日本人のハイコンテクスト社会

pikarrr2010-07-19


文化のリズム
 1 文化は振動によって伝達されていく
 2 言語という人間のリズム
 3 日本語はハイコンテクストな言語

日本人の民主主義と資本主義
 4 日本人と理性
 5 日本人の慣習とリベラリズム
 6 日本人の民主主義

日本人の成功法則
 7 日本人の成功法則
 8 日本人の「和」と「他者回避」 
 9 日本人の国家依存

ハイコンテクスト社会
 10 日本人の同期することへのどん欲さ
 11 日本人の習慣の破れに対する強迫性
 12 日本人に甘えが氾濫する

超ハイウェイ社会
 13 日本人のスノビズムマクドナルド化
 14 マクドナルド型生権力
 15 日本のハイウェイ格差社会

 

参考文献  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20100718#p1



文化のリズム



1 文化は振動によって伝達されていく


NHKの実験バラエティ番組すイエんサーhttp://www.nhk.or.jp/suiensaa/)の中で面白い実験をやっていた。仕切りの前で被験者に足踏みをさせる。そして仕切りをとると、もう一人の被験者が足踏みをしている。始めは当然、二人の足踏みはバラバラであるが、しばらくすると自然とあってきてしまう。では意図的にずらすように指示するがうまくできない。この実験は人は相手を見ることで基本的な動作のレベルで同調してしまう特性があるということを示している。

ボクたちが日々を他者に囲まれて生活しているということでは、しらずしらずに同期しているということだ。たとえばこのような同期を波のようなものと考えると、視線を通して波の振動は絶えず人の間を伝達されてつづけているということになる。

また人が生活しやすいように生活環境をつくることは、波を円滑に起こすような場の形成を意味する。すなわち波は生活環境にも共鳴し、その場にいる人はまた環境によって波が伝達されやすい状態に置かれる。このようにして生活場は一つの振動圏が形成されているということだろう。


このような同期を軍隊のような規律統制と考える必要はなくて、波は波を交差することで新たな波を生み出していく。たとえば1/fゆらぎとか、フロー体験とか、同期の中のある離脱が心地よさ、楽しさを生み出すといわれている。同期とはこのような遊びも含んだ上での同期だろう。

たとえば会話するということはまさにこのような同調が行われているのだろう。面と向かって話すことでなにか解り合えるようなことだけではなく、そこでは呼吸から言い回しから同期が起こっている。このようなコミュニケーションの振動場の中で、ローカルな文化は生まれ、伝達されていく。




2 言語という人間のリズム


たとえば宗教の基本は反復です。意味のわからないお経を繰り返し、祈りの動作を繰り返す。これってすごく言語ゲームなんです。宗教の教え=規則を理解すること以上に訓練し習慣化させること。これによって言語ゲームに深く引き込まれていく。

教えを理解することが重要ではなく習慣の先に悟りがある。これに対して哲学はたえずみずからをみずからの言語ゲームのメタ位置にたとうとする運動といえるかもしれません。しかしウィトゲンシュタイン的にいえばほんとにメタ位置は存在するのか、ということでしょう。なんらかの言語ゲームに帰属しないとコミュニケーションそのものが不可能で、それは習慣として深く刻まれている。

お経や呪文の重要なところは「リズム」です。それはある種の音楽。音楽は運動性であり、言語理解と異なる経路で体にしみ込み、刻まれる。反復することで訓練される。たとえば軍隊の訓練でもリズムが重視されます。


言語(記号)論は、意味論、統辞論、語用論に分類される。統辞論はシニフィアンのパターン、意味論はシニフィアンシニフィエの関係のパターン、語用論はコンテクストとの関係のパターンが研究される。

あるいは論理学と修辞学の分類がある。論理学は形式的な言語論理のパターン、修辞学はレトリックのパターンである。これらの中で、語用論と修辞学はもっとも、パターンを超えた創造の領域を扱う領域である。

後期ウィトゲンシュタインの日常言語の研究は語用論、修辞学に近いが、日常会話というさらに生で多様な柔軟な領域についてである。だからこの多様な日常会話の成立はいかに基礎づけられているのか、ということだ。語用論のようなコンテクスト分析では不十分なのである。

だから言語論のパターン研究は逆にさかのぼる必要がある。これは言語がもつ多様さを縮減し、より限定した領域を想定していることを示す。

日常会話・・・行為(リズム)

修辞学、語用論・・・コンテクスト

意味論・・・意味

論理学、統辞論・・・形式

通常の会話を分析するにはコンテクストでは不十分であることをウィトゲンシュタインは示した。ウィトは日常会話と成立させているものを、訓練による習慣であると考えた。すなわち「リズム」である。再度言えば、リズムという例え(メタファー)でいいたいことは、規則性があるが言語のように理解することがでぎず、体でおぼえるしかない、ということだ。

人は無限の可能性のもと生活しているように錯覚しているが、人は身についた限りあるリズムにそって行為している。このリズムは行為であって、経験の反復(習慣)の中で身につけていく。そしてウィトゲンシュタイン「私的言語は存在しない」といったように、社会環境の中で他の人のリズムと共鳴して身につけていく、一つの文化である。

だから原理的には無限の意味が発生する日常会話は、限られたリズムの共鳴として収束し、言語ゲームとして成立している。語用論でいうコンテクストという「空気」のような曖昧なものは、リズムによって基礎づけられて成立している。

参照
言語ゲームというリズム その1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090825#p1
言語という人間のリズム その2 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090829#p1
言語ゲーム」のグルーヴ その3 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090906#p1




3 日本語はハイコンテクストな言語


英語など欧米言語と比較して日本語の特徴は主語が省略されることだ。言語学的にこの特徴は「場の共有」によると言われる。同じ場を共有していることが当然の前提とされているために主語を付ける必要がない。すなわち日本語はハイコンテクストな言語と言うわけだ。たとえば主語を付ける場合にも、"I"に対して、私、オレ、ボクなど、場によって使い分けがなされるのも、コンテクスト重視の傾向だろう。

さらに日本人のハイコンテクストを究極的に表すのが俳句だろう。俳句が伝えるのは当然、コンスタティアブな意味ではなく、レトリカルな意味である。しかし単に言語学的なレトリックに収まりきれない世界観の伝達である。五七五の文字でなぜに世界観まで伝達しえるのか。いかに高いコンテクストの共有が前提とされているかわかる。

だから逆に日本人にすると、いちいち主語をつける西洋人の方が不思議である。コンテクストに関係なく誰に対しても"I"と主張する。彼らは空気を読まないのだろうか。しかしこのような個人主義的な「場」からの切断力がなければいまのような科学技術も資本主義も民主主義もなかったのだろう。そして現代の日本語は明治以降の近代化で大きく変わった。西洋文化輸入と共に西洋語の翻訳的な言葉として「国語」が生まれた。

