なぜお笑い先進国日本のお笑いは世界市場を獲得できないのか

pikarrr2010-11-19

お笑いとはコンテクスト操作術


お笑いとはコンテクスト操作術だね。いまみなにこんなコンテクストが共有されているだろう水準があり、あえてコンテクストを破り一瞬で緊張を生みだし、それを一気に緩和(笑い)させる。たとえばボケとツッコミというお笑いの基本系は、ボケが非日常的なことをいい緊張を生み、ツッコミが日常的なことをいって緩和される運動で笑いが生み出される。ツッコむことで非日常性がより強調されるとともに、観客全員に緊張を緩和させるタイミングを同期させる。たとえばお笑い番組の笑い声も効果も同様な効果を狙っている。

お笑いとは簡単にいえばこういうことなんだけど、もはやお笑いになれた人たちはちょっとしたことでは緊張しない。古い喜劇ではバナナですべることで爆笑が起きたが、もはやバナナですべることで笑いが起きるだろうコンテクストが共有されて、「バナナですべることで起こる」笑いがもはや古くてダサい」からこそあえてそれをやるというボケへとひねられている。

だからひねってひねっての読み合いになったりする。かといってそこにコンテクストが全く共有されてないと緊張だけが残されて狂気が口を開き、背筋が凍ることになる。シュールな笑いとはあえてそのギリギリを狙うお笑いの挑戦的な試みなんだと思う。




日本はお笑い先進国


笑いがコンテクスト操作術だということは、とても文化依存性が高いということだ。言葉の壁だけでなくて文化が違うために笑いが伝わらない。世界的に受ける笑いがチャップリンやMrビーンのようなコンテクスト依存性が低いベタな身体ドタバタ劇であるのはそのためだ。

日本人は海外の笑いをベタすぎて退屈に感じることから、日本はお笑い先進国と言われる。それは日本がもともと島国でハイコンテクストな国であるためだ。もともと共有性が高いのでひねり回数が多くてもみながついてこられる。多文化社会ではそうはいかない。ひねりすぎると一部だけに受ける教室ノリみたいなことになってしまうだろう。

そして日本人がハイコンテクストであるが故にお笑いコンテクスト操作術は様々な試みられて、どんどんひねりが複雑化する。それとともに受け入れる人々の「センス」も訓練されていく。

しかし日本のお笑いが高度であるからといって、海外に輸入してもほとんどウケないだろう。お笑いというのはおもしろいなにかがあるのではなく、場(コンテクスト)との共有として面白さが生まれるものだ。コンテクストまでは簡単に輸入できないない。海外のコンテクストを洗練させる、観客を訓練する必要がある。




音楽はコンテクスト依存が低く単独でのすばらしさを持っている?


お笑いに対して音楽は海外に輸入されやすい。その意味では音楽はコンテクスト依存が低く、作品単独でのすばらしさを持っていると言えるかもしれない。と簡単にいえないのは日本の音楽が海外で受けないのはなぜか。結局、アメリカの音楽だけが世界市場で成功しているのはなぜか。と考えると、音楽もコンテクストを切り離せるほど単純ではないということだろう。

いまのポップスがアメリカ生まれで、アメリカの音楽コンテクスト、たとえば英語で歌うこと、白人、黒人が歌うことが世界の共通コンテクストとして広まっていると言える。ボクたちはタイ人がタイ語でロックすることにどこか滑稽な感じを受けるように、海外からみれば日本人が日本語でロックするにも違和感があるのだろう。

それでも、ウィンドウズというプラットフォームの世界標準ほどではないにしても、アメリカ音楽が世界市場を獲得しえたことは、お笑いよりも音楽がコンテクスト依存が低い文化であることは確かだろう。

同様に世界市場を獲得したハリウッド映画が、コンテクストに依存しない方向、映像がジェットコースター化し、物語がベタな道徳化しているのは、世界のどこでも受けるようjにコンテクスト依存性を下げる戦略だろう。そして退屈な娯楽作品を量産しているわけだ。
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*1:画像元 拾いもの