なぜボクたちはこんなにせき立てられるのか 資本主義とせき立て

pikarrr2010-04-23

他者の欲望への欲望という先取り


欲望は他者の欲望への欲望である。このへーゲルの真理はラカンのいうように人類共通といえるが、まさに資本主義が積極的に社会原理として活用した。貨幣により一元価値化することで、共通の欲望の対象を生み出した。ものは貨幣価値一元化することで商品になり、他者の欲望となる。

マルクスはものは交換されて始めて商品になるといった。しかし商品はすでに転倒されて現れる。パッケージングされ、大量に積み上げられ、ディスプレイされ、広告されることで、交換される前にすでに商品であると宣言される。そこに他者の欲望があるように転倒されている。

すなわち他者の欲望が先取りされている。他者の欲望への欲望ということは、商品は他者が現に買ったからほしいではなく、他者がほしがっているだろうからほしいである。商品とは他者がまだ手に入れていない、手に入れる前にほしいものとして現れる。だから欲望はいつも先取りなのである。





イノベーションというせき立て


このような他者の欲望の先取りはせき立てられる一つ動力となる。資本主義ではこのようなせき立ては一元的な貨幣価値によって整流されることで、生産者・消費者という大きな潮流としての動力となる。

たとえば資本主義経済が成長しつづけられるのは資本主義の仕組みがもつ必然ではない。逆に資本主義は経済成長し続けなければいきながらえることができない、という綱渡りの状態にある。それが産業革命から数えても200年以上続いており、いまのところ危うさの欠片もないのは驚きである。

このような驚異の経済成長を可能にしているのがイノベーションであると言われる。イノベーションは既存を破壊し、再構築し続けることで経済成長を可能にする。イノベーションとは単に技術革新ではなく、新たな商品を生み出そうとする無数の様々な試行錯誤である。

これをケインズはフロンティアを目指すアニマルスピリッツと呼んだが、ここにも他者の欲望の先取り先取りはせき立てられる。フロンティアは単に誰も踏みはいったことがない処女地ではなく、他者がまだ手に入れていないほしいものとして先取りされることで、フロンティアになる。

アンディグローブの有名な言葉に、パラノイア・イズ・サバイバル」がある。企業では他社がなにがやってくるんじゃないかと偏執狂のように疑心暗鬼になり開拓し続ける者だけが生き残るということだ。




資本主義の倫理としてのせき立て


このようなせき立ては開拓者の欲望ということではなく、資本主義社会に充満している。人々はなぜこんなにせき立てられているのか知らないが、資本主義社会ではいつもせき立てられているといえるだろう。

資本主義社会の前、人々は自給自足の農業生活で貧しく重労働を強いられ年貢の徴収に追われていたが、せき立てられることはなかった。時計が一般化するのは一部都市で賃労働が広まりだしてからである。そして産業社会では分業による生産の効率化によって他者との時間的な同期が必然となる。さらに他者との同期は大量生産を吸収する大量消費においても求められる。

せき立ては資本主義においては倫理にまで高められている。ウェーバーが指摘したようにベンジャミン・フランクリン「時は金なり」は、決して資本家による搾取のための強制でもなく、時間を無駄にしない勤勉さという資本主義の倫理なのである。




無垢への欲望のパラノイア


別に自分は自分で他者とは関係ないと言おうが同期は社会的な基盤になっている。貨幣価値によって整流されることで、双子のような限りなく近似的な他者がうまれている。

現代人が多様化しているというが正確は細分化である。他者との差異をより切り刻み近づきつつ深化させて個性を見いだそうとする。だから現代の多様化とはまた他者との同期過程である。同期過程がたえず他者の欲望の先取り(フロンティア)へのせき立てを生み出す。そして細分化されたそれぞれのフロンティアの征服者として自己承認が行われる。

だから現代人において無垢への欲望は偏執狂のごとくである。絶えず新しいものをもとめて殺到し続ける。現代において商品として売られるのは無垢である。消費するとは無垢を汚すことである。

クリスマスの日の焦りは誰かがどこかで楽しくやっているんじゃないかというせき立てである。クリスマスが最大の消費を活性化する日であるのは偶然ではない。クリスマスは消費文化が作り出し人々をせきたてることに成功した。

そしてネットによってせき立てはさらに加速しているといえる。ネットの成立を表す言葉はなにをそんなにコミュニケーションすることがあるのか、ということだろう。どこかで誰かが楽しくコミュニケーションしているのではないというフロンティアを無限に産出し続ける。そして新たな出会いに現れる無垢を消費しまた次の出会いへという、安価に無限の無垢が産出される中でネット中毒(アディクト)に導かれる。

しかし無垢の欲望がもっとも顕著に表れるのはエロティシズムの分野である。エロティシズムは人間の本能などではなく時代の文化によって現れる。資本主義下の無垢への欲望のパラノイアはまさに多様なエロティシズム文化を生み出す原動力になっている。




ラカンの囚人ゲーム


黒の札が二枚と白の札が三枚から、1枚ずつ3人の囚人の背中に張られた。囚人は他の二人の札を見ることができるが自分の札の色を見ることはできない。最初に自分の札の色がわかったものは釈放される。実は三人とも白の札が貼られている。彼らにそれがわかるだろうか。

囚人達は他の二人の札が白であることはわかる。だから自分の色は白でも黒でもあり得る。もし自分が黒であった場合、他の一人は自分も黒ならもう一人は他の二人が黒、黒なのだから自分は白だとわかり、申告するだろう。だから三人がこの理屈に到達してなお申告しないという一瞬にのみ、申告することができる。

他者はこの理屈に到達したのか、それでも申告しないのか。三人は相手の様子をうかがい続けせき立てられる。まさにそこにフロンティアは現れる。

ラカンは言います。 「確言の主語である〈わたし〉は、論理的時間の合い間によって、他人から、つまり相互性の関係から独立する」。 つまり、心理学的な意味での「わたし」なるものは、嫉妬などを含む他人との競争を主観化していく過程から、論理的形式として導き出されるということです。 ここであるいは、「ゲームに勝って開放されたい」という欲望があらかじめそれぞれの主体にあるではないか、という反論が出されるかもしれません。 しかし、この寓話の本質的な意義を考えるなら、ここはむしろ逆に考えるべきでしょう。 つまり、そこに他者があり、ゲームの規則があるからこそ「せき立て」が起こり、そこから「欲望」「行為」が生ずるのではないか、という可能性です。


Freezing Point 「三人の囚人の話」「せき立て」 http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20070604


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*1:画像元 拾いもの