この傾向は西洋の個人主義の導入によって日本人のハイコンテクストが解体されたというよりも、国民(ナショナリティ)を想起することで、特に日本においては集団主義によってハイコンテクストを強化した面が強いだろう。それが特に資本主義経済の生産性向上にも大きく貢献した。



日本人の民主主義と資本主義



4 日本人と理性


現代では理性は古臭い概念だと考えられている。たとえば思想史で語れば、十七世紀に現代哲学の始まりとされるデカルトは論理的に理性を担保しようと考えた。十八世紀の啓蒙主義では理性の担保はデカルト的演繹から、ニュートン帰納へ移った。

隠された世界の法則は実験により発見される。理性は真実へたどり着く意志である。しかしヒュームの懐疑から、カントの理性批判を経て、十九世紀には隠された真理への到達は断念される。

しかし現実に心理学、社会学など人間科学技術への熱狂は増すばかりでありそこには神はサイコロを振らないという法則性への情熱がある。それは今もかわらない。もはや基礎付けする主体の理性を求めるよりも人類という全体の理性を求める。

たとえばニュートンが天体の動きを数学の完結性で説明した衝撃はいかほどだっただろう。あるいは人口統計から正規分布などの法則性が見いだされた衝撃は。オッカムの剃刀はまさに人々に理性を信仰させる強烈な魔力である。

たとえば最近では脳科学還元主義がある。様々に人の脳の機能に還元されて語られる。男と女の違い、様々に人の振る舞い。これは単なる無知ではなく、変わらない理性を求める情熱である。


確かに近代前にも理性は求められた。しかしそれは学問をめざすものなど一部で、土着に生活する多くの人は確かなものなど求めなかっただろう。なぜ近代以降に過剰に理性が求められるのは、始まりのデカルトにすでに解があるだろう。

デカルトはまだ人々が土地に根付いた土着の時代に旅人であった。さまざまな文化に触れて確かなものとはなにかと考えるようになる。しかしこれを単に好奇心だけといえないだろう。そこには現代人につながる疎外からくる恐怖がある。

十八世紀末の産業革命前から西洋はすでに商業を中心とした前資本主義時代であり、商品の流通の活発化、都市化とともに社会の流動性が向上しはじめていた。「貨幣の前の平等性」が土着的社会を下から、そして巨大化する資本力が国家として上から解体し、流動性の資本主義へと再構築されていく。

そして社会の流動性が上がることでうまれる異邦人(ストレンジャー)としての疎外感。その浮遊感を支え、また目指すべき定点として理性は求められた。それはまた世界へ拡散する資本主義の西洋的な正当性を支える定点でもあった。


十九世紀には日本を襲った津波はこのようなものだった。日本は江戸時代の安定期にすでに都市化が進み商業が発達していた。しかし鎖国の中で培養された日本人はあくまでも土着に充足する人びとだった。

だから開国をするということは西洋に対抗する経済力を身につけるだけではなく、対抗する理性を見出すことでもあった。急速な富国強兵のために日本が選んだのは江戸時代からの階級体制を活用し労働力を生み出す方法である。そのための定点として天皇が選ばれた。




5 日本人の慣習とリベラリズム

NHK教育ハーバード白熱教室 Lecture1 犠牲になる命を選べるか http://d.hatena.ne.jp/happysmiletalk/20100408/p1


あなたは時速100kmのスピードで走っている車を運転しているが、ブレーキが壊れていることに気付きました。前方には5人の人がいて、このまま直進すれば間違いなく5人とも亡くなります。横道にそれれば1人の労働者を巻き添えにするだけですむ。あなたならどうしますか?

そこからさらにサンデル教授は別のケースを提示します。では路面電車の別のケースを考えてみよう。こっちのケースでも『5人を助けられるなら1人が死んでも仕方がない』という原理をみんなが支持し続けるかどうか、見てみよう。

今度はキミは路面電車の運転手ではなく、傍観者だ。電車の線路のかかる橋にいて見下ろしていると電車の来るのが見えた。線路の先には5人の労働者がいる。ブレーキは効かない。このままだと電車は猛スピードで5人に突っ込み、5人は死ぬ。今回はキミは運転手ではない。

『なんにもできない』と諦めかけたとき、自分の隣に橋から身を乗り出しているものすごく太った一人の男がいることに気づく。もしキミがこの太った男を突き落とせば、彼は橋から走ってくる電車の前に落ちる。彼は死ぬが5人を助けることができる。さて、『彼を橋から突き落とす』という人は?


この問題は面白いが結果論でしかない。5人殺すか1人殺すかという問い自体が存在しない。死ぬ人数は事後的にしかわからない。だから誰も殺さないために1人側に向かう。また死ぬかどうかなんかまだわからないのに見学者を犠牲にするがわけない。

これを客観主義の誤謬という。これは限界問題を生み出すトリックであるが、このように限界で考えることが哲学である。実際は別に無理に限界で考えなくても問題もないわけだし、なかなか実際に限界的な状況は存在しない。

しかし近代社会は流動化が向上しせき立てられて限界に近い状況に追い込まれることが増えているともいえる


日本人はハイコンテクストな「ハイウェイ社会」を生きている。みなが単一の価値を共有し、その価値で円滑に進行できるように社会環境が整備されている。だから日本に住む限りハイウェイのように鼻歌まじりに生活できる。

海外では生活圏を抜けるととたんに多様な見知らぬ価値に出くわし、限界状況につまずいてしまう、いわば凸凹道である。だから回りに気を配り、鼻歌まじりに生活するわけにはいかない。

日本人が凸凹道に躓くのは思春期だろう。それは若者が大人の引いたレールを走りたくない!ということもあるが、最近では甘やかされて育った若者がうまくハイウェイに乗れずに、限界状況に突き当たる。いじめとか、引きこもりなども円滑にハイウェイに乗れない限界状況の一例だろう。

限界状況は海外では多民族間に、日本では若者に現れやすい。日本では哲学が社会思想として必要とされず、思春期の悩みとして消費されるのはこのためだ。


「ワクチンの優先順位で誰を先にすべきか」も政治思想的には限界状況として現れる。もし功利主義なら子供となり、老人が一番後になるのだろうか。実際にそんなの聞いたことがない。普通は子供が先で、次に老人で、最後が健全な成人だろう。

これは弱いものを助ける慣習と考えた方がいい。慣習には限界状況はない。そうだからそうなのであって、ようするにハイウェイだ。

しかしワクチンの優先順位で、ある共同体の慣習が弱い者から助けることを善として、もう一つの共同体が強い者から助けることを善とする場合に、これらが混ざった共同体群ではどうするのか。このハイウェイとハイウェイが交差するとき、限界状況が生まれる。すなわち「ハイウェイ」というメタファーの意味は、その共同体の「いわずもがな」の慣習、善である。




6 日本人の民主主義


人は生まれながらの特性も違うし、育つ環境も違うし、習慣において平等というのはありえないですね。歴史上そんな文明はなかった。それが、資本主義が全面化したときに大きな変化が起きる。貨幣交換が浸透すると貨幣の前に平等が生まれる。

