経済学は世界を記述しているのではなくて世界が経済学をまねている

pikarrr2010-11-18


一一世紀ヨーロッパの平均的な農民になった自分を想像していただきたい。主人の前にあなたがひざまずくと、主人は両手であなたの両手を包む。そしてあなたは、その主人だけに永遠に忠実であることを誓わなければならない。これは金銭的・商業的な誓いではない。あなたは生命と名誉を捧げるのだ。主人が外の世界から守ってくれるのと引き換えに、あなたはお金のない生活をし、自分の労働と、時には命を主人に提供することになるのである。

封建制下での主従関係において重要な点は、それが金銭にまつわる関係ではないということだ。領主の領地は売却可能な余剰生産物をほとんど生み出すことなく、取引の主流は物々交換だった。領主は自分たちの支配を金銭的に考えることはなく、領民もまた現金を手にしても使い途を持たなかった。

貨幣のない社会では私有財産制という概念そのものが存在しえなかった。農民の小屋と道具は、持ち主の人格の延長物と考えられた。・・・つまり、中世の農奴は自分が領主に対して負っている義務を超えて自分が耕す土地の生産性を上昇させる動機をほとんど持たなかった。領主が農奴を所有し、農奴の生産物をすべて所有しているとすれば、なぜ一生懸命働かなくてはならないのか?まして、創意工夫を凝らす理由など何もない。・・・封建制のもとでは、単に私有財産が守られず、法の下の平等が認められなかっただけではない。個人の基本的な消費活動も、大幅に制限されていた。P44-46


「「豊かさ」の誕生―成長と発展の文明史」 ウィリアム バーンスタイン (ISBN:4532352207)




人が「効用」より重視してきたのは「他者との繋がり」

効用(こうよう)とは、ミクロ経済学の消費理論で用いられる用語で、人が財(商品や有料のサービス)を消費することから得られる満足の水準を表す。

近代経済学においては、物の価値を効用ではかる効用価値説を採用し、消費者の行動は、予算の制約の下で効用を最大にするように消費するとされる。また利潤の最大化を目指す企業部門に対し、家計部門は効用の最大化を目指すものと仮定される。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B9%E7%94%A8


家計は効用の最大化を追求するとすれば、それはいつの時代から、誰に教えられて人々はそうなったのでしょうか。人類のDNAに刻まれているのでしょうか。それが当たり前と考えるのはあまりに自由主義経済を空気のように感じているということです。

人は生まれながらに効用の最大化を追求する動物ではなく、人が効用の最大化を追求するのは近代以降の自由主義思想教育の結果です。近代以前に人が「効用」より重視してきたのは「他者との繋がり」です。

たとえば精神分析では、人間と動物の違いを、生まれたときの未熟に求めています。動物は生まれてすぐに自立していますが、人間は生まれたときは未熟であり、自他未分化状態である。だから大人になっても他者を求めるが決して満たされることがない、のが人間であるということです。

どちらにしろ、個人の効用(満足)に還元し、他者を抜きにする人間像を語ることが、すでにかわりに貨幣で補うという功利主義を隠しているのです。




「他者」という2元方程式


哲学では「他者」というのは特別な意味があります。個人がたくさん集まっていても他者とは言わない。個人と個人が反応して、個人がたくさん集まった以上の効果を生み出すことを「他者」といいます。

これは1元方程式と2元方程式のようなもので、変数が増えるだけではなく、変数間の相関が生まれることで問題が格段にむずかしくなる。特に経済学の発祥を考えると、まず哲学の主体論の中でも1元方程式的な功利主義的な主体像を取り出して、経済学へと作り上げたわけですね。

1元方程式と2元方程式の比喩でいうと、マルクスの交換価値論は2元方程式ですね。商品の価値は使用価値という絶対的な価値があるわけではなく、相対的に他の商品群との関係の中で決まる複雑なシステムです。ですが、マルクスは古典経済学に回帰して労働価値説によって、労働時間に1元に還元してしますが。功利主義の効用価値説も、効用の1元方程式へと還元しますね。

