ラカンのシニフィアンに隠された身体知

pikarrr2010-03-05

コンテクストの謎


言語を使うとは意味を伝達することである。意味は絶えずコンテクスト(文脈)に依存する。だから人が言語を学習するとは単に意味を理解するのではなく、使い方を学ばなければならない。言語論でいえばコンテクストは存在しない。事後的に確認されるだけである。しかしコンテクストがなければ意味は伝達されない。これが言語コミュニケーションの謎である。

これを解決する方法が二つある。1つはベイトソンの学習理論の「学習1」。要するにバッターが来た玉を撃つように、反復訓練の結果、反射的に会話は行われる。二つ目は共有されているか関係なく、共有されたコンテクストなるものがあるように互いに錯覚し続ける。会話が続けばいいわけだ。

これら2つは切り離されたものではないだろう。深度の関係で、慣れた軽い会話から慎重な会話まで、2つのバランスは配分される。そしてこれらはラカンとそれほど違わない。シニフィアンの連鎖」は二つの作用を持つよう考えられた巧妙な戦略である。




シニフィアンは言語でありつつ身体知法則である


ラカンのいうシニフィエよりシニフィアンの優位とはなにか。要するに伝えたい意味(シニフィエ)があり道具(シニフィアン)を使うのではなく、道具(シニフィアン)の用法が意味(シニフィエ)を決定するということである。このシニフィアンの用法は「学習1」という訓練学習で体に刻まれた「身体知」=行為の束である。先の言葉に言葉が続いてでてくる。にもかかわらす人は真意がいえた、つたわったと錯覚する。そこに共有されたコンテクストがあるように錯覚する。この転倒を承認しているのが大文字の他者である。このような二面性を含めて象徴界(無意識)はある。

ようするにラカンシニフィアンの優位により、「身体的知」を隠している。このように考えると辻褄があう。ラカンにおいてシニフィアンを介さない行為はない、というとき、こっそり「身体知」自体も含みこんでいるのだ。シニフィアンは法則性そのものだ。

構造主義の問題に生成課程がない、ということがある。レヴィ=ストロースにおいても構造は一気に出来上がる。ラカンではフロイト「去勢」を使い、一気に無意識(言語構造)を手に入れる。あるべき言語訓練の時間がない。だからラカンシニフィアンを規則とおくことはとてもよいアイデアである。シニフィアンは言語でありつつ身体知法則であることで、言語コミュニケーションの謎を解く戦略である。

シニフィアン


・・・こうして、シニフィアンという用語は精神分析的な考え方を構築していく上で必要不可欠なものとなる。ここで、精神分析の中でのこの用語が言語学的な起源に由来する諸特徴のどんなものを保持しているかという点について問うてみることができるだろう。

ラカンにおけるこの参照は明確なもの、暗に行われるものを含め無数である。この参照は、ソシュールによって導入された言語の構造的な次元にとくにかっかわっているが、しかしこの構造的な次元をおそらく超えて、その先へ進むものである。語用論的な言語学が人文科学の諸領域で無視できない位置を占めるようになったこの時期に、ラカンシニフィアンの概念は、その始めから、言語(ランガージュ)の中にある行為の次元を考慮にいれているものであったということを指摘しておくのはとくに有用である。シニフィアンはただたんに意味の効果のみをもつのではない。シニフィアンとは、命令し、あるいは鎮め、眠らし、また目覚めさせる、そういうものである。


精神分析事典」 R.シェママ、B.ヴァンデルメルシュ編 P174 (ISBN:4335651104


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