夏休み読書感想文 「日本人」という運動

「甘え」構造主義


「甘え」の構造 [増補普及版]


青木保「日本文化論」の変容」ISBN:4122033993で解説されているように、戦後日本人論はル-ス・ベネディクト菊と刀ISBN:4061597086を始めとして、その時代の環境に合わせてベストセラーを生み出してきた。本書もその系譜の一つに位置づけられている。これら日本人論ベストセラーの問題はエビデンスが少ないことと、わかりやすくベタに書かれてメタ議論がなく日本人信仰に近くなってしまっていることがあげられている。

土居健郎「甘え」の構造」ISBN:4335651295「なんでも甘え還元主義」でやりすぎの感もあるが、日本語に甘えの関する言葉が多いという素直な疑問から言語分析(解説)へ繋ぐことで、それなりのエビデンスをもっていると思う。

ボクが問題点としてあげるのは、著者が精神分析医であるために甘えの源泉を(精神分析的な)幼児の甘えに求めていることだ。本書で「忠義」「義理人情」「恩」までもが精神分析的な甘え(幼児の甘え)で語られている。そもそも精神分析は西洋中心主義的な思想の一つである。西洋学問で言えばむしろ文化人類学「贈与論」構造主義へ繋ぐべきではないだろうか。

マルセル・モース「贈与論」ISBN:4480091998などの未開社会の分析、さらに展開されたレヴィ=ストレースの構造主義では、贈与と返礼の関係は一つの秩序圏を形成する。それは決して心理的なものではなく、それぞれの人が慣習・儀礼的にふるまうことで全体として秩序を形成する。

日本人の「忠義」「義理人情」「恩」も、好き嫌い、幼児の甘えのような個人的な心理ではなく、自らは全体秩序の一部として配置されていることで、慣習、儀礼的にふるまうことで、表れる社会の秩序である。そこでの甘えは他者への引力であり、構造の動力源として作動しているとしても、構造がなければ「忠義」「義理人情」「恩」も生まれない。

菊と刀を始めとして、戦後日本人論では西洋が個人主義に対して日本人は集団主義と言われる。しかし「集団」は現前の集団の心理圧なものと考えられやすく、文脈(コンテクスト)主義と言うべきだろう。文脈は集団心理圧だけではなく、過去からの集団の中で反復された慣習や儀礼が大きな影響をもつ。




逃避でない日常の思想


丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー)


丸山眞男の入門書として有名なのは新書の「日本の思想」ISBN:400412039Xだろう。最近文庫で新たに丸山眞男セレクション」ISBN:4582767001が発売された。「国民主義の「前期的」形成」、「超国家主義の論理と心理」、「日本の思想」などの代表作が詰め込まれておりおすすめである。

丸山のすごさは超国家主義の論理と心理」など戦争の混乱期に今読んでも違和感がない保守思想を書いていたというバランス感覚だろう。逆にバランス感覚が良すぎて、右派からも左派からも叩かれることになる。

日本人の特徴として、実践的な思考を重視して、西洋思想のような普遍的な思考は思弁的であると軽視する傾向があると言われる。この反動として、日本人が西洋思想へ取り組む場合には、異世界を強く求める傾向がある。あるいは現実逃避のために西洋思想が求められる。

日本人が西欧哲学思想をもっとも「消費」するのは思春期である。たとえば東浩紀動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」ISBN:4061495755でオタクの自意識を自らの思想のターゲットにしたことはよく考えられたマーケティング戦略であるともいえる。動物化するポストモダンも現代の日本人論の一つであり、オタクは動物化しているという自虐的な選民思想である。現代は中二病といわれるように大人になっても思春期が延滞されている人が増えているがオタクの幼児性への性向にもそのような傾向が見られる。

日本人にとって西洋の普遍を求める思想は非日常である。日常は実用的な技によって行われ哲学思想など必要ない。逆に言えば日本には生活に根付いた「普通の哲学思想」が育ちにくい。その中で丸山の思想は日本人の日常感覚に受け入れやすい等身大のバランス感覚をもった保守思想として貴重な存在だと思う。

フーコーは丸山を支持していたというが、「監獄の誕生―監視と処罰」ISBN:4105067036以降の、主権者が臣民へ行使する大きな権力に対して、規律・慣習として身体へ働く日常的、実用的なミクロな権力への経験主義的な転回は、とても日本人的なものを想像させる。ここに丸山の影響を見られないか。ただなんの根拠もない浪漫。




