怠業(たいぎょう)と勤勉のダブルバインド

pikarrr2010-03-13

1) NHKスペシャ「権力の懐に飛び込んだ男」


NHKスペシャルで湯浅氏が政府に参画し、「貧困・困窮者支援」活動をするドキュメンタリーをみた。1人で走り回る湯浅氏。それを無表情でみる公務員たち。そうなんだ、公務員ってこうなんだな。彼らに貧困者のために懸命になる理由なんかない。ただの事務仕事の一つでしかない。

ネオリベラルの「小さな政府」が格差を生んだとその弊害が批判されているが、そもそも疲弊した大きな政府への反動としてネオリベラリズムは支持された。そしていまも公務員は非生産的である。なぜなら彼らには競争がないから。

NHKスペシャ「権力の懐に飛び込んだ男100日の記録」  http://www.nhk.or.jp/special/onair/100228.html


1年前、”年越し派遣村”の村長を務めた湯浅誠氏。NPOとして在野で活動を続けてきた彼が政府に招かれ、昨年秋から内閣府の参与となり、緊急雇用対策本部「貧困・困窮者支援チーム」事務局長として活動を始めた。待ったなしの貧困対策。カメラは、従来の枠組みを超え、官僚や政治家、地方自治体の間を自在に飛び回り、貧困者の対策に乗り出す湯浅に密着。「誰もが平等に尊厳を大切にされる社会」を理想に掲げ、現場一筋に解決策を見出してきた湯浅は、果たして行政に横たわる様々な障壁を乗り越え、効果的な施策を実現してゆけるのか。困難に直面しながら格闘し、時に挫折する湯浅の100日を通して、政治主導を掲げる新政権、そしてなかなか崩れない縦割りの官僚組織や、疲弊する地方自治体の現実を描いていく。




2) テイラーの「科学的管理法」


二十世紀はじめに書かれた生産管理の古典、フレデリックW.テイラーの「科学的管理法 マネジメントの原点」が復刊されて読んだ。「科学的管理法」とは、生産現場での生産性を向上するために活動を標準化・合理化し、管理者のもとに計画的に活動する管理手法のことである。

といっても、程度の差があれ、現在日本でテイラー主義が取り入れられてない生産現場はないだろう。日本の労働者は当たり前すぎて「科学的管理法」の元にあるとことを意識しないだろう。 
本書を読んでなにか面白いかといえば、その当たり前の必要性が書かれていること。すなわち人ってふつう懸命に働かないんだ、ということに気づいて驚く。

確かに現代でも安い人件費を求めて途上国で工場を立ち上げようとするとき、どの国に工場を建てるか判断する場合に、その国の賃金水準と共に、勤勉であるかという労働の質が問題になる。教育が普及し、近代化が進んでいない場合には労働意欲が低く、当たり前に怠けてしまう。だから「科学的管理法」の初歩から取り組むことになるだろう。 

スポーツには全力を傾けても、一夜明けて出勤すると、気合いを入れてできるだけ多くの出来高を目指そうとするどころか、たいていはいかに楽をしてその場をやり過ごそうかということを考えるのだ。全力を尽くした場合よりもはるかに少ない出来高、つまり多くの場合は望ましい量の三分の一から半分ほどの出来高でお茶をにごすのである。万が一、最大限の力を発揮して記録的な成果を上げたりしたら、仲間たちからは野球やクリケットで手抜きをした時よりも手ひどい仕打ちを受けるだろう。

あえて仕事のペースを緩めて十分な働きをしないで済ませることは、・・・ほぼすべての工場で見られ、建築現場でも珍しくない。批判を恐れずに述べるなら、英米の両国において、現状ではこれこそが労働者を蝕む最大の悪習である。

詳しくは後述するが、のらりくらりとした作業やさまざまな怠業を一掃するとともに、雇用主を働き手の関係を改め、一人ひとりの働き手が持てる力を出し切ってスピーディに仕事をこなし、さらに働き手とマネジャーの二人三脚、マネジャーによる働き手へバックアップなどを実現すれば、一人当たり、機械当たり、機械一台当たりの生産量は平均で二倍近くに伸びるだろう。P14


