現代の知の基盤はどこにあるのか
哲学のエビデンスはどこに
pikarrr*1: 哲学のエビデンスはどこにあるのか。過去の哲学のつみあげによるたとえば柄谷のトランスクリークでのカントとマルクスの融合からの新たな哲学へ。それはエビデンスになりえるのか。だから誠意ある慎重な積み上げが必要である。
pikarrr: しかしこのような哲学の積み上げはそれ自体が一つの様式である。すなわち積み上げは言語により行われるゆえに言語様式に依存する。だから構造主義以降、エビデンスは軽視され、知の欺瞞事件がおこった。
yhosok*2: 哲学は精神の「プトレマイオス的転換」で起きる言語の空回り、なんですかね。
pikarrr: 言語に依存せざる負えないことに逆らう言語メディアというパラドクスにより自己破壊。科学実証主義への敗北。
ウェブは脱構築世界
pikarrr: 哲学はもはや対話による運動にしかないのかもしれない。すなわち脱構築とは自己完結ではなく対話による運動。
yhosok: 似たようなこと、昔柄谷行人の本で出てきましたね。>対話。
pikarrr: いや、ボクがいっているのはすべてが対話として脱構築にさらされるなら、右でも左でもみんなすきかってにしてほっておけばよい。
yhosok: 私は詳しく知らないのですが、「脱構築」は構築が前提なので、放置、とはちょっと違うんじゃないですか?
pikarrr: 脱構築。テクストは論理的であるようですべてメタファーでできているのでそれを炙り出し宙ずりにする。ようするに挙げ足とり。そんなのウェブではみんなやってる。ならみんな好きにすればいい。脱構築世界なんだから。
yhosok: 確かに情報化社会と言われるものは、脱構築的世界なんでしょうね。意味の力が剥奪されて、差異が戯れる世界ですから。ただ、一方で規律訓練されてないとイカン、というのは依然あるわけですよね。
pikarrr: いかんというか規律訓練されていることが資本主義社会成立の大前提。
現代の信頼を支える科学実証主義
yhosok: ただ、科学者は基本的に「常識」に立脚して、ある場面でのみ「科学的」に思考する、とすれば敗北と言えないような。
pikarrr: ベットからテレビでゲゲゲの女房視聴中。科学実証主義あってこその快適。この生活で科学を礼賛しない人はいない。
yhosok: でもそれは思想とか世界観ではありませんよね。そこを「ベッドからテレビ見れる生活世界とは」となれば世界観。科学者は後者について関心無いのでは。
pikarrr: 科学者もいち生活者。この強烈な快適をもたらすものを信じずなにを信じるのか。科学者はまさにそれを信じるから科学者。
yhosok: それはどうなんでしょう。普通は他の職業と同様、業界での評価を求めて黙々と仕事してると思うのですが。
pikarrr: 商売は科学実証主義の上に建つ。
pikarrr: たとえばボクたちが街を歩くときなぜ安心していられるか。規格化されているから。舗装された道路。シンメトリーな建物、通路。そこに科学実証主義による管理の痕跡を見るから。
経済は経済学にしかない
yhosok: 私は逆に、マス的に、つまり五体満足な標準的人間像に合わせて街を設計するから、と考えるんですよね。そうじゃないと売れない、と。
pikarrr: 大量に生産しないとコストが高い。軽自動車でも特注品で作れば億を軽く越えていく。
yhosok: なるほど。私は経済がリアルだ、という発想なんですよね。
pikarrr: 経済は多くのおいて経済学でてきている。経済学はあくまで近似計算モデルだか、計算された結果、企業の貸借表や国の総生産などが、次のマクロな経済行為を生み、リアルな生活エコノミーに多大な影響を与える。このような経済学手法はたえず変化している。
yhosok: 経済学が経済現象に先行する、というのが信じられないんですね(笑)。確率的に勝算ある行為をあちこちでやった、その集積を事後的に記述しているのじゃないかと。
pikarrr: 貨幣価値は一元的で管理しやすい。経済学は貨幣の管理方法として生まれた。そもそも経済は貨幣価値はだけに還元できない。だから貨幣経済は経済学にしかないといえる。
yhosok: でもそれは現状認識であって、管理はできないのでは。企業活動は常にそれより先んじてるわけですよね。
pikarrr: 経済は生き物のように管理しきれないからといって、無秩序に発展しているわけではないですよ。ルール、仕組みがあり管理しなければ育たない。そのマクロな仕組み作りに経済学の指標が使われているのです。人が規律訓練されるのもその一つです。
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