なぜ日本人は異文化を吸収するのがうまいのか

pikarrr2010-06-07

思想は身体訓練で伝承される


日本人に思想が無いわけでなく、わざ、習慣、身体訓練として伝承され、言語化されないわけです。実は思想の在り方としてはこちらが一般的です。太古から民族はそうして思想を伝承してきたわけです。

まず理解しないといけないことは、言葉は思想伝達法としてほぼ使いものにならないということです。たとえば会ったことも見たこともない民族がいて彼らの思想について書いた本を読んで何がわかるでしょうか。実際に一緒に生活してみないとなにもわかりません。

言語信仰に毒された現代人にはこれを理解することがまずできない。まさに「馬鹿の壁」が目の前にある。*1

たとえば旨いザーサイを食べたリボーターはいかに読者にその旨さを伝えるか。日本人同士は親しげに「食べてみなよ」と勧めます。西洋哲学者はそれをメタファーや造語を駆使して伝えるわけです。それは実際に食べるより素晴らしくみなを魅了するわけですが、正確な伝達とは別です。




言語思想の暴力性


言語で思想を伝えなければならない状況はとても極限的な状況です。その状況とは多民族に自らの思想の正当性を訴えかける弁論述です。

日本人が日本人論を書き始めたのは明治入り知識人が留学を始めてからです。島国日本では思想は、わざ、習慣、身体訓練であり、他者に自らの思想を訴えた経験もなく、当然、うまく言語化できない。それが近代日本知識人の劣等感だったわけです。

いまでもよく、日本人は明確な言語思想をもち外国に主張しなければならないといいますが、本当でしょうか。言語思想を語りあえばわかりあえるのでしょうか。

そもそも西洋の近代思想はいかに発展したか。世界の資本主義化と密接な関係があるわけです。すなわち西洋の貿易先(資本主義)を広めるために、海外に向けては植民地化の正当性を巧みに訴えるためです。たとえば日本人もアジアへ侵略した時は珍しくその思想を懸命にしゃべりましたね。




日本人思想の成功法則


日本人は辺境島国に棲み言語思想の習慣を持たない。だから海外から伝わる言語思想が入ってきても、対立する言説がなく寛容ですぐに「かぶれ」る。日本人はいままでの日本人はダメだといいつつ、世代ごとに到来する渡来思想にかぶれている。しかしこれは習慣としての日本思想にすぐに影響がないからできてる、うわっつらです。

たとえばラップミュージックは日本に輸入され30年近く経ちやっと歌謡曲レベルにまで浸透してきましたが、日本人に「YO!」とか言われるとお尻がくすぐったい。

外来思想が真に日本人の思想に影響を与えるには時間をかけて習慣化するときです。人が一度覚えた習慣は簡単に変わらないことを考えると、世代を変えないと新たな習慣は吸収されないといえます。そして習慣化される長い過程で外来思想はいつの間にか日本風にアレンジされているわけです。ここに日本人の伝統的な成功法則があります。

芥川龍之介はたくさんの短編小説を書いていますが、素材から見て、主に、明治の文明開化期、十六世紀のキリシタン平安時代「今昔物語」などに依拠しています。それらの選択は恣意的に見えます。しかし、よく見ると、芥川に、彼が生まれる以前の日本人が、外国の文化や思想をどのように受け取ったかという問題を検証しようとする一貫した意思があったように思われるのです。

それを明確に示すのが、「神神の微笑」という作品です。これはいわゆるキリシタンものの中で最も重要な作品です。ここには特に筋のようなものはありません。主人公、イエズス会の宣教師オルガンティノは、日本の風景を美しく思い、キリスト教の広がりにも満足しているのですが、漠然と不安を覚える。「この国の山川に潜んでいる力と、多分は人間に見えない霊と」戦わなければならないと、彼は考える。彼はしばしば幻覚におそわれるのですが、そのなかに老人があらわれます。彼は日本の「霊の一人」であり、日本では、外から来たいかなる思想も、たとえば儒教も仏教も、この国で造り変えられる、と語ります。《我我の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。》P62


「日本精神分析 柄谷行人 (ISBN:4061598228




日本人は資本主義に順応し民主主義に順応しない


近代化の過程で日本人は、護送船団型資本主義のように独自のアレンジをしながらも資本主義によく順応しました。これは産業技術が実践的で習慣訓練化しやすいからでしょう。それに対して民主主義はうまく修得できていません。これは民主主義思想が多分に言語思想だからでしょう。

左翼の本質は主知主義であると言われます。主知主義とは、知性、理性、悟性を重視する思想です。人の知性によって世界は設計できるということです。言語化できない習慣は重視されません。

現代日本においてこれだけ世界に誇る技術大国になっても、西洋の哲学思想という言論術は中二病者の屁理屈としてしか受け入れられていないのが現状です。




資本主義への順応しすぎと中二病的言語思想


現代日本人の問題は言語思想を持たないことよりも、あまりに資本主義に順応しすぎていることにあるのかもしれません。資本主義、すなわち貨幣価値を基本とする社会システムへ順応しすぎると、「形式的合理性」の問題に陥ります。予測可能性が高い、コンビニエンスで安全な社会の中で人々が無気力あるいは、漠然とした不安に陥っていく。

現代の日本人が「自分たちの言葉を持ちたい」と思うことの背景には、異文化に向けて自己の正当性を主張したいというよりも、あまりに資本主義に順応しすぎたことによる閉塞からの反動があるのかもしれません。

日本人が自分たちの言葉を持ちたいというとき。留学中か?思春期(高度消費社会では大人になっても思春期が続く)か?童貞か?9割これに当てはまりますね。



なぜ、市場原理主義が貧しい形式的合理主義・マクドナルド的な再帰性に陥るのか・・・マクドナルド化における予測可能性とは、偶然性を排除することであり、計算可能性においては、質より量を重視する。

マクドナルド化は、形式的合理性の内部に留まり、実質的合理性を欠く事態を指す。ここから形式合理性の内部で反射的に振る舞うマクドナルド的主体」という概念が導き出される。哲学者の東浩紀は、この「主体のマクドナルド化動物化という概念で記述している。動物化とは、・・・通常の主体と構造は変わらず、形式的合理性の論理で行動するマクドナルド的主体」を指すものと考えられる。


ネオリベラリズム精神分析 樫村愛子 (ISBN:4334034152

*1:参照 「再び、なぜ人は「フレーム問題」に陥らないのか」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080529#p1