「科学的管理法 マネジメントの原点」 フレデリックW.テイラー (ISBN:447800983X



3) ネオリベラル(新自由主義)と人的資本


マルクスは労働を時間という量に還元した。労働者には時間に見合った賃金が支払われる。生産された商品の利益(剰余価値)は資本家に独占され、労働者は搾取されると考えた。これに対して、ネオリベラリストは労働を「人的資本」という量に還元できない質として考えた。だから労働者は学習し自らの能力を高めることで労働を一律の時間ではなくより高く売ることができる。重要であるのは労働者が自らを高め、高く売れる自由競争環境を整備することだ。

今では日本ではバイトでも当たり前に勤勉である。日本には高度な教育システムが発達しているだけではなく、気がつかなくても生活場そのものが洗練され高度に発達した教育現場として作動している。このような状態は国家計画によって作られてきたのではなく、自由主義経済の発達と共に、効率的な生産活動、活発な消費活動として作られてきたものである。すなわち科学的管理は社会環境として全面化している。

人類史上例を見ないほどに高い人的資本を獲得した日本。なのに公務員は非生産的で、労働力過剰により大量の失業者がうまれている。

人的資本の育成、つまり、所得を精算し所得によって報酬を与えることになるその種の能力機械の育成は、いったい何を意味するのでしょうか。これはもちろん、教育投資と呼ばれるものを行うことを意味します。この教育投資に関しては、実を言えば、厳密な意味での教育や職業訓練などによってもたらされるある種の効果が、新自由主義者たちを待たずして測られていました。しかし、新自由主義者たちは次のように指摘します。すなわち、教育投資と呼ばれるべきもの、あるいはいずれにしても人的資本の構成に加わるあらゆる要素、実は単なる学校での学習や単なる職業のための学習よりもはるかに大きく、はるかに多数である、と。

つまり、このようにして、アメリカで言われるような子供の生に関する環境分析に到達するということです。子供の生を計算し、それをある程度まで算定することができるようになるということ。いずれにせよ、人的資本への投資可能性という観点から子供の生を測ることができるようになるということです。P282-283


「生政治の誕生」 ミシェル・フーコー (ISBN:4480790489




4) 「嫌消費」環境

nikohide  http://twitter.com/nikohide/status/10350296233


嫌消費に関する本を読んだら、おしゃれな服や高い車をださいという感覚に若者が陥ってると書かれていた。長引く不況と満たされることの無い消費生活から、消費しなくても幸せになれる術を見出したんだと思う。生まれてからずっと不景気の世代をなめるなよ

若者の嫌消費はいまの日本の環境からは当然といえますね。不況世代であり、地球にやさしく教育をされて、楽しいデジタル情報環境に満たされて、またネットでは嫌銭思想が蔓延している。これで嫌消費にならずにおれ、という方が難しいでしょう。




5) 日本経済のダブルバインド


日本はダブルバインド状態にあるのではないでしょか。一方ではこのように消費悪として訓練されているのに、不況だから内需を増やすために消費しろと言う。このダブルバインドに日本経済はフリーズする。

これを止揚しようとするのが環境ビジネスです。消費(経済成長)しながら環境にやさしいを達成できるといいます。しかし現実には省エネ製品は普及しているのにCO2排出量は増加しつつけている。それでも経済成長していればいいのですが閉塞しつつある。

それに比べて、外国はとてもわかりやすい。前回の地球温暖化会議でCO2排出が多いアメリカ、中国ははっきりと環境より経済を優先することを主張しました。よくも悪くも「消費しろ!」という国民へのわかりやすいメッセージです。

ダブルバインド 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』


ダブルバインド(Double bind)とは、ある人が、メッセージとメタメッセージが矛盾するコミュニケーション状況におかれること。この用語はグレゴリー・ベイトソンによって造語された。

誤解を承知でわかりやすく例えると、親が子供に「おいで」と(言語的に)言っておきながら、いざ子供が近寄ってくると逆にどんと突き飛ばしてしまう(非言語的であり、最初の命令とは階層が異なるため、矛盾をそれと気がつきにくい)。呼ばれてそれを無視すると怒られ、近寄っていっても拒絶される。子は次第にその矛盾から逃げられなくなり疑心暗鬼となり、家庭外に出てもそのような世界であると認識し別の他人に対しても同じように接してしまうようになる。そして以下のような症状が現れる、とした。

言葉に表されていない意味にばかり偏執する(妄想型)、言葉の文字通りの意味にしか反応しなくなる(破瓜型)、コミュニケーションそのものから逃避する(緊張型)


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