なぜ現代日本人は豊かなのに不安なのか

pikarrr2010-11-07

日本人にとって個人とは人権ではなく干渉されない自由な環境


日本人は明治以降、市民革命を経ずに資本主義化をここまで進めてきました。産業化、貨幣社会化を重視してここまで来ました。日本人が民主主義より、自由主義を重視する傾向は明治以降の歴史的な背景もありますが、やはり島国という閉じた地理的条件からくるハイコンテクストな環境の影響が大きいでしょう。

日本は民主主義国家ではありますが、日本人は人権的な平等について真剣に吟味したことがありません。だから日本人にとって個人とは、基本的人権として尊重しあう存在であるより、経済的な豊かさにより他者に干渉されない自由な存在を意味します。

だから日本人は個人と集団は対立しません。日本人の中では集団主義的な行為と、個人主義的な自由は自然に共存します。ともにイデオロギーはなくただコンテクストによる慣習だからです。

日本人にとって集団は環境であり習慣です。ある状況になるとハイコンテクストから規律的な集団行動に実行します。それとともに、日本人にとって個人もまた環境であり習慣です。日本人の個人を支えるの、イデオロギーや人権などではなく、コンビニであり、マックであり、マンガ喫茶であり、部屋のテレビであり、バソコンです。日本人が世界有数のコンビニエンスな生活環境を作り上げたのはそこに個人を支える仕組みがあるからです。




日本人の低収入でも安価に満足が得られるコンビニエンスな生活環境


たとえば第二次産業は3K(きつい、きたない、危険)と言われ、若者は第三次産業(サービス業)を好みます。第三次産業は労働内容、時間に自由度があります。しかしこのような自由度が逆に問題を生んでいます。

ポストフォーディズム論でいえば、第二次産業で明確だった労働と生活の境界が曖昧になります。第三次産業ではフレックスなど労働時間が自由な分、サービス残業、自宅での持ち帰り労働、あるいは能力主義などで、労働への自由の裏面として労働に対する自己責任を求められます。

キャリアをつみ、よりよい職場を求める流動性という自由な労働環境では、自己責任として自主学習が求められます。また企業は人として雇うよりも能力を買うために労働者の生活そのものを保障しません。結果的に第三次産業第二次産業よりも一部の富むものと多くの安い賃金の者と格差を広げ、多くの不安定な労働者を生み出しています。

それでも現在の自由主義経済は魅力です。食は百均ローソン、マック、サイゼで満たされ、住はマンガ喫茶もあり、性はネットでエロは見放題、暇はフリーのゲーム。そしてオタクやネットで「オレは主体だ」と、やりたいことを表現して生き甲斐を感じる。低収入の労働者でも安価に満足が得られます。このようなコンビニエンスな生権力環境のなにが問題なのか。




日本人の不安はこんな楽な生活をいつまで続けられるのかという将来への不安


日本人はもともと慣習により社会秩序を保ってきたので、技術という集団的な身体秩序を基本として、高い生産性を実現する生権力は得意分野です。これによって豊かな国と、世界有数のコンビニエンスな生活環境を作り上げてきました。なのに最近の日本人の憂鬱はなんなのでしょうか。なにが不満なのでしょうか。

日本人の不安は、将来への不安でしょ。こんな楽な生活をいつまで続けられるのか。先の世代は第二次産業が主流の安定した終身雇用生活だったので、いまのようなコンビニエンス社会は初の試みです。

また年金もいまのままでは難しいともいわれます。隠されていますが世代間でいえば先の世代の既得権による安定した蓄積が不安定な子の世代の生活を支える日本の社会保障の現実があります。親の世代なきあとはどうなるのか。

だから最近の無縁社会問題は経済ではなく不安が中心です。老後の貧困が問題なのではなく、生活には問題がないが身寄りがなく孤独のまま死んでいく不安。いまの結婚せず子供作らないコンビニエンスな社会では、さらに老後は一人で死んでいく人が増えるでしょう。

これがほんとに問題なのか、疑問があります。問題とすれば社会の中の個人の孤立化が問題であって、死に様は結果でしかない。また社会の孤独は人々が個人の(消極的)自由を求めた裏面でもあります。そして無縁死がほんとうに不幸であったのか、死人に口なしです。どちらにしろ新たに社会の見えない先への不安が、豊かな日本人全般をおおっていることはたしかでしょう。

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