を作るという言うことである。たとえばテレビが何によって成立しているかといえば、広告収入である。広告とはいかに効率的に反復して擬似経験させてすり込むか。それによって「正しさ」を作るのである。そこにあるのは反復という量であり、確率論である。

啓蒙思想で生み出された人間科学はいまも受け継がれているのだ。「いまさら啓蒙か。間違いであったことは誰でも知っている時代遅れ。」ではない。いままさにその原理が社会の奥深く駆動しているのだ。

古典的確率論は第2の絆によって啓蒙主義時代の道徳科学と結びつけられた。・・・確率とそれに付随する確信度は、公式的には証明序列のなかでは証拠の量とよりも、証拠のタイプと相互関係をもっていた。ロック、ホートレー、および彼らの追随者たちの観念連合説の心理学は、証拠と確率についてのこの考えを拡大し、主観的信念ばかりでなく客観的頻度をも含むことになった。・・・精神は自然に頻度と一致を保ち、それに応じて信念の配分を行うのみならず、またそれは確率の計算と比較からみても理にかなったものであるとも観念連合論者は主張した。ロック、およびその追随者たちにとって、すべての知的着想は観念の組合わせと再組み合わせによるものであり、したがってそれは性格的には初歩的な確率論の組合せ計算をまねたものとなる。P202-203


「確率革命」 第6章 合理的個人と社会法則の対立 L.J.ダーストン (ISBN:4900071692


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