なぜ映画「アバター」はリアルなのか メディア論の誤謬
<対象>→技術メディア→認知メディア→<認知>
「情報とはなにか」に答えるのはむずかしい。なぜなら認知されるものすべてが情報だからだ。しかし「情報」という言葉は、遠隔から技術メディア(媒介)されてくる情報という文脈で使われる。すなわち「情報」はメディア(媒介)からくる情報である。
そしてメディアを介した情報だから、そこでなんらかの変換が行われたバーチャルなものである。メディア論でよくある間違いが、メディア情報が直接主体に届くと考える点である。そうではなくてメディア情報は認知の現前までで、そこから人の認知というメディアが介在する。だからマクルーハンからつづく、メディアの変化が直接、人間をかえるような新人類論は滑稽である。
アバターは3Dだからリアルだというのは典型的な「メディア論の誤謬」である。メディアからの3D情報をいかに、人が認知するかということが欠けている。たとえば人の認知は文脈依存が高い。アバターを楽しめるのは、それが映画であることがわかっているから。それがいままでの映画技術とは違っているとわかっているからだ。
アバターの商品価値はテレビとは違うことに価値を持つだろう。映画館にこなければ体験できないという、テレビとの差異化による希少性としての集客を呼んだ。それはリアルであるとかとはまた異なる。
生産様式とメディア技術
メディア論は技術主義であり、右肩上がりのロードマップを愛する。ケータイの次はスマートフォンというITフェチの思考も典型的な「技術主義の誤謬」である。「〜2.0」ということばが流行っているが、この誤謬を振り切るほど強烈なのが「ムーアの法則」である。ここ数十年の右肩上がりは奇跡的でであった。ITの技術主義はこれだけに支えられてきたといってもいいすぎではないだろうアバターのような3Dを可能にしたものはなにか。そこに「ムーアの法則」によるCG制作コスト低下の影響は大きい。
正しくはメディア論は環境論と考えるべきだろう。しかし環境へ影響を与えるのはメディアだけではない。むしろメディアも「生産様式」の一部と考えることができるだろう。
認知メディアは予測不可能性をめざす
3Dなんかよりも不思議なのは「アニメ」である。なぜ人は線画にリアルを感じられるのか。人はアニメだろうが引き込まれて感動することができる。すなわち人の認知は1、2、3次元という右肩上がりとまったく異なる特性をもつ。その意味でアバターなんかよりもオタクはずっと先を言っている。
技術主義の右肩上がりという「イノベーションのジレンマ」に陥る一つの要因が、コンテンツ管理の難しさである。コンテンツの面白さに右肩上がりの法則性はない。そして未来予測も困難である。しかし人にとってのリアルとはまさにこのようなものである。人というメディア(媒介)の認知において、なにがリアルであるかは新たな経験を取り込んで絶えず生成変化し、予測不可能である。というか、予測不可能性こそがリアルなのである。
だから今回、映画「アバター」がリアルであったとすれば、それは3Dだからではなく、いままでとは異なるメディア環境を置かれることによって、予測不可能な体験であったからだ。そして3D映画に人が馴れてリアルでなくなり飽きる日がそう遠くないことは容易に予想できるだろう。
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