2元方程式はシステム論ですね。最近のコンピューターシミュレーションの発達で経済学にも取り入れられています。




経済学は思想である


経済学は経済を客観的に記述するのではなく、思想であるということ。あるべきだろう思想にあわせて経済学は作られ実行される。

先に効用が功利主義から来ていることを知らない経済学徒がいたが、経済学は客観的記述のように教えられるから普通の反応なんだろう。最初、経済学は政治経済学だったのに、メンガー、シジウィック辺りで政治抜きの経済学がめざされて、政治が隠蔽された。そのころには自由主義思想が当たり前になっていたから可能だっただけで、経済学が政治思想であることにはかわらない。

権力は政治家、官僚、中央銀行などの大きな権力ではなく、経済学的な考えが日常生活に信仰することで、ミクロに作用するということです。だからフリードマンケインズの思想を知っている人が居なくてもいいんです自由主義思想はコンビニに行くことで実行されているわけです。




「効用」という代替可能な身体


「効用」がベルヌーイの統計学から出てきたことを考えればわかる。ようするにニュートンの時代に起こったことは、社会にも科学的法則性を見出そうとすること。まずは啓蒙主義による理性による合理的な法則性を見出そうとするが、失敗する。次に人口を対象に統計的な法則性を見出そうとする。その人間を表す指標として考えられたのが「効用」

ここでの「効用」は当然、人間を科学の対象=代替可能な身体としてみている。効用という思想は誰にでも共通した身体の快感量があることが前提とされている。ベンサムもその意味で効用を取り入れる。功利主義「道徳の科学化」を目指したわけです。ここでの効用は当然、同様な身体反応です。

このような考えは、人を動物と見るようで道徳的ではないという批判はできるが、現に自由主義経済では成功している面がある。自由主義経済は人を動物として見ることで、物質的な豊かさを生み出した。これが幸福なのか、という疑問があるが、結局、幸福の定義さえも自由主義思想が作り出しているのだから。

最近、序数的効用分析で効用をより厳密に考えるとか、行動経済学でより人間的な心理を経済学に組み入れるという試みが盛んだが、経済学の起源を考えると、必ずしも必要でないとおもう。

経済学は効用や需要と供給など、現実離れした理想モデルを使うことに意味がある。経済学は世界を正確に記述しているのではなくて、世界が経済学をまねているわけだから。幸福の定義さえも作り出しているのだから。




経済学は世界を記述しているのではなくて、世界が経済学をまねている


ボクの考えは、経済学は現実を離れていい加減だからこそ意味がある。ようするに経済学は世界を記述しているのではなくて、世界が経済学をまねているわけだから

経済学が利益を生む道具かどうかではなくて、経済学がなければ利益という概念そのものがないわけです。経済学は経済の正しさを作るという深度で利益という概念を生み出し、利益にむかう合理的な主体を提示し、営利企業の在り方をを生み出している。

「効用」は現実と解離した考え方だけど、人々が効用論(合理的な主体)のように行為すればいい/行為するように教育されている。均質な合理的主体なんかいないわけではなくて、大量生産大量消費によって、利益を経済学的に生み出すときに、教育されて、作られてきたわけですよ。

ベタにいえばGDPという一つの簡易指標が、一人歩きして向上するように経済政策はつくられる。それが国の経済の在り方になる。

たとえば少し前に話題になったのが「会社は誰のものか?」日本では株主への分配より就業員の雇用確保が重視されてきたが、それを変えていくことが求められている。そしてそれに合わせて経済的な指標がつくられ公開することが求められている。そして企業戦略はその指標に合わせたものに代わり、労働者もまた作り替えられる。

人口というパースペクティブ、人口に固有の現象が持つ現実は、家族モデルを決定的に遠ざけ、経済というこの概念を中心に違うものの上に移動させることを可能にするでしょう。・・・統計学が少しずつ発見し明らかにしていくのは、人口には固有の規則性がある、ということなのです。・・・人口はその集合状態に固有な効果をもつものであって、・・・家族という現象に還元することができない、ということなのです。統計学が教えるのはまた、人口は、その移動や行動様式や活動によって、固有の経済的な効果を持っているということです。

統治の知の成立は、広義の人口をめぐるあらゆるプロセスについての知、まさしく人々が「経済学」と呼ぶ知の成立と絶対に切り離しえない。・・・統治の技法から政治学への移行、主権の諸構造に支配された体制から統治=政府の諸技術に支配された体制への移行は、十八世紀に、人口をめぐって、したがって、政治経済学の誕生をめぐって行われるのです。P261-268


フーコー・コレクション〈6〉生政治・統治」 (ISBN:4480089969)