貨幣交換では相手が誰だろうが貨幣を持っていることで商品交換が成立するという「貨幣の前の平等」がうまれる。これは今で言えば自由主義思想ですね。自由に経済活動を行うことで平等は自ずと達成される。

しかし資本主義が浸透する過程でどうもそううまくいかないことがわかってくるたとえばマルクスが注目したのが貨幣交換ではなく資本です。貨幣が資本という形態を取る場合には「貨幣の前の平等」とは異なる挙動をする。

資本は貨幣交換機能を超えて、貨幣を生み出す。そして資本家は生み出された貨幣を独占している。だから平等はもっと能動的に目指すべきものである。「貨幣の前の平等」を超えて平等を様々に拡張する「民主主義の平等」が考えられる。すべてを平等に社会設計する社会主義思想が生まれた。

現代では「民主主義の平等」の極限を目指す左翼思想は廃れましたが、右派、左派は基本的にこの流れに準じているでしょう。中道右派(保守派)は、「貨幣の前の平等」を重視し、自由主義市場経済が浸透することで平等な社会が達成されていく。それに対して、中道左派(リベラル)はそれだけでは不十分で富の不平等がおこるから積極的に富の再配分制度を導入する。


「貨幣の前の平等」市場経済が浸透することである程度習慣化されて社会に根付くでしょう。実際日本の資本主義は護送船団型としてやって社会に習慣化されて根付きました。不平等(搾取)はおこっているでしょうが、社会全体が豊かになることで許容されてきた。

それに対して貨幣の前の平等を超えた「民主主義的な平等」は、まず言語思考し、理論化して、法整備して制度を作り、さらに教育して、実戦として習慣として社会へ浸透させなければならない。特に言語思考から理論化する習慣に乏しい日本人の苦手な領域です。

過剰な平等は習慣によって社会秩序を維持することに長けた日本人には、杓子定規で感じるでしょう。だから西洋での制度導入を横目に、理念への理解とは関係なく、導入してみるということになります。


では現在日本でおこっている長期自民党保守政権から民主党政権への左(リベラル)旋回はいかなる意味を持っているのでしょうか。遅ればせながらとうとう日本にも市民(プロレタリア)革命が起きようとしているのでしょうか。

事業仕分けのパフォーマンスに一喜一憂し、首がすげ変えただけで支持する。そこには民主主義の権利と責任のような理念とは別世界ですね。

「貨幣の前の平等」はまた人を無名にすることで孤立させます。だから資本主義への高い順応は自由ですが、孤独である社会を作ります。護送船団型会社社会は個人を地域コミュニティから孤立化させることでまた会社コミュニティへの強い帰属を生み出しました。

しかし護送船団型会社社会が解体しつつあるいま、もどる地域コミュニティもなく、孤立した人々はもはや政府に頼るしかありません。しかし正確には「貨幣の前の平等」による自由気ままを経験している人々の目当ては政府の財布です。「貨幣の前の平等」の習慣を自由に生きたいが先立つものがない。だから富の分配に群がる、ということでしょう。

日本人が民主主義なる理念を習慣化する日が来るのか。そもそも必要なのか。サンデル先生に相談しましょうか。



日本人の成功法則



7 日本人の成功法則


日本人に思想が無いわけでなく、わざ、習慣、身体訓練として伝承され、言語化されないわけです。実は思想の在り方としてはこちらが一般的です。太古から民族はそうして思想を伝承してきたわけです。まず理解しないといけないことは、言葉は思想伝達法としてほぼ使いものにならないということです。

たとえば会ったことも見たこともない民族がいて彼らの思想について書いた本を読んで何がわかるでしょうか。実際に一緒に生活してみないとなにもわかりません。

言語信仰に毒された現代人にはこれを理解することがまずできない。まさに「馬鹿の壁」が目の前にある。*1

たとえば旨いザーサイを食べたリボーターはいかに読者にその旨さを伝えるか。日本人同士は親しげに「食べてみなよ」と勧めます。西洋哲学者はそれをメタファーや造語を駆使して伝えるわけです。それは実際に食べるより素晴らしくみなを魅了するわけですが、正確な伝達とは別です。


言語で思想を伝えなければならない状況はとても極限的な状況です。その状況とは多民族に自らの思想の正当性を訴えかける弁論述です。

日本人が日本人論を書き始めたのは明治入り知識人が留学を始めてからです。島国日本では思想は、わざ、習慣、身体訓練であり、他者に自らの思想を訴えた経験もなく、当然、うまく言語化できない。それが近代日本知識人の劣等感だったわけです。

いまでもよく、日本人は明確な言語思想をもち外国に主張しなければならないといいますが、本当でしょうか。言語思想を語りあえばわかりあえるのでしょうか。

そもそも西洋の近代思想はいかに発展したか。世界の資本主義化と密接な関係があるわけです。すなわち西洋の貿易先(資本主義)を広めるために、海外に向けては植民地化の正当性を巧みに訴えるためです。たとえば日本人もアジアへ侵略した時は珍しくその思想を懸命にしゃべりましたね。


日本人は辺境島国に棲み言語思想の習慣を持たない。だから海外から伝わる言語思想が入ってきても、対立する言説がなく寛容ですぐに「かぶれ」る。日本人はいままでの日本人はダメだといいつつ、世代ごとに到来する渡来思想にかぶれている。しかしこれは習慣としての日本思想にすぐに影響がないからできてる、うわっつらです。

たとえばラップミュージックは日本に輸入され30年近く経ちやっと歌謡曲レベルにまで浸透してきましたが、日本人に「YO!」とか言われるとお尻がくすぐったい。

外来思想が真に日本人の思想に影響を与えるには時間をかけて習慣化するときです。人が一度覚えた習慣は簡単に変わらないことを考えると、世代を変えないと新たな習慣は吸収されないといえます。そして習慣化される長い過程で外来思想はいつの間にか日本風にアレンジされているわけです。ここに日本人の伝統的な成功法則があります。


近代化の過程で日本人は、護送船団型資本主義のように独自のアレンジをしながらも資本主義によく順応しました。これは産業技術が実践的で習慣訓練化しやすいからでしょう。それに対して民主主義はうまく修得できていません。これは民主主義思想が多分に言語思想だからでしょう。

左翼の本質は主知主義であると言われます。主知主義とは、知性、理性、悟性を重視する思想です。人の知性によって世界は設計できるということです。言語化できない習慣は重視されません。

現代日本においてこれだけ世界に誇る技術大国になっても、西洋の哲学思想という言論術は中二病者の屁理屈としてしか受け入れられていないのが現状です。


現代日本人の問題は言語思想を持たないことよりも、あまりに資本主義に順応しすぎていることにあるのかもしれません。資本主義、すなわち貨幣価値を基本とする社会システムへ順応しすぎると、「形式的合理性」の問題に陥ります。予測可能性が高い、コンビニエンスで安全な社会の中で人々が無気力あるいは、漠然とした不安に陥っていく。

