なぜiPadに魅力がないのか 「サイバーリバタリアニズムの倫理と新自由主義の精神」
ITとセルフサービスと技術的選民性
AppleのiPadに魅力がないのは汎用性が高すぎるからだろう。そんなのパソコンで十分でネットブックでさえネットに特化して、iPhoneも基本は音楽用ハードである。いままではハードの価格が高くて、パソコンのように一台でなんでもできる汎用性の高さが求められてきた。しかしいまではハードが安価になり、コンテンツサービスに特化したハードを多台持ちできるようになった。
ハードが高く一台のパソコンに多くの機能を求めるときは、自らコンテンツサービスを選び、ソフトをインストールし、使い方を調べるなど、「セルフサービス」が基本だった。家電製品に比べてパソコンやウェブサービスが難しいのは単に知的で複雑であるだけではなく、このようにセルフサービスを基本としているためだ。
そしてこのような中から、「自分で努力して使いこなすものだ」、「わからないことはググれ」、そして「使いこなせないものは使うな。」「もっともうまく使いこなせるものを尊敬される」というようにパソコンやウェブユーザーに当然のように技術的選民性(ハッカー文化)が育った。
彼らにとってこのような自己責任は、IT技術を楽しむものに求められる倫理となっている。さらに自由度はウェブ上では新たな「世界」を自らの手で構築できる力を意味する。これらはサイバーリバタリアンという情報原理主義にまで高められている。その内実はITフェティシズムとでもいうべき楽観的な熱狂である。
ボクは、ネオリベラリズム(新自由主義)の台頭がIT技術の発展の時期と同じくすることからも、サイバーリバタリアニズムが、ネオリベラリズムの源泉ではないかと思っている。彼らのたちが悪いのは金に興味なくただ自由化に憑かれていることである。彼らは「実社会をウェブのようにしたい」のである。だから生活や権威など流動性を妨げるものを嫌悪する。
サイバーリバタリアンたちはデジタルテクノロジーと自由市場経済とを結びつけることで、単に勝ち組による市場の支配を主張しているのではない。むしろサイバーリバタリアンたちは、古典的な共同体主義的アナーキズムの理想を実現する社会的・政治的条件の出現を期待しているのであり、テクノロジーの発展によって脱中心化・多様性・調和を実現するような構造的変化が生まれることを期待しているのである。
「サイバーリバタリアニズム神話と共同体の展望」 ラングドン・ウィナー http://www.fine.bun.kyoto-u.ac.jp/tr2/hayashi.html
ハード多台持ち世代の普通さ
ケータイ、iPod、DS・・・いまではハードが安価になりサービス毎に多台持ちしている。もはやユーザーが求めているのはハードではなく、コンテンツサービスという環境であり、ハードはコンテンツサービスを使いやすくする補助的な一部であることが求められる。
サイバーリバタリアン世代のおじさんたちはいまだにiPhoneがケータイに比べてパソコンのように自由度が高いと誇るがまったく時代錯誤である。iPhoneの魅力はiPodから続くiTunesのようなコンテンツサービスを支える特化したツールだ。
GoogleのAndoroidの魅力のなさもそこにある。スマートフォン用のOSになんの魅力もない。Googleの弱点はサービスが便利であっても魅力的なサービスがないことである。iPadがどうしたなど興味なく、ブックリーダーなんて新聞社や出版社が引き続きコンテンツを売りたいなら読者に配ればいいのにと考える。
このようなケータイ世代はハードやソフトそのものへと興味はなく、フェティシズムを持たない。パソコン世代のようにウェブのコンテンツに課金することを嫌悪しないし、ウェブ上に実社会とは異なる倫理も持たない。実社会を快適に過ごすためのコミュニケーションやゲームを手軽に楽しみたいのだ。
近代資本主義の精神の、いやそれのみでなく、近代文化の本質的構成要素の一つというべき、天職理念を土台とした合理的生活態度はキリスト教的禁欲の精神から生まれ出たのだった。・・・禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代経済秩序の、あの強力なコスモスを作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、このコスモスは現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人の生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定しつづけるだろう。P363-365