なぜネットはアクセスするだけで高揚するのか

pikarrr2010-02-24


インターネットは五〇年代から六〇年代にかけての二つの事件の影響を受け、ここまで育ってきたものだといえる。第一は五七年に起きたスプートニックショックだ。・・・アメリカは焦り、六〇年代は科学技術へ重点的に投資した。そしてそのなかの一つが、ARPAネットプロジェクトである。

第二は、ベトナム反戦運動学生運動に端を発する反体制運動である。こちらは、インターネットの文化をつくりあげる原動力となった。・・・「コンピューティングパワーを、民衆のもとへ」というわけだ。

政府や大企業がコンピュータと情報を独占しようとしていたのに対し、ハッカーたちは世界大で情報共有を実現するネットワークをつくりあげた。情報公開、共有こそ民主主義を支える根幹であり、そのためのツールとしてコンピュータを使うのだ。

その結果、サイバースペースという新しい世界に出会い、彼らの興奮はまたさらに高まる。ふつうの市民生活では出会えないような人々とのコミュニケーションを楽しみ、新しい自分を発見することができたからだ。P44-45


「インターネットが変える世界」 古瀬 幸広、広瀬 克哉 (1996) (ISBN:4004304326


ネットはそのはじめからフェティシュであった。すなわち利便性を超えた過剰な欲望により作られてきた。ネットの基本はコミュニケーションであるが、なにをそれほどコミュニケーションすることがあるのか、という過剰性。

ネットのこの過剰性は人の秘められていた欲望が解放されたのだろうか。そうではなく道具は力の拡張であり、快感を生む。車は足の拡張であり身体を超えた速度に魅了され興奮する。車を運転するとアクセルを踏み込み衝動に駆られる。どこまでも速く、このうすのろの身体を引き離したい。ここにあるのは交通の利便性を超えた過剰性である。

だからネットはアクセスするだけで興奮である。ネットという道具は、より多くの人に影響を与えたいという衝動にかられ、アクセルを踏み込む。このウスノロの日常を引き離したい。遠隔の不特定多数へと発言し、影響を与えることができる力の拡張、個人がマス・メディアになれる力である。

ネットはメディア(媒介)技術であってコミュニケーション能力の拡張によって、身体よりもメンタルを拡張することに特徴があるだろう。だから身体が担保される豊かさの上でしか成り立たない。資本主義社会の寄生物として成立する。しかしフェティッシュな高揚感の中で拡張された精神は資本主義を乗り越えるユートピアの夢を見る。

物理的な都市に取って代わるようなものとしてのサイバー都市は存在しない。そして、人間の社会が物理的に存在する身体を主要な構成要素として、それらの直接的な相互作用や相互現前的な関係を、性的関係をはじめとする親密な共同圏ばかりでなく、経済、政治、文化などの諸活動においても核的な行為や関係の場としている限り、これまで都市が担ってきたマルチメディアとしての機能のいくつかの部分が電気的・電子的なメディアによって担われるようになったとしても、・・・物理的な場としての都市は、その形を変えることはあっても存在し続けるだろう。人間の社会はいまだ、身体性と相互現前性を核として存在している。

とはいえ、これまで存在してきた都市の「終わり」と、それに代わるメディアの中の「新しい都市」の到来が半世紀来語られて続けてきたことの社会学的な根拠もまた、現代の都市とマス・メディアや電気的・電子的なメディアの高度化の関係の中にある。

・・・サイバー都市論の基本的は論点としてグレアムがあげる四つ − ”物質性の錘”の廃棄、リアルタイム化、サイバー・リバタリアニズム、サイボーグ・ボディーズと限界なき都市 − も、このことに関係している。要するに、現実の都市や社会における共同社会の限界や機能不全が、より透明で脱−領域的なメディアによって乗り越えられることが、共同体的な集団や地域の隔たりを超え、それらの間の社会的交通を可能にする「都市」のメタファーで夢見られ、思考され、語られるのだ。P161-162


「〈時と場〉の変容―「サイバー都市」は存在するか」  若林 幹夫 (2010) (ISBN:4757142404


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