現代の日本人が「自分たちの言葉を持ちたい」と思うことの背景には、異文化に向けて自己の正当性を主張したいというよりも、あまりに資本主義に順応しすぎたことによる閉塞からの反動があるのかもしれません。




8 日本人の「和」と「他者回避」


日本の大衆音楽史を語る場合には、日本音楽史のみを語っても意味がないだろう。西洋音楽史と平行して語る必要がある。連続性を持つのは西洋音楽史で、日本の音楽は各時代ごとに西洋から輸入され改良される。だから日本大衆音楽史は非連続的である。

これはそのまま明治以降の日本の思想史、そして精神史にも当てはまるのではないだろうか。「日本人とは」という日本人像のとらえにくさの理由のひとつがそこにある。多くにおいて日本人論が世代論として語られるのはそのためだ。


それでも、連続性を見いだせる日本人の特徴もある。たとえば「和を重んじる」。集団を重視し主体性が低い、という特徴は、どこに帰属意識の重点を置くかの違いだけで今もかわらないのではないだろうか。

たとえば最近の若者の特徴である「他者回避」は、日本人が自立した主体として西洋化しつつということではなく、逆にいまも「和を重んじる」帰属意識の引力働いている故にそれを回避しようという特徴だと言える。

グローバル化した商品貨幣交換社会であるが、日本ではより洗練された形態になっている。たとえばファーストフード、ファミレス、コンビニなどのようなマクドナルド化が多くの品種で全国に展開されている。

どこでも誰でも24時間、等しい価格という平等を実現している。これは商品交換では当たり前だと思うかもしれないが、世界的にはいまだに市場(いちば)での定価のないその場での交渉による商品交換が一般的だ。日本のような高度に発達した消費社会を実現するには全国に高度な商品ネットワークシステムが張り巡らされている必要がある。

このような高度消費社会によって、安価で「他者回避」しながらそれなりに快適な生活ができてしまう。そして若者は快適な環境の中で、日本人の集団圧を感じていることの裏返しとして、「他者回避」を望む。その反動として、若者はネットで「コンビニエンスな他者」とのつながりを過剰に求めている。


日本人の「和を重んじる」性向がどこに起源を持つかは色々議論があるだろうが、明治以降は西洋に対抗するため「和を重んじる」総力戦で進めてきた経済成長戦略の帰結として、世界に例を見ないコンビニエンスな社会を作りあげた。

そして継続する「和を重んじる」ことへの裏返しとして「他者回避」をする。あるいは儀礼的無関心を消費社会の倫理であるとすれば、「他者回避」は高度消費社会おける「和を重んじる」ことの一つの成熟した形態といえるだろう。




9 日本人の国家依存


日本は明治時代以降、西洋の「常識」にさらされ、日本人の「常識」への懐疑を持っただろう。しかしそれを回避したのが天皇を中心とする国家主義である。西洋の植民地化を避けるために、国家主義のもと、実質的に江戸時代から続く階級制度を維持しつつ、一丸となって経済発展を目指す絶対主義体制である。

西洋の産業技術はどん欲に受け入れながら、西洋から持ち込まれる民主主義、特に左翼思想は弾圧された。市民革命を回避するためだけではなく、日本人の連帯を疎外する「常識」への懐疑を排除するためである。

このような国家主義傾向は昭和を経て戦後になっても続く。なぜ米国が戦後も天皇制を継続したのか。その一つがすでに始まっていたロシアとの冷戦構造において、日本を左翼化させないためである。すなわち天皇制を否定することで日本人が「常識」への懐疑に陥らず、継続して国家主義を維持するようにする。

当然、それまで国家主義を推進してきた軍部は解体されたが、制度的な民主主義は取り入れられつつも、天皇制は継続、そして財閥は実質的には維持された。戦後、国家主義は財閥などの大企業を中心とした会社社会として生き延び、日本の経済復興を推進した。国家の庇護の元、大企業を頂点とした下請けへと広がるピラミット構造による護送船団である。

これによって終身雇用を基本とした会社社会の中で、また日本人は懐疑することなく「常識」を信じ続けることができた。


いま、会社社会が解体しつつある。それとともに、近年、政府への要望、依存が直接的でヒステリックになりつつある。次々に首相の首を取り替え政党を取り替える。関心は年金や事業仕分けを象徴とする国家による富の分配である。

すなわちそれでも人々は日本人の「常識」を信じるしかなく、その源を国家に求めている。会社が見捨てても、社会が見捨てても、まさか国家は日本人を見捨てるわけがないと。

それも限界だろう。自民党埋蔵金を隠し持ち、国民に分配されないと民主党も持ち上げた。だがそんなものはなかったことがわかった。公約違反と鳩山首相の首を切るのもいいだろう。しかしいくら国家の財布を振ろうがないものはない。もはや国家への信頼だけでは生きていけない、ところに来てしまっている。

確かに日本人は「日常生活にひそむ英知」による「どこかの国の王様のような快適な生活に慣れ切ってい」たのかもしれないが、もはや限界に近づきつつある。その快適さは「常識」を支える国家に深く依存して来たからだ。

この国家依存からいかに脱却するか。大きな曲がり角に来ていることは確かだろう。オタクやネットなどのサブカルチャーへ埋没することで日本人の「常識」を延命しつつ、省エネ型の生活で堪え忍ぶのも限界だろう。

日本人も「常識」を懐疑し、市民社会としてのルールを組み立てていくか。海外へ積極的に出て行くときには当然必要になるものだ。



ハイコンテクスト社会



10 日本人の同期することへのどん欲さ


有名な話だが日本のCDの発売日はほぼ水曜日だ。なぜならオリコンの週間集計が火曜から次の月曜になっているからだ。CDは発売日前日火曜から店頭に並ぶので、水曜日を発売日とすることで、週間集計数が最も高くなり、チャートがより上位になる。

この作戦が成功している理由には経験的な前提があるだろう。まず日本では特に発売1週目にCDがよく売れるという現象だ。1週目で決まってしまうといってもよい。そして1週目を高くすることで宣伝となり2週目も高くなる。たとえばアメリカでも人気アーティストの話題作が1週目から高いチャートになることはあるが、基本的には発売後にラジオなどで流れ、人々に認知されることで売れる。

ここから分かるのは日本人の「あたらしもの好き」、ということだけではなく「同期すること」への欲求の強さだろう。発売日とは誰にとっても発売日であり、そこにカウントダウンが生まれる。この時間的な同期によって「みんながほしいものが手に入る」ということがもっとも実感できるようになるわけだ。このような流行ものによる「同期への欲求」はどの国でもあるだろうが、CDの購買の例からわかるように日本人ほどどん欲な人々はいないだろう。


