なぜリベラリズムは慣習が交差する限界状況で求められるのか

NHK教育ハーバード白熱教室 Lecture1 犠牲になる命を選べるか http://d.hatena.ne.jp/happysmiletalk/20100408/p1


あなたは時速100kmのスピードで走っている車を運転しているが、ブレーキが壊れていることに気付きました。前方には5人の人がいて、このまま直進すれば間違いなく5人とも亡くなります。横道にそれれば1人の労働者を巻き添えにするだけですむ。あなたならどうしますか?

そこからさらにサンデル教授は別のケースを提示します。では路面電車の別のケースを考えてみよう。こっちのケースでも『5人を助けられるなら1人が死んでも仕方がない』という原理をみんなが支持し続けるかどうか、見てみよう。

今度はキミは路面電車の運転手ではなく、傍観者だ。電車の線路のかかる橋にいて見下ろしていると電車の来るのが見えた。線路の先には5人の労働者がいる。ブレーキは効かない。このままだと電車は猛スピードで5人に突っ込み、5人は死ぬ。今回はキミは運転手ではない。

『なんにもできない』と諦めかけたとき、自分の隣に橋から身を乗り出しているものすごく太った一人の男がいることに気づく。もしキミがこの太った男を突き落とせば、彼は橋から走ってくる電車の前に落ちる。彼は死ぬが5人を助けることができる。さて、『彼を橋から突き落とす』という人は?




哲学とは限界状況で考えること


この問題は面白いが結果論でしかない。5人殺すか1人殺すかという問い自体が存在しない。死ぬ人数は事後的にしかわからない。だから誰も殺さないために1人側に向かう。また死ぬかどうかなんかまだわからないのに見学者を犠牲にするがわけない。

これを客観主義の誤謬という。これは限界問題を生み出すトリックであるが、このように限界で考えることが哲学である。実際は別に無理に限界で考えなくても問題もないわけだし、なかなか実際に限界的な状況は存在しない。

しかし近代社会は流動化が向上しせき立てられて限界に近い状況に追い込まれることが増えているともいえる




日本人のハイウェイ社会


日本人はハイコンテクストな「ハイウェイ社会」を生きている。みなが単一の価値を共有し、その価値で円滑に進行できるように社会環境が整備されている。だから日本に住む限りハイウェイのように鼻歌まじりに生活できる。

海外では生活圏を抜けるととたんに多様な見知らぬ価値に出くわし、限界状況につまずいてしまう、いわば凸凹道である。だから回りに気を配り、鼻歌まじりに生活するわけにはいかない。

日本人が凸凹道に躓くのは思春期だろう。それは若者が大人の引いたレールを走りたくない!ということもあるが、最近では甘やかされて育った若者がうまくハイウェイに乗れずに、限界状況に突き当たる。いじめとか、引きこもりなども円滑にハイウェイに乗れない限界状況の一例だろう。

限界状況は海外では多民族間に、日本では若者に現れやすい。日本では哲学が社会思想として必要とされず、思春期の悩みとして消費されるのはこのためだ。




ハイウェイとハイウェイが交差するとき限界状況が生まれる


「ワクチンの優先順位で誰を先にすべきか」も政治思想的には限界状況として現れる。もし功利主義なら子供となり、老人が一番後になるのだろうか。実際にそんなの聞いたことがない。普通は子供が先で、次に老人で、最後が健全な成人だろう。

これは弱いものを助ける慣習と考えた方がいい。慣習には限界状況はない。そうだからそうなのであって、ようするにハイウェイだ。

しかしワクチンの優先順位で、ある共同体の慣習が弱い者から助けることを善として、もう一つの共同体が強い者から助けることを善とする場合に、これらが混ざった共同体群ではどうするのか。このハイウェイとハイウェイが交差するとき、限界状況が生まれる。すなわち「ハイウェイ」というメタファーの意味は、その共同体の「いわずもがな」の慣習、善である。




子世代が親世代に寄生する現状は日本人の慣習による


たとえば日本で若者の正規雇用の就職率が低い理由のひとつは、自由競争ではなく、既得権益を重視する慣習があるからだろう。これは、やや強引にいえば、江戸時代からの農民の家父長制がのこっている面があるだろう。家長の雇用を重視して保護する。すると子の世代の就職が犠牲になる。

だからフリーターやニートにより子世代が親世代に寄生しつづける傾向はあながち間違っていない。誰にワクチンを打つか。誰に正規雇用を与えるか。

果たして、日本人ハイウェイのままで国際競争力に勝っていけるのか。ここでサンデル先生が登場する。「キミたちの意見が聞きたい!」