「日本人」の起源
 

定本 柄谷行人集〈1〉日本近代文学の起源 増補改訂版


柄谷行人「定本 近代日本文学の起源」ISBN:4000264869のまえがきで柄谷は、本書執筆後にベネディクト・アンダーソン「想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行」ISBN:487188516Xを読んで、本書が日本の「ネーション(国民」)」の成立について書いた本であることに気がついたと書いている。「想像の共同体」では、「ネーション(国民」)」が近代化の中で生まれてきた「想像の共同体」であるのになぜこれほどの強い力をもつのか、という疑問に対して、共同体群の中で様々な話し言葉が、出版資本主義の発達によって言語として統一されてきたことで説明している。

近代化に「歴史の断絶」を見る考えは、マルクスが下部構造としての生産様式によって社会が作られるとした唯物史観にさかのぼれるのだろう。近代化とは資本主義様式への転換である。それまでの農民としての自給自足生活から、分業体制による産業化と労働を販売してえた貨幣を交換することで生活を支える。そしてこのような資本主義社会の流動化の中で共通認識として「ネーション(国民)」が生まれてきた。そして「国家」が生まれ、「国語(日本語)」が生まれ、「日本人」が生まれた。

ここにミシェル・フーコー「監獄の誕生―監視と処罰」ISBN:4105067036で示された規律訓練権力をつなげることができるだろう。規律訓練権力の典型は学校である。学校という規律訓練権力装置が等しい知識を反復練習させることで習慣が統一されていく。「想像の共同体」でいう出版資本主義以前に、人々の識字率を上げるように教育する全国への学校の整備が先だろう。そしてそこで教える日本語(国語)は、柄谷によれば、明治以降の近代日本文学が作られていく過程で生まれてきた。

日本では江戸時代において、すでに教育が普及し識字率が高かった、独自の市場経済が発達していたなど、独自に文明化が進んでいたといわれる。しかし明治開国後の起こった日本の変革考えると、「歴史の断絶」があったことを確かだろう。

「歴史の断絶」後を生きるボクたちはもはや、「歴史の断絶」後のフィルターを通してしかその前の歴史を語ることができなくなる。「日本人」というものが「歴史の断絶」後に作られたとすれば、その先にある「日本人」の起源を求めることは、ナショナリズムな歴史主義の誤謬である。

少し前にベストセラーなった水村美苗日本語が亡びるときISBN:4480814965は 「想像の共同体」と「近代日本文学の起源」のネタをもとに、日本語の歴史がわかりやすく書かれている。




「日本人論」という運動


日本 比較文明論的考察 3
 

和辻哲郎「日本精神史研究」ISBN:4003314476平安時代以前の日本人にさかのぼり、仏教伝来時など日本人の源流をたどる。ここで示されるナショナリズムを想起するような日本人像はどこかなつかしいものであるが、「歴史の断絶」のフィルターを通したナショナリズムであることを疑いえない。

このような意味で、日本人論は必ずメタ日本人論であることが義務づけられるだろう。そしてまたメタ日本人論も日本人論であることから逃れられない。船曳建夫「日本人論」再考」ISBN:4062919907は最近出版されたメタ日本人論である。明治時代から時代ごとの代表的な日本人論を紹介している。日本人論の起源は、明治時代に多くの知識人が西洋へ留学することではじめて「(西洋との差異として)日本人とはなにか」という問いにぶつかり、日本人論が書かれはじめる。西洋に投げ込まれた西洋をまねる日本人の居心地の悪さ、不安から、自分達たちはなにかが、強迫的に求められる。現代においても変わらず日本人論が書かれ続けることも同様な理由であることが示される。

日本人が日本人を語ると細部がわかる反面、相対化が難しい。だからル-ス・ベネディクト菊と刀ISBN:4061597086しかり、外国人による日本人論によって、日本人は自らがどのように見えているのかを知る、ことが求められてきた。S.N.アイゼンシュタット「日本 比較文明論的考察 3」ISBN:4000242288は、1巻が明治時代以降と、2巻が江戸時代、そして本3巻はそれらをもとに日本人についてまとめられた大作である。