このような日本人の「同期への欲求」の例として、他に上げられるのが家電製品のモデルチェンジである。日本ほど頻繁に家電製品のモデルチェンジが行われる国はないだろう。頻繁にモデルチェンジが行われる理由の一つは日本人の同期への強い欲求である。モデルチェンジのたびに時間がリセットされ再スタートされることで、同期が生み出され再度購買欲がかきたてる、という日本人用のマーケティング戦略である。

欧米では冷蔵庫はたくさんはいる、冷えるというシンプルなものが売れる。それに対して、日本で販売される冷蔵庫はモデルチェンジが年輪のように積み重なった多機能な製品である。だからそれを海外で販売しても受け入れられない。

このよう日本の独自の閉じた進化の促進は「ガラパゴス化」と言われる。すなわち日本のガラパゴス製品とは、日本人の「同期への欲求」を満たすための血と汗の努力によって進化促進した形跡である。このような日本人の「同期への欲求」こそが日本人の勤勉さであり、世界的に有数な高度に産業国家を生み出した原動力である。

同期への欲求の例として消費を例に挙げたが、生産においても同期への欲求は強く働いている。たとえば日本人の技術開発は独創的なものよりも改善的なものが得意と言われる。日本の技術開発を先導しているのは大手企業群である。彼らは同期への欲求の強い日本人消費者をターゲットにしつつ、他社を横目に開発競争を展開している。だからモデルチェンジ製品はどこも似たような製品が同じタイミングで投入される。このような運動が日本という閉じた領域でのガラパゴス化を生み出している。


またガラパゴス化は、冷蔵庫なら冷やすという目的超えて手段そのものが目的化する。それが独自の規律化していく傾向はスノビズムな傾向ともいえるだろう。その意味でとても日本人的であり、現代日本人の行動原理のすべてに及んでいると言っていいだろう。


なぜこれほど日本人の「同期への欲求」は強いのか。同期できるハイコンテクストな環境があるから同期してしまう、ということだろう。




11 日本人の習慣の破れに対する強迫性



ファーストフードではみなが淡々と注文し食事をしているが、たまにお年寄りが必死に店員と交渉しているのを見かける。はじめてなのか、注文のシステム自体を知らずに恥ずかしそうに懸命に注文している。しかしこのような場面は誰にでもあるだろう。初めての手続きに慣れないだけではなく回りから浮いていることが恥ずかしい。

日本人にとって習慣で処理できないこと、始めての場面に出くわしてフリーズしてしまうこと、は恐怖である。それは日本人でなくても恐怖だろうが、多くを習慣で処理できるハイコンテクストな社会を生きている日本人には強迫的な恐怖である。

外国人は多かれ少なかれ異文化が身近にあり生まれながらに「習慣の破れ」を経験する。そして対処方法も訓練として身につけている。習慣の破れをいかに乗り越えるかといえば、簡単に言えば開き直りの自己主張しかない。そのために西洋人は笑顔と交えた社交性の技術を身につけている。

ハイコンテクストな社会を生き、習慣の破れに慣れていない日本人は慣れずキョドってしまう。自らを主張するとは慣習を越えて自らを曝け出すことであり日本人にはとても不慣れな技術である。


日本人の高度な商品文化はクールジャパンとして有名である。生活の細部にわたるまで行き届いた商品群や、痒いところに手が届くようなサービス。粗雑、適当なサービスで生活する外国人には驚きである。これはまさに日本人の習慣の破れへの強迫的な恐怖心の裏返しではないだろうか。日本人は社会を習慣で満たさなければと懸命なのである。

日本とは「舗装された道」が張り巡らされたようなものだ。それによって足下気にせずに習慣で歩ける。それに対して、海外にはいろんな道があって足下に気をつけながら歩かなければならない。

それでも西洋人は段差を歩く技術を身につけている。それに対して日本人は転けても仕方がないという開き直りことができず、転けることが恥なのである。だから懸命に道路を舗装しようとしているのだ。

日本人が資本主義世界で成功しえた理由のひとつ、特に近年の消費中心社会での成功は、資本主義の成功が習慣の断絶を回避する方法であるからだ。強迫性が必要以上に商品を高度に発達させる原動力になり、内需を成長させてきた。

日本のガラパゴス化と言われる現象もここからきている。日本製品特有の過剰な多機能性は「舗装された道」への強迫性である。だから海外製品に比べて日本製品は病的であり、海外で売れるわけがなく、ガラパゴス化することになる。


しかし最近、内需が閉塞しているのはなぜか。経済の停滞だけでは説明できないだろう。その特徴の一つが「若者の〜離れ」に現れてるのだろう。

日本の「若者の〜離れ」のポイントは、他者回避にあると思う。社会的な他者と交わることからくる束縛=拘束を回避したい。他者と向き合うことで生じる社会的な責任を回避したい。一人でコンビニエンスな生活、ネット上のコンビニエンスな他者との会話を気楽に楽しみたい。

このような他者回避がとても日本人的であるのは、まったく他者を回避しているわけではなく、逆に社会に依存していることで可能になっているためである。

西洋のように、異文化の「他者」が身近にいて習慣が分断されている社会で、他者を回避することは、他者がなにを考えているかわからず、とても恐ろしいものになる。たとえば日本人は黒人がそばにいるだけで違和感を感じる。安心するためには積極的に社交するしかない。解り合えるということではなく、社交として安心を確認しあう。

たとえば米国でエレベーターで一緒になると笑顔を交わし合うようなことだ。逆に日本人のように無表情でいるのは西洋人には恐怖に感じる。だから多民族の西洋では日本的な他者回避は難しい。

日本人の若者の他者回避、必要以上に干渉しないで欲しいという関係は、真に他者と関係を絶つことでは不可能である。日本人のハイコンテクスト、高い習慣の同期性によって可能になる。そしてそこにはある程度のお金さえあれば一人でいけるほどに十分に成熟した資本主義の消費文化がある。




12 日本人に甘えが氾濫する


オタクのアイドルへの熱狂を見ていると、人の「愛したいという欲求」の強さがわかる。人は愛されたい欲求より愛したい欲求が強いんじゃないか。心底誰かに愛されるより心底愛せる人を見いだすほうが幸せですからね。たとえば宗教心しかり。

そもそも人を愛することは簡単なことではない。愛することは贈与することであり、贈与することには相手に返礼の義務を負わせる抑圧として働く。たとえばただほど高いものはない。そこに心理的は負債義務が発生しいつまでも負い目を感じる。あるいは有名なところではモースなどの未開社会分析では権力者が返せない贈与を行うことで権力を保持する。

では現代の愛することの困難とはなにか。二面性を考える必要があるだろう。一つは自由を尊重する現代では、子供であっても個人を尊重することが求められる。他者に対しては無関心であることは一つの儀礼である。

