マクロコンテクストの創造

pikarrr2009-10-25


啓蒙思想からマクロコンテクストへ

18、19世紀の双方において、数学的確率論は社会についての真の科学たらんとする希望と固く結びついていた。とはいえ、コンドルセーの「社会数学」とケトレーの「社会物理学」とでは、数学的確率と社会科学の双方にかんして、それぞれの考えにはっきりとした違いがあった。

18世紀の数学的確率は合理的人間のなかの1人のエリートの判断と決定とをその主題にとりあげた。また18世紀の道徳科学も行動や信念にたいする合理的根拠を示すことをめざした。いずれもそのアプローチの点では個人主義的、心理学的、かつ規範的であった。

19世紀の確率論者たちは自分たちの理論を統計的頻度を用いて理解した。19世紀の社会科学者たちは規則性を探究したが、それは個人行動というミクロのレベルではなく、むしろ社会全体というマクロのレベルでの規則性であった。18世紀の思想家にとり、社会は法則に支配されたものであったが、それは社会が合理的個人の総計であったからである。19世紀の反対者たちにとっては、社会はその構成員が非合理的な個人であるにもかかわらず、法則に支配されていた。P200


「確率革命」 第6章 合理的個人と社会法則の対立 L.J.ダーストン (ISBN:4900071692

このような思想の転回が本当にあったのか。あるいは学術的な転回があったとしても、それが社会にいかような影響を与えたのか。ここで18世紀の思想と言われているのは啓蒙主義です。理性的、合理的個人とはエリート主義です。しかし19世紀の非合理的な個人では対象は大衆を対象にしています。ここにパラダイムシフトがあります。

いわば啓蒙思想とはエリート達が社会とはどのようにあるべきか啓蒙する理想主義的な思想ですが、19世紀の思想はそのような理想が懐疑され維持されず、もはや社会の有り様を事後的に記述しようとする。ここには「啓蒙」「記述」があります。そして思想史としては、啓蒙から記述へのシフトがとして示されますが、社会の有り様はたえず連続性をもって変化していると考えるべきでしょう。だからシフトがあったとすれば、社会の流動性が上がったということだと思います。




マクロコンテクストの創造


全体としての秩序が存在するために重要なことは、個が均質で、集団(母数)が十分に大きくて、ランダム(偶然)であることです。たとえばコントは「連続性の原理」として「病理的なものは、正常なものからの偏差として定義」した。これはいまでは当たり前であるが、世界は比較できない様々な質によって溢れていた。それが一つの価値によって量化されて、分布されて、中心(平均)からの偏差として位置づけられた。ここですでにマクロコンテクストは始まっている。あとは人はいかなる価値で量化されるのか。いかように分布し、分析されるのか。すでに社会がそのようであった、ように考えられていた、ということです。

たとえば19世紀の思想とはアダムスミスの「見えざる神の手」です。個人は営利を求めて様々な行為するが全体としては秩序が保たれている。すなわち自由主義思想です。社会の流動性を向上させることに貢献したのは、貨幣社会の普及でしょう。それまで人々は封建的に制度、地域に埋め込まれ、自給自足の生活をしていましたが、貨幣社会が拡がることで流動性が向上します。そして国家によって流動性が向上するよう積極的に促進される。

この創造の次元において、啓蒙思想からマクロコンテクストへシフトは意味を持つのではないだろうか。すなわち人間の作り方においてである。それがフーコーの権力のシフトである。

病理的なものという概念は、一見病気そのものと同じくらい古くからあるようだが、実は1800年より少し前に、本質的な変容を経験しているのである。この頃はじめて、疾病は身体全体にではなく個々の器官へと関連づけられるようになり、病理学は病気の人ではなく不健康な器官の研究となった。・・・ここまでは、正常は病理的という第一の概念の対概念として定義される二次概念だったのである。だが、コントがブルセの偉大な「原理」と呼んだものによってこの概念は逆転する。病理的なものは、正常なものからの偏差として定義されたのである。あらゆる変異が正常状態からの変異として特徴づけられた。コントの考えでは、ブルセの原理は連続性の原理を完成した。・・・この「原理」の二つの部分を書き留めておこう。(a)病理的状態は正常な状態と質的に変わらない。(b)正常なものは、そこから偏差が分岐する中心点である。

・・・コントは、「ブルセの法則はあらゆる変化を正常な状態へ従属させる」と、はっきり書き残している。ブルセが生理学に関してのみ述べた原理は、「知的・道徳的諸機能」へと拡張されねばならず、・・・やがては社会の全研究に適用されるべきものなのである。P243-245


「偶然を飼いならす」 イアン・ハッキング (ISBN:4833222744

ケトレーはこれらの初期の著作において、何よりも次の事実に関心を向けた。すなわち身長的特徴の平均や非身長的特徴、たとえば犯罪や婚姻の比率は、長期をつうじてまた国もいかんを問わず、年齢その他の人口学的変数と驚くべき安定的関係を示すということである。彼が社会的世界の「法則」とよんだのはこれらの関係である。平均人という考え方は、1835年の彼の最初の本で最大の役割を果たしている。しかし彼は1840年以降になると、平均や比率の安定性だけではなく、それ以上にこれらの特性の分布に関心を示した。彼は人間の身長や体重の分布をグラフに描いてみると、今世紀初めから研究されていた観測誤差の分布と非常に似ていることに気づいた。そこで彼は、身長的属性の分布を正規分布であるかのごとくみなせるという固い信念を持つようになった。・・・彼の確信によると、十分な観察ができれば、身長的特性の分布のみならず、身体的でない特性の分布もつねに正規分布になる。P234-235


「確率革命」 第8章 生命・社会統計と確率 ベルナール=ピュール=レクイエ  (ISBN:4900071692

十六世紀に定式化されたこの統治の技法が十七世紀に阻止されたことには、また別の理由もあると思われます。・・・主権の行使の問題が、理論的問題としてもまた政治的組織の原理としても首位の座を占めていたと言うことが、統治の技法を阻止する根本的な要因だったのです。主権が主たる問題であるかぎり、主権の諸制度こそが基本的制度であって、権力の行使が主権の行使と見なされるかぎり、統治の技法は、固有かつ自律的に発展することができなかったのです。・・・

・・・統治の技法の陥っていた閉鎖の打開は・・・十八世紀の人口拡大であり、この人口の拡大は通貨の過剰に結びつき、さらにはこの過剰がまた農業生産の増加にふたたび結びつく、歴史家におなじみの循環的プロセスにしたがって動きでした。・・・統治の技法の打開は人口問題の出現と結びついていたと言うことができます。

人口というパースペクティブ、人口に固有の現象が持つ現実は、家族モデルを決定的に遠ざけ、経済というこの概念を中心に違うものの上に移動させることを可能にするでしょう。・・・統計学が少しずつ発見し明らかにしていくのは、人口には固有の規則性がある、ということなのです。・・・人口はその集合状態に固有な効果をもつものであって、・・・家族という現象に還元することができない、ということなのです。統計学が教えるのはまた、人口は、その移動や行動様式や活動によって、固有の経済的な効果を持っているということです。

統治の知の成立は、広義の人口をめぐるあらゆるプロセスについての知、まさしく人々が「経済学」と呼ぶ知の成立と絶対に切り離しえない。・・・統治の技法から政治学への移行、主権の諸構造に支配された体制から統治=政府の諸技術に支配された体制への移行は、十八世紀に、人口をめぐって、したがって、政治経済学の誕生をめぐって行われるのです。P261-268


フーコー・コレクション〈6〉生政治・統治」 (ISBN:4480089969) 

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