なぜ「死」は文化コンテクストなのか

pikarrr2009-12-12

「死」は存在しない


そもそも「死」なんってないんです。動物に「死」がありますか?たとえば小学生でやりましたが、ジャガイモって切れ端を水につけると芽が出るんですよね。植物はそもそも個体というものがなくて、マングローブとは全体が広く繋がって増殖しつつ何万年も生き続けているんです。増殖でいうと人も最近クローン技術とかあります。

たとえば蜂を考えましょう。働き蜂はその形態が全体の一機能ですね。蜂にとって死とは一匹の死か、群れ全体の死か、中心の女王蜂の死か・・・死とは定義の問題ですね。人は全体の一部でありつつ強い自我をもち、死とは個人の死でありたい。

だから葬儀などやる必要ないんです。いってしまえば葬儀は残された人の自己満足です。だって死んだらわからないじゃないですか。




「死」と尊厳


でも映画おくりびとには号泣しました。そこに人生という一つの「物語」があり、葬儀とは物語の完結であり、一人の尊厳の宣言なわけです。「物語」がなければ人は動物になってしまいます。そして死人とは自らの写しであって一部なのですね。葬儀がなくなったときそれは人の生への尊厳がなくなったときです。だから自らの存在証明として葬儀は必要であり崇高なんです。

ようするに葬儀は物語の終わりの演出です。それがなければ人ではないんです。終わりの演出が物語を完成させ、そして人間存在の尊厳を生み出しているわけです。死は人間と動物を分けるための文化コンテクスト的な演出です。

葬儀とはそこに自我が生まれていることの証明なんです。他者の死を弔う。人を一つの物語として理解する。人が一つの個としての尊厳を尊ぶ。それはまた私は私という自我が生まれていることがわかります。だから考古学では埋葬跡が重要です。




権力装置としての「死」


「死」そのものが言語なんだから、コンテクストがないとないんですよ。人の活動停止を死とよび、爪の細胞の活動停止を死と呼ばないのは、文化的なコンテクストです。もっといえば、死とは「精神」の死です。すなわち精神があるかないか、という西洋形而上学的二元論が作動しています。

このコンテクストが差別の源でもありますね。ユダヤ人には精神はない。たとえばアウシュビッツの囚人は動物、物のように扱われたわけです。毎日ガス室で殺されたというよりも、殺すのではなくただ処理された。葬儀がなくなるとはそういうことです。いまでも捨て犬が何万匹処理されているわけですが。

なぜ日本に原爆は落とされたのか。キリスト教圏ではなかったからだと言われています。イエロー・モンキーには西洋人のような崇高な精神はない。すなわち活動停止はあっても崇高な死はない。

葬儀というのは人類太古からある人類の根源的崇高な行為でありますが、ピラミッドなどのようにまた必ず権力装置であったことも大切ですね。たとえば下層、奴隷も葬儀されたのでしょうか、おそらく動物のように名もなく処理されたのでしょう。死はコンテクスト、権力的なコンテクストです。死が権力的なコンテクストであることは、現代日本でもかわらないでしょう。多くの名もなき死はいまもかわらずある・・・
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