さらにもうひとつの面として、「愛したい欲求」そのものが加速されているのではないだろうかそれは特に日本において顕著なように思える。誰もが必死に愛を注げる対象を必死で探している。そんな難民たちがアイドルへ殺到し、ペットを溺愛し、韓流へ、遼くんへ殺到する・・・


土居健郎「甘えの構造」によると、日本人のキーワードは「甘え」にあるということだ。しかし本書での「甘え」の使い方はかなり広義である。幼児の甘えとともに、義理人情などの日本人の基底にも甘えがあると考える。しかしこれは一面で正しいが、一面で正しくないと思う。土居健郎精神科医である故に、甘えを心理的なものへと偏りってとらえ過ぎている。

心理的「甘え」=依存性は簡単には母の子供への想いである。母の愛は幼児ならば良いが、大人になって母が愛したい想いを抑止しなければ、子供は大人になれず社会秩序に参入できない。しかし「甘えの構造」でいう広義の「甘え」とは、単に依存的な「甘え」ではないだろう。

日本人の特徴はハイコンテクストな社会ということにある。ハイコンテクストな社会とは強力な同調引力を持った振動圏といえる。たとえば日本人なら知る、白いご飯、おみそ汁、梅干しなどのおいしさ。いやおいしさ以上の引力である。日本人として育つことで訓練されてきた味覚であり、言語であり、さらに環境と深く結びついてものである。日本人として作られことで容易に同調し共鳴し合う人々の集まりである。

このような同調引力はたしかに容易に心理的「甘え」に転倒しやすいしかし同調引力は心理的である前に行為的である。行為的な同調引力とは、たとえば協力して作業を行う場合の「息が合う」ということだ。日本人はこのような同調引力を単に心理的な甘えへ転倒しないように、反復訓練の中で様式化して、義理人情、忠義、お歳暮、年賀状などの社会的な規律にまで磨き上げた。日本人社会はこのような規律によって秩序だてて円滑に運用されている。


資本主義の産業化は技の集積であるから、日本人の同調引力は生産性向上のために有用に働いた。効率重視の新たな様式を生み出され、技術立国としての成功に導いた。しかし貨幣交換を基本とした自由主義経済の資本主義化によって、義理人情などの旧来の様式は解体されて行かざるをえない。

このような旧来の解体と、効率重視に再編される様式によって、ハイコンテクストな日本社会の同調引力は心理的な甘えへと転倒されているのではないだろうか。そして人びとは幼児化し、また「愛したい想い」への抑止が解放される。といっても、個人を重視する現代に子供にでも安易に「愛したい想い」をぶつけることはできない。だから現代の日本人は絶えず「愛したい想い」を自制し続けなければならない。

困っている人がいる。その苦しみがよくわかる。自分なら助けることができる。しかし助けることが抑止される。という複雑な状況におかれる。その回避方法として溺愛してもよい疑似対象が強く求められる。そこにアイドル、ペットなどの様々な商品が生まれている。オレオレ詐欺になぜにあんなに簡単に騙されるのかと思ってしまう。オレオレ詐欺現代日本人の抑圧された「愛したい想い」をうまく利用しているからだろう。

ちなみにローコンテクストな西洋社会では資本主義と並列に民主主義が訓練されます。幼児の依存的な甘えは「去勢」されて、社会の中に自立した自己となるプログラムが組まれています。ハイコンテクストな社会=同調引力によって社会秩序を形成する日本人には、西洋的な民主主義のプログラムは遠いものです。



超ハイウェイ社会



13 日本人のスノビズムマクドナルド化


手段は目的のためにある。しかし手段そのものを目的として一つの様式とするのがスノビズムである。そもそも日本人はスノビズム性が高いようだ。たとえば古くは武士道、茶道など。現代でも日本では「手段の目的化」が日常的に行われている。

たとえば日本人の雑学好き。知識とは目的のために体系化され、目的のための手段として学ぶ。しかし雑学は体系化されずただ散らばった知であり何に役立つものではない。西洋人からすると日本人の雑学好きの意味がわらないだけでなく、オタクでカッコ悪いものにうつる。

アメリカ人もくだらないこと好きだか、いつもどこかジョークであることを担保している。日本人はマジである。日本では雑学は一つの文化になっている。特徴的なのがクイズである。高校、大学にはクイズクラブがあり、日夜雑学を磨き続け、テレビ番組になるなどいくつも全国大会がある。

またスノビズムとは大局に関係しない細部にこだわることでもある。差異をより細部へとマニアックに追求する。だからフェテイシズムと深く関係する。このように特性はもはや総オタク時代とも言われる現代日本人の特徴を表しているだろう。


日本人がなぜスノビズムへ向かうのかは、ハイコンテクストな社会にあるだろう。同期しやすい彼らは誰かが何かをはじめると、隣の誰かもはじめる。するとそとに競争が生まれる。他者よりも少しでも先へと「差異化の運動」が生まれる。やがて広がり反復されることで様式化され、文化へと成熟していく。

日本人はハイコンテクストな「ハイウェイ社会」を生きている。みなが単一の価値を共有し、その価値で円滑に進行できるように社会環境が整備されている。だから日本に住む限りハイウェイのように鼻歌まじりに生活できる。海外では生活圏を抜けるととたんに多様な見知らぬ価値に出くわし、限界状況につまずいてしまう、いわば凸凹道である。だから回りに気を配り、鼻歌まじりに生活するわけにはいかない。

多文化でローコンテクストな社会では、まず同期してもらうのに苦労する。しかし日本では同期は一つの基礎地盤であり比較的少ない労力で行われる。むしろ同期が基礎であるためにそれだけでは物足りない。ハイウェイでは誰もがどこに向かうのではなく、ちんたら走るのが退屈でとばして競争してみたくなるものだろう。そして走るという手段が目的になる。


さらに日本の「ハイウェイ」は近代化、特に資本主義経済においてよく機能した。日本人の差異化運動は西洋近代化の知識の吸収にどん欲に働き、瞬く間に日本を西洋に並び立つ近代国家へと成長させる原動力となった。現代では、ハイウェイは経済的な効率化、合理化によって強化され、日本は技術、情報、消費の発達において人類史にかつてないほど「超ハイウェイ社会」を実現している。

資本主義の経済的な合理化によるハイウェイの補強はマクドナルド化と呼ばれる。マクドナルド化により補強された超ハイウェイは「貨幣依存」を高めることになる。金によってハイウェイのランクがうまれている。このような傾向は特に日本で顕著である。




14 マクドナルド型規律訓練権力


ジョージ・リッツアは著書マクドナルド化する社会」ISBN:4657994131)において、マクドナルドの諸原理が世界中を席巻しているといった。マクドナルド化は、効率性・予測可能性・計算可能性といった合理化過程が生産現場から消費者とのサービスの場にも波及し、消費者の期待や行動もまた画一化、脱人間、非人格化しているという。

