なぜ現代の「他者回避」は「和を重んじる」ことの成熟なのか

pikarrr2010-05-14

日本人の非連続性


日本の大衆音楽史を語る場合には、日本音楽史のみを語っても意味がないだろう。西洋音楽史と平行して語る必要がある。連続性を持つのは西洋音楽史で、日本の音楽は各時代ごとに西洋から輸入され改良される。だから日本大衆音楽史は非連続的である。

これはそのまま明治以降の日本の思想史、そして精神史にも当てはまるのではないだろうか。「日本人とは」という日本人像のとらえにくさの理由のひとつがそこにある。多くにおいて日本人論が世代論として語られるのはそのためだ。

私達の伝統的宗教がいずれも、新たな時代に流入したイデオロギーに思想的に対決し、その対決を通じて伝統を自覚的に再生させるような役割を果たしえず、そのために新思想はつぎつぎと無秩序に埋積され、近代日本人の精神的雑居性がいよいよ甚だしくなった。

・・・問題はむしろ異質的な思想が本当に「交」わらずにただ空間的に同居存在している点にある。多様な思想が内面的に交わるならばそこから文字通り雑種という新たな個性が生まれることが期待できるが、ただ、いちゃついていたり喧嘩したりしているのでは、せいぜい前述した不毛な論争が繰り返されるだけだろう。


「日本の思想」 丸山真男 (ISBN:400412039X) P63-64




「和を重んじる」「他者回避」


それでも、連続性を見いだせる日本人の特徴もある。たとえば「和を重んじる」。集団を重視し主体性が低い、という特徴は、どこに帰属意識の重点を置くかの違いだけで今もかわらないのではないだろうか。

たとえば最近の若者の特徴である「他者回避」は、日本人が自立した主体として西洋化しつつということではなく、逆にいまも「和を重んじる」帰属意識の引力働いている故にそれを回避しようという特徴だと言える。

グローバル化した商品貨幣交換社会であるが、日本ではより洗練された形態になっている。たとえばファーストフード、ファミレス、コンビニなどのようなマクドナルド化が多くの品種で全国に展開されている。

どこでも誰でも24時間、等しい価格という平等を実現している。これは商品交換では当たり前だと思うかもしれないが、世界的にはいまだに市場(いちば)での定価のないその場での交渉による商品交換が一般的だ。日本のような高度に発達した消費社会を実現するには全国に高度な商品ネットワークシステムが張り巡らされている必要がある。

このような高度消費社会によって、安価で「他者回避」しながらそれなりに快適な生活ができてしまう。そして若者は快適な環境の中で、日本人の集団圧を感じていることの裏返しとして、「他者回避」を望む。その反動として、若者はネットで「コンビニエンスな他者」とのつながりを過剰に求めている。




「他者回避」「和を重んじる」ことの成熟した形態


日本人の「和を重んじる」性向がどこに起源を持つかは色々議論があるだろうが、明治以降は西洋に対抗するため「和を重んじる」総力戦で進めてきた経済成長戦略の帰結として、世界に例を見ないコンビニエンスな社会を作りあげた。

そして継続する「和を重んじる」ことへの裏返しとして「他者回避」をする。あるいは儀礼的無関心を消費社会の倫理であるとすれば、「他者回避」は高度消費社会おける「和を重んじる」ことの一つの成熟した形態といえるだろう。

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