本書は大量の日本人論文献をもとに、比較文明論の観点から、日本と軸文化(西洋、中国、インド)を相対比較することで、「日本的なもの」が抽出されていく。注力されるのは、日本人の歴史でなにが変化したかを分析することで、それでも変わらなく維持されたもの抽出しようとする。そこで浮かび上がるのは、面白いほどに王道な日本人像である。これは日本人像なのだろうか、それとも多くの日本人論が描いてきた日本人像なのだろうか。これを区別することに意味があるのだろうか。日本人は日本人論のようにふるまう。「日本人論」とは現代日本人の習慣も巻きこんだ一つの運動である。



東洋の昔からの思想には、一種の人間主義がある。「要するに組織やイデオロギーじゃなくて人物の問題だよ」なんていう言葉は今の日本でも度々きくことだ。第一東洋の政府思想を見ればすぐ分るように、そこにはヨーロッパのそれにあるような組織とか機械論とかいうたぐいのものは殆どない。大部分が政治的支配者の「人格」をみがく議論か、さもなくば統治の手管に関する議論だ。古典でいえば四書五径は前者の典型だし、韓非子「戦国策」は後者のいい例だろう。

いずれにしてもそこでは人間と人間との直接的感覚的な関係しか問題にされていない。組織とか機構とかいうのは本来社会関係を感性的人間の直接的な関係として放任しないところにはじめて登場するものだ。そういう意味では、ヨーロッパでもそうした「組織」とか「制度」とかが真に発達したのは近代以降であり、従って中世の政治思想を見ても、東洋ほどではないとしてもやはり組織論は貧しい。

それじゃこういう前近代的なペルソナリスムと近代社会の「人間の発見」とはどうちがうのかといえば、前者において尊重される「人間」とは実は最初から関係をふくんだ人間、その人間の具体的環境ぐるみに考えられた人間なんだ。そこで道徳なり社会規範なりが既知の関係でのみ通用すること、既知の関係における義理堅さと未知の関係における破廉恥的なふるまいとが共存すること、ある人間の他の人間に対する支配力とか影響力とかが、地位とか身分とか家柄とか「顔」とか、要するに伝統によって聖化された権威に依存していること−−こういうようなことがそうした「人間」主義の具体的表現となる。ここで真実の支配者なのは君主でも領主でも家長でもなく、実は伝統なんだ。

こういう社会の夫々のサークルにおける支配者が一個の人間としていかに不自由であり、行住坐臥ことごとく儀礼と慣習にしばられているかは今更例をあげるまでもないだろう。ところがまさに人間がはじめから「関係を含んだ人間」としてしか存在しえないからこそ、その「関係」は関係として客観的表現をとらない。法と習俗が分化せず習慣法が実定的に優位する。だからそこでは人間と人間が恰もなんらかの規範をも媒介しないで、なんらかの面倒なルールや組織をも媒介としないで「直接」に水いらずのつきあいをしていうように見える。実は抑圧と暴力が伝統化されているために意識されないだけのことなのだが・・・・・。

近代社会のように人間がその固定的環境から分離し、未知の人間相互の間に無数のコミュニケーションが行われるようになれば、既知の関係を前提とした伝統や「顔」はだんだん用をなさなくなる。だから客観的な組織やルールが「顔」に代り、人間相互の直接的感性的関係がますます媒介された関係に転化するという面を捉えれば、それは逆に非人格関係の人格化ということになるわけだね。べつに両面は本来的に矛盾したことではないんだ。P198-200


丸山眞男セレクション」 肉体文学から肉体政治まで (ISBN:4582767001

人口が管理されようとしてたこのときほど、規律が重要なものとなり、価値あるものと見なされたこともありません。人口を管理するとは、単にさまざまな現象のなす集団的な集積物を管理するということでも、単に包括的結果の水準で管理するということでもない。人口を管理するということは、これを深く繊細に、細部にわたって管理するということでもあるのです。

したがって、統治を人口の統治として考えることは、主権の創設に関する問題をさらに先鋭化させるものであり、さまざまな規律を発展させる必要もさらに先鋭化されます。・・・というわけで、主権社会の代わりに規律社会が出てきたとか、規律社会の代わりに統治社会というようなものが登場したというふうに物事を理解してはならない。ここにあるのはじつは主権・規律・統治的管理という三角形なのです。主権的管理の標的は人口であり、主権的管理の本質的メカニズムは安全装置です。P131-132


「安全・領土・人口」 ミシェル・フーコー (ISBN:4480790470