このためにマクドナルドでは「客は従順な家畜のように食事する」といわれ、フォーディズムの延長で捉えられる。しかしはたしてそうだろうか。現代の消費者のようなわがままな人々をこうも簡単に家畜のように従順にするには、いかなる魔法があるのだろうか。


社会は豊かになり、消費者は商品として使用価値を求めることから、「サービス」を求めるようになった。サービスとは「売り買いした後にモノが残らず、効用や満足などを提供する、形のない財のことである」とされる。しかし使用価値にくらべて、効用や満足はどのようなものか捉えられない。なぜならサービスにはこれだというようなものではなく、状況(コンテクスト)によって絶えず変化するからだ。だからサービスとは絶えず追い求める「運動」だといえる。

そしてこのようなサービスの運動性は、従来の生産者から消費者へ商品を提供するという静的な構造を解体する。生産者が消費者を巻き込んで作り出す、あるいは生産者の狙ったものを越えて消費者によって生み出されている。

このように生産と消費の境界が解体し、消費者にも生産・創造が解放される状況を保守派は「知識社会」と呼ぶ。そしてそのような消費社会をトフラーは「生産−消費者(プロシューマー)」と呼んだ。

それに対して、左派は「ポストフォーディズムと呼ぶ。フォーディズム的な生産と消費の境界は解体され、生産者と消費者、生産現場と生活場、労働時間と非労働時間、金銭経済と非金銭経済の境界が曖昧になり、生産が生活に深く侵入し、人々は生産現場から離れた日常でも自主的に学習し創造することが求められる。


マクドナルドでは、客は自ら食事を受け取り、席に運び、食後にゴミを捨てるというセルフサービスを取り入れている。これによって人件費が抑えられて消費者は安価で食事することができる。

しかし客がセルフサービスしているのは食事の運搬だけではない。狭い部屋につめられた座席で「組み立てられた」食事をする。これは家畜のようと食事すると言われても仕方がないかもしれないが、不思議なことにみなどこかくつろいでいる。この秩序は決してマクドナルド側が「店内では静かにしなさい」というように規律訓練したわけではないし、かといってマクドナルドには人々を思考停止させる装置があるわけではない。

このような店内の秩序もまた、客たちが「セルフサービス」で作り上げているのだ。たとえば電車の中で人々は好き勝手にしているようであるが、儀礼的無関心 civil inattention / civil indifference」という規律によって高度に秩序化された空間を作り上げていると言われる。同様なことがマクドナルドではより積極的に起こっている。


マクドナルドの店内は清潔であるが、椅子やテーブルなど内装は快適を追求したというようなものではなく、素っ気がない。マクドナルドの店員の接客も丁寧ではあるが機械的でよそよそしい。いわば公園や駅などに似ていないだろうか。ゆったりくつろげるプライベートな空間を演出するのではなく、「公共的な空間」を演出しているのだ。それによって人々には自主的(セルフサービス)に儀礼的無関心という秩序を作動する。食事の配膳のセルフサービスもそのための演出として作用しているといえる。

トフラーはセルフサービスを「生産消費者(プロシューマー)」の一例としてあげた。消費者は一部生産者として組みこまれることでサービスの「運動」に荷担している。このときマクドナルドは合理化が追求されたフォーディズムであるとともに、セルフでサービスを生産−消費するポストフォーディズムであるといえるだろう。


知らない街にいって一人で食事をするとき、マクドナルドやファミレスがあるとホッとする。流動性の高い社会では、その場その場の(プライベートな)空気にさらされ、適応することが求められるが、それは大きな負荷となる。

それに対してマクドナルドは世界中どこへいっても、「グローバルな公共空間」として機能し、よそ者、場違いな空気を生まず、無理な適用を強制しない。このようにプライベート性を解体し「公共性」を高める環境演出方法は、「街のほっとステーション」と言われ、コンビニやファミレスなど、現代のサービスの基本の一つになっている。

ここでいうグローバルとは、経済的なグローバリズムと深く関係する。マクドナルドのある国はお互いに戦争しない(トーマス・フリードマン)」という。資本主義経済が安定して活動するためには国家治安、人的資本の向上などの社会秩序の一定の水準が求められる。儀礼的無関心というメタレベルの高度規律訓練権力によって「グローバルな公共空間」が成立し得るということが、その社会が安全な経済活動を行える水準を備えている目安となる。


「客は従順な家畜のように食事している」とすれば、動物化しているわけではなく、メタレベルの高度な規律訓練権力を作動させているからだ。逆にいえば、清潔で過剰に私的な演出は排除された素っ気ない環境でありつつ、その空間作りにセルフサービスを求めるマクドナルド型規律訓練権力」は、現代の経済活動を重視した公共空間のあり方を示している。

たとえばアメリカの犯罪学者ジョージ・ケリングが考案した割れ窓理論がある。「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」という。現にニューヨークでこの理論を応用して街を清潔に保つことで治安が飛躍的に向上した。このような活動は日本の方が一般化しているだろう。5S活動(整理・整頓・清掃・清潔・躾)などの職場環境維持改善活動である。ここにも同様な規律権力が作動している。

マクドナルド型規律訓練権力はとても弱い権力である。たとえば喫煙を制約する場合、法律で規制するのでもないし、規範にしたがい注意するのでもないし、タバコの値段を上げるのでないし、テクノロジーの設計(アーキテクチャ)によって制約するのでもない。場の整備に参加させ、気づかせ、気まずくするだけだ。

しかしこの権力がいまのミクロレベルでの社会秩序を形成し、生活環境の細部まで整備するように、街の区画整理のような公共投資からショッピングセンターなどの民間投資まで多くの投資が行われている。そしてこの権力が人々に効力があるのは一つの倫理に基づいている。それは「比較優位」である。簡単にいえばみながそれぞれ経済活動に参加してこの豊かな社会を支えているということだ。


ポストフォーディズムの言説においてフーコーの権力論が語られる場合には、規律訓練権力から生権力という移行で語られることが多いが、 フーコー自由主義社会において権力は、主権、規律訓練権力、生権力が協約して働くと考えた。現実にもこられが分離して働くことはほとんどないだろう。

主権者の意図があり、生権力というマクロに社会が設計され、ミクロで規律訓練権力として働く。これらを権力者の意図が一直線働く単純な搾取構造ではない。それならばこのような複雑な構造は必要ないだろう。自由主義社会において重要なのはミクロレベルでの自由な経済活動を促進し、富を生み出すことである。

しかし自由な環境とはただ放置することではない。生権力によるマクロな環境設計とミクロな高次の規律訓練権力を必要とする。




15 日本のハイウエイ格差社会


マクドナルド型生権力の見取り図について。作れば売れる時代が終わり、経済成熟期に入ったいま「いかに儲けるか」(利害関心)が複雑、巧妙になっている。ここでいう「儲ける」(利害関心)は、経済活動が活発し雇用が生まれ生活が豊かになるという自由主義経済の基本である。

