ツイッター 11/21〜12/17 

pikarrr2010-12-17


マクロコンテクストと行為論


ボクがマクロコンテクストと呼ぶのは、均質な個の集団が偶然にさらされている(自由状態)ことで全体秩序が生まれることが前提とされている文脈。

マクロコンテクストは近代化の中で人々が突き付けられた現実である。自分は多くの一部としての権利がある、自分は多くの一部としての義務がある。これが現代人においても社会秩序の基本原理になっている。




なんだかんだいってボクの思考の興味は二つに集約される。一つはマクロコンテクスト、資本主義の基盤としていかに生まれ働いているか、もう一つは認知主義の限界としての行為論。行為の一部として認知があるが、実際は転倒されている。

ではマクロコンテクストと「転倒された行為論」の関係は?たしかに行為は記述が困難であるから、活字文化としての近代文明では、ないものとなるだろう。

近代化はマクロコンテクストによる合理化なわけだけど、合理化が進むほど残余としての「創造」に価値がおかれる。行為とは飼い馴らされた身体反応でしかなく、自立的な理性として認知を求めようとする。

マクロコンテクストという均質な個からの存在証明として、世界を支配しているのは自律的な自分の認知だ、という強い強迫性。




労働という形而上学


社会科学の黎明期を知るとはいかなることだろう。今ではすまして科学的な顔をしている経済学や社会学がいかなる混沌から生まれたか。そこにいかなる暴力があったか。それはいまも社会科学がもつ傷である。

労働という形而上学。労働とは自然主義である。「類的存在」と労働が結び付いたのは偶然ではない。自由主義では労働価値説として労働時間と貨幣時間が等価となる。しかし現代において労働は時間ではない。当たり前なことであり、一つの倫理である。すなわち「働かない人はクズである。」

「労働」は近代に生まれ変わったと言えるだろう。資本主義には貨幣売買される労働が求められた。そして労働価値説として、貨幣と等価な労働が生まれる。

この特殊性を指摘したのがアーレントである。ギリシア時代の活動/仕事/労働の区分と比較し、労働は動物的であり、労働と非労働しかないアダム・スミスマルクスの世界の特殊性を指摘する。

社会主義思想にとって労働とは労働者であり、主体と同じ意味がある。しかし現実には社会主義思想が封建社会ではなく、資本主義から生まれたのは、問題の本質が階級ではなく資本主義で生まれた富の分配であるからだ。

アダム・スミスはマスとしての労働(時間)と主体を、創発により二重化することで理性的な主体をまもった。マルクスは、資本主義では労働者は労働時間として貨幣価値に還元され、社会主義において(理性的な)主体は取り戻される、と歴史において二重化する。

しかしアーレントの批判は労働時間ではなく、(理性的な)主体としての労働者にむかう。ここにすでにはじめの還元があると。




いまも景気と充足は相関するか


若者が海外へいかないといわれるが、あまりに日本が居心地がよい。生活環境のクオリティが他の先進国と比べても段違いに良い。たとえばトイレットペーパーひとつにしても見た目同じに見えても薄くて柔らかくてできが全然違う。

地デジだ、エコポイントだ、エコカーだと、まだ十分使える製品を国民一斉に強制的に買え替えさせて、むだにこれだけ消費してるにも関わらず景気が良くならないってどういう国?もうおわってないか?

結局、エコポイント、エコカーとか家電、自動車企業という古い産業の優遇は、波及効果が薄かったんだろうな。企業税率引き下げがどこまで効果があるか。

内需拡大の問題は欲しいものがもうないことだよね。ネットで無料で充足できる。それもいままでの消費により充実できるかな。不景気というよりそういう時代ということか。

いままでは景気を表す経済指標が、国民の満足度であったわけだけど、指標そのものかシフトしているのかもしれない。景気指標は悪いが、国民の満足はどうか。いまで充足してしまえているのではないか。

たとえばかつての自給自足の社会にいまの経済指標を当てはめれば、経済成長しない最悪の数値わけだけど、物差しが違うわけだ。




どうも最近は開き直りが得する社会になっている気がする。寛容や融通、臨機応変は徳を得にくい。おそらく日本社会が富を新たに生むことがなく、ある富を取り合う社会になっていることによるのだろう。




マイケル・ジャクソンのすごさ


マイケル・ジャクソンはほんとすごいと思うんですね。マイケルのなにがすごいのか。マイケルより踊りがうまい人はごまんといる。エグザイルの方がうまいでしょ。でもマイケルより踊りが「っこいい」人はいない。でもかっこいいとはなに?かっこいいはかっこいいとしか言えない。だからすごいんですね。

うまさは練習で作られるけど、「かっこよさ」はどうやって作られるんだろう。そりゃ練習は必要なんだろうけど、いくら練習しても身につかない。マイケル・ジャクソンなにを基準になにを目指して「かっこよさ」を作ったのか。感性か。すごいよね、マイケル。




最近の宇多田の曲には色気がないんだよな。ファーストラブの頃のような・・・




歩いていると前を歩く女性のお尻を見てしまうわけだけど、十人十色いろんな歩き方があるな。なにが違うかわからないけど、お尻の動きがいろいろある。一番よいのはお尻が左右にクイクイゆれるやつ。本人も気が付いてないんだろうけど、どういうメカニズムなんだろう。ボクたちは歩くなんて誰も同じと思っているが一人ずつ体の使い方にくせがあって違うんだろうね。だから靴の裏の減り方も様々。この違いはどこからくるのか?

アイフォン女子がタッチバネルを操作する指使いがエロく感じるのはボクが指フェチだからだろうか。ケータイの親指操作は色気がないけど、タッチパネルの人差し指のソフトな指使いがよい。
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