なぜ日本人には民主主義は浸透しないのか

pikarrr2010-06-08

「貨幣の前の平等」から「民主主義の平等」


人は生まれながらの特性も違うし、育つ環境も違うし、習慣において平等というのはありえないですね。歴史上そんな文明はなかった。それが、資本主義が全面化したときに大きな変化が起きる。貨幣交換が浸透すると貨幣の前に平等が生まれる。

貨幣交換では相手が誰だろうが貨幣を持っていることで商品交換が成立するという「貨幣の前の平等」がうまれる。これは今で言えば自由主義思想ですね。自由に経済活動を行うことで平等は自ずと達成される。

しかし資本主義が浸透する過程でどうもそうまくいかないことがわかってくる。たとえばマルクスが注目したのが貨幣交換ではなく資本です。貨幣が資本という形態を取る場合には「貨幣の前の平等」とは異なる挙動をする。

資本は貨幣交換機能を超えて、貨幣を生み出す。そして資本家は生み出された貨幣を独占している。だから平等はもっと能動的に目指すべきものである。「貨幣の前の平等」を超えて平等を様々に拡張する「民主主義の平等」が考えられる。すべてを平等に社会設計する社会主義思想が生まれた。

現代では「民主主義の平等」の極限を目指す左翼思想は廃れましたが、右派、左派は基本的にこの流れに準じているでしょう。中道右派(保守派)は、「貨幣の前の平等」を重視し、自由主義市場経済が浸透することで平等な社会が達成されていく。それに対して、中道左派(リベラル)はそれだけでは不十分で富の不平等がおこるから積極的に富の再配分制度を導入する。




「民主主義的な平等」を習慣化することの困難さ


「貨幣の前の平等」市場経済が浸透することである程度習慣化されて社会に根付くでしょう。実際日本の資本主義は護送船団型としてやって社会に習慣化されて根付きました。不平等(搾取)はおこっているでしょうが、社会全体が豊かになることで許容されてきた。

それに対して貨幣の前の平等を超えた「民主主義的な平等」は、まず言語思考し、理論化して、法整備して制度を作り、さらに教育して、実戦として習慣として社会へ浸透させなければならない。特に言語思考から理論化する習慣に乏しい日本人の苦手な領域です。

過剰な平等は習慣によって社会秩序を維持することに長けた日本人には、杓子定規で感じるでしょう。だから西洋での制度導入を横目に、理念への理解とは関係なく、導入してみるということになります。




民主党支持の左旋回が目指すものは


では現在日本でおこっている長期自民党保守政権から民主党政権への左(リベラル)旋回はいかなる意味を持っているのでしょうか。遅ればせながらとうとう日本にも市民(プロレタリア)革命が起きようとしているのでしょうか。

事業仕分けのパフォーマンスに一喜一憂し、首がすげ変えただけで支持する。そこには民主主義の権利と責任のような理念とは別世界ですね。

「貨幣の前の平等」はまた人を無名にすることで孤立させます。だから資本主義への高い順応は自由ですが、孤独である社会を作ります。護送船団型会社社会は個人を地域コミュニティから孤立化させることでまた会社コミュニティへの強い帰属を生み出しました。

しかし護送船団型会社社会が解体しつつあるいま、もどる地域コミュニティもなく、孤立した人々はもはや政府に頼るしかありません。しかし正確には「貨幣の前の平等」による自由気ままを経験している人々の目当ては政府の財布です。「貨幣の前の平等」の習慣を自由に生きたいが先立つものがない。だから富の分配に群がる、ということでしょう。

日本人が民主主義なる理念を習慣化する日が来るのか。そもそも必要なのか。サンデル先生*1に相談しましょうか。

仏教が日本に迎えられた最初の時代には、それはどういうふうに理解され信仰せられたのであるか。・・・当時の日本人の大多数が原始仏教の根本動機に心からな共鳴を感じ得なかったことは、言うまでもなく明かなことである。現世を止揚して解脱を得ようという要求を持つには、「古事記」の物語の作者である日本人はあまりに無邪気であり朗らかであった。

・・・彼らは仏教を本来の仏教としては理解し得なかった。彼らは単に現世の幸福を祈ったに過ぎなかった。それにもかかわらず彼らの側においては、この新来の宗教によって新しい心的興奮が経験され、新しい力新しい生活内容が与えられたのである。しかもそれは、彼らが仏教を理解し得たと否にかかわらず、とにかく仏教によって与えられたのである。従って彼らは、仏教をその固有の意味において理解し得ないとともに、また彼らの独特の意味において理解することができた。P45-46

かくして受容せられた仏教が、現世利益のための願いを主としたことは、自然でありまた必然であった。彼らは現世を否定して彼岸の世界を恋うる心を持たなかった。・・・がこれを、ある人がいうように、「功利的」と呼ぶのは正当ではないであろう。彼らの信仰の動機は、物質的福祉のために宗教を利用するにあるのではなくして、ただその生の悲哀のゆえにひたすら母なる「仏」にすがり寄るのである。この純粋の動機を理解せずには、彼らの信仰は解し得られないと思う。P52


「日本精神史研究」 和辻哲郎 (ISBN:4003314476


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*1:日本人に哲学思想は必要か NHK「ハーバード 白熱教室」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20100531#p1

*2:画像元 拾いもの