なぜラカンはウィトゲンシュタインを越えていくのか ラカン入門

pikarrr2011-01-14


「社会の秩序はいかに可能か」


哲学の問いに「社会の秩序はいかに可能か」というものがあります。ある規則が正しいとすると、その規則の正しさはなにによって証明されるのか。それが証明されても、ではその規則の正しさを証明した規則の正しさはなにによって証明されるのか・・・と無限後退してしまう。すなわち決定的に正しさを証明する規則は存在しない。

たとえば数学でも基礎となるのは公理という前提です。これを、ウィトゲンシュタインクリプキ)は「規則のパラドクス」と言います。そしてラカン大文字の他者大文字の他者は存在しない」というのはこのことです。

ウィトゲンシュタインは規則が基礎付けされていなくても社会秩序が成立しているという事実そのものを重視し、言語ゲームと名づけて受け入れたの対して、ラカンはこの問題を精神的な症候へとつなげます。精神的な病の患者は社会秩序が基礎付けされていないということに不安を覚えて日常生活を円滑に進められなくなると。




ウィトゲンシュタインの楽観主義、ラカン悲観主義


これらをウィトゲンシュタイン的な楽観主義解と、ラカン的な悲観主義解と呼んでもいいでしょう。

ウィトゲンシュタインは、根本的な規則がなくても社会秩序が成立しているという事実を重視して、「慣習」によって乗り越えられていると考えます。人は「規則」に従っているのではなく、慣習の「規則に従う」ようにただ行為している。

ただ他人がふるまっていることをまねて体で覚えていく。そのようにして社会的に慣習は継承されていく。そこでは社会秩序が成立しているという事実があり、なぜそうなのか説明しろ、と言われてはじめて説明出来ないことに気が付く。

ラカンは、このような楽観主義を受け入れることはできません。なぜならそのような慣習からこぼれ落ちて、日常生活を円滑におくれなくなって救いを求める患者が目の前にいるからです。「自然にふるまえばいいんだよ」ではなんの解決になりません。




なぜラカンは言語にこだわるのか


ラカンはまずこの問題を言語の問題としてとらえます。人は大人になる過程で「去勢」によって言語体系をインストールされます。そこに社会的な秩序の在り方=掟が書き込まれおり、これによって人は社会的な秩序をしらない子供から社会的な秩序に従属する大人になります。

ただしここでいう言語とは言語文法の法則性です。ウィトゲンシュタインがそうだったように、この問題への解決では「意味」を問うと無限後退に陥ります。規則のパラドクスを解決するには「ただ法則性が刻まれる」しかないのです。その意味でウィトゲンシュタインラカンの解決はそう遠くはありません。

ただしウィトゲンシュタインが法則性を慣習という言語を含めた広く身体訓練まで含めたのに対して、ラカンは言語にこだわります。なぜラカンは言語にこだわらなければならないのか。なぜなら精神分析だからです。精神分析が患者へ作用する方法は言語だけです。患者の話を聞き、患者へ語ることで治療するからです。




精神分析ラカンの倫理


ラカンがこのような言語文法の法則性の全体を大文字の他者と呼ぶとき、それは現実的は言語体系そのものを表すものではありません。いわばそんな都合の良い言語体系は存在しない、不可能であることが前提とされています。だから誰もが「自然に」ふるまっているように見えて、規則のパラドクスという狂気に近接して生きている。誰もが一歩間違えば精神的な病に陥ると。

ラカンの有名は三界で語ると、まず去勢される(言語獲得)前の子供は自分が中心な想像界にいます。次に大人になるために去勢(言語獲得)されて象徴界大文字の他者)」へ参入します。しかし象徴界大文字の他者)は不完全でしかなく現実界という穴が開いています。すなわち象徴界による正当な社会秩序を求めますが、不可能であるあめに(規則のパラドクスに陥って)無限後退します。そこに日常に近接する狂気が開いている、ということです。

まとめると、ウィトゲンシュタインラカンの大きな違いは、一つは、ウィトゲンシュタイン「規則のパラドクス」を日常生活では表れないという事実として語ったのに対して、ラカン精神分析家として日常に開く狂気であり病の元であるととらえます。もう一つは規則のパラドクスへの解を慣習という言語を含めた広い身体訓練を含めたのに対して、ラカン精神分析家として言語へこだわったことです。




片思いという病い


この対立をどのように考えるでしょうか。あなたはどちらを支持するでしょうか。たとえばラカンの考えが全面化すると、道を歩いているときにも次の一歩で地面が陥没しないと何故言えるのか、という問いが浮上します。そのような日常はまさに病いです。

人は日常生活ではこのような「規則のパラドクス」に躓くことはありません。だからラカンは精神の病の患者を想定した特殊な解である。だからこのような特殊なラカン論を人間全般に無批判に展開することには問題がある、のでしょうか。しかし普通の人でもちょっとしたことでラカン論になる場合があると思います。

ボクが例としてよくあげるのが、思春期、あるいは片思いです。人は片思いすると相手のちょっとした行動が気にあります。少し目があったという些細なことで、相手が好意がある、ないといういくら考えても答えが出ない問いの前で悶々とし妄想します。ここでは、いつもの日常が懐疑の対象になっています。あるいは思春期には人は当たり前の日常への深い懐疑に陥ります。




哲学という病い


さらには、「規則のパラドクス」という問いそのもの、その問いを生み出した哲学的な思考そのものが、精神分析的ではないでしょか。

ウィトゲンシュタインの解、慣習によって自然にふるまっているというのは、解と言うよりも「規則のパラドクス」という問いそのものを「疑似問題」として差し戻します。そんなもの最初からない、ということです。

哲学とは言語によって世界を説明するという技法ですから、それでは話になりません。だから「規則のパラドクス」の解としては、ウィトゲンシュタインよりもラカンの方が受け入れられている面があります。

そもそも「規則のパラドクス」は後期ウィトゲンシュタインの思考をクリプキが分析することで考えた問いです。そしてウィトゲンシュタイン「規則に従う」としかいえないという絶妙な箇所で「寸止め」したのに対して、ウィトゲンシュタインをこえて「哲学」して、ラカン大文字の他者に近い「(超越論的な)共同体」という解にたどり着きます。




フーコー的実践 「社会の秩序をいかに可能にされたか」


しかしラカンが思弁的で、ウィトゲンシュタインは日常的である、というのは話が簡単すぎるかもしれません。「社会の秩序はいかに可能か」という原理的な問いは、フーコーによって歴史へ開かれます。

たとえば精神分析への一番の批判はその人間像が人間不変なものとして語っているということです。精神分析的な人間像は近代的な発明品ではないのか。近代化とは