経済成熟期に発達する「儲ける」仕組みがマクドナルド型生権力である。たとえば旅客機のサービスによるクラス分け。エコノミークラス/ビジネスクラス/ファーストクラス。さらには外部までも取り込んで成熟社会を全面包囲している。

マクドナルド型生権力の見取り図

  • マクドナルド空間−内部
    • エコノミークラスマクドナルド空間)・・・低価格。安全、安心、安定。グローバルな公共空間。
    • ビジネスクラスマクドナルド空間の多様化)・・・エンターテイメントの付加価値。ショッピングモール、ディズニーランド。
    • ファーストクラスマクドナルド空間の臨界)・・・高価格。高度サービス。医療、介護、弁護士。
  • マクドナルド空間−外部
    • ハウスホールド(家庭生活)・・・核家族から個別化へ
    • アウトキャスト(取り残された外部)・・・失業者、低所得高齢者。
    • コンフューズ(混沌・創発領域)・・・秋葉原、ネット社会。


1 マクドナルド空間−内部


<エコノミークラス>
 マクドナルド空間
・・・低価格、省スペース、安心、公共性

ミクロ権力(規律訓練権力)
清潔、無個性、セルフサービス(自己責任)によって、場に暗黙の規律(儀礼的無関心)を形成し、狭い空間、短い滞在でも安価・安全・寛ぎを提供する。コンビニ、ファミレスなど。現代の「グローバルな経済的公共空間」になっている。(参照:http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090619#p1
マクロ権力(生政治)
社会の流動性が向上すると、他者との摩擦が起こる。安価・安全・安定した商品を供給することで、社会全体の効率化を目指す。自由主義経済におけるグローバルな安全空間を供給する。利害関心→利益率は低い。チェーン展開により薄利多売。チェーン展開できるだけの需要がある身近な生活品が基本になる。
管理技術
チェーン店を繋ぐネットワーク。商品の一括管理など低コストのために必要な技術。


ビジネスクラス
 マクドナルド空間の多様化
・・・エンターテイメントの付加価値

ミクロ権力(規律訓練権力、テーマパーク型権力)
マクドナルド空間の無個性さを非日常性として演出し、そこにエンターテイメントを加える。安価・安全・安定な遊技空間を作り出す。ショッピングモール、シネマコンプレックスなど。子供がマクドナルドへ行きたがるのは、マクドナルドがただ安価な食事場ではなく小さなエンターテイメントを組み込んでいるから。付加するエンターテイメントは楽しいだけではなく、酒場などでは洗練された演出などのバリエーションが可能である。さらにはディズニーランドもマクドナルド空間」をベースに作られている。
マクロ権力(生政治)
マクドナルド空間の多様性によって、より高次に生活をフォローする。利害関心→マクドナルド空間ほどチェーン店舗数は増やせないが、1店舗当たりの利益率を高める。
管理技術
ナビゲートシステムの発達によっていままだファーストクラスのサービスをいかに低コストに提供できるか。


<ファーストクラス>
 マクドナルド空間の臨界
・・・高価格。マンツーマンサービス、擬似プライベート空間。

ミクロ権力
マクドナルド空間はセルフサービス(自己責任)や暗黙の秩序によって、安価に摩擦がない空間を提供するが、その臨界ではそれでは対処できない高度で密接な部分が残る。たとえば医療、教育、介護、あるいはカウンセリング、弁護士など。マンツーマンなサービス、擬似プライベート空間によって高度な感情労働を提供する。当然、高額となる。
生政治
金銭経済(マクドナルド空間)の臨界であり、「もはやお金で買えないものはない」が目指される。もっとも「人間らしさ」を提供する。金持ちか、数度の旅行などで体験される。利害関心→希少であることが付加価値となる。


2 マクドナルド空間−外部


<ハウスホールド>
 家庭生活
・・・核家族化から個別化へ。マクドナルド空間への取り込まれ

マクロ権力(規律訓練権力)
家庭生活では人々は自らでサービスを行っている。主婦は家族のために労働しサービスを提供する。あるいは地域コミュニティでは隣人同士がサービスを贈与し合う。このような非金銭経済のサービスは金銭経済とともに生活を支えてきた。ときにファーストクラス以上のもの、あるいは金銭に代えられないほどのサービスを提供する。しかし家庭、地域コミュニティ(非金銭サービス)は解体しつつある。
マクロ権力(生政治)
家庭生活は労働を補助する場としてまた消費を生み出す場として経済の基本の一つである。そして家庭、地域コミュニティ(非金銭サービス)は金銭経済(マクドナルド空間)へ取り込まれている。たとえば主婦がする非金銭労働をいかに商品化して提供するか。家庭生活での出費は増えるが、主婦はパートに出でて稼ぐ。さらに現代の生活は核家族からさらに個別化している。一人で生活できるのは安価・安全なマクドナルド空間に支えられているからだ。あるいは地域密着の商店街などの家庭的な雰囲気は、逆に儀礼的無関心を破壊し、なれなれしい、めんどくさいと廃れていく。


アウトキャスト
 取り残された外部
・・・高度なサービスから取り残される。「ホモサケル」

ミクロ権力
マクドナルド空間に依存した貨幣中心の生活では、人々は個別化し助けてくれる「家族」がなく、さらに失業者、低所得高齢者などのお金を持っていない人々が、医療、教育、介護などの高度なサービス(ファーストクラス)を必要とするときに取り残されていく。
マクロ権力(生政治、公共投資
お金を持たない人々は民間投資には魅力がなく、マクドナルド空間から取り残されていく。このために公共投資による補助がもっとも必要とされるが、限界がある。
管理技術(環境管理権力)
補助されなければ生きられない人々という人間としての尊厳の消失。より低コストで補助するために積極的に管理技術が活用される。そこでは生が動物のように処理される。現代の「ホモサケル」ここにおいて管理技術が環境管理権力として作動する。


<コンフューズ>
 混沌する外部
・・・次のイノベーションの土壌

ミクロ権力
マクドナルド型規律訓練権力=公共的な秩序に回収されない人々。その場その場の独自の秩序(規律)をもち、自律的に混沌とした活力場を生み出す。社会的に危険とされる。
管理技術(環境管理権力)
だからといって暴力によって排除するのではなく、防犯カメラなどで監視して見守る。ここでも管理技術は権力として作動する。
マクロ権力(生政治、公共投資
次のイノベーションはこのような混沌とした活力場から生まれてくるために、監視しつつ自由にさせる。有望なイノベーションとして認知されることで民間・公共投資によってマクドナルド空間として整備される。秋葉原もかつては混沌とした活力場であったが話題を呼ぶことで整備されマクドナルド空間へと変容している。利害関心→新たなイノベーションに投資することはリスクがあるがリターンも大きく、投資にとっては最重要な領域である。

*2

*1:参照 「再び、なぜ人は「フレーム問題」に陥らないのか」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080529#p1

*2:画像元 http://otona.yomiuri.co.jp/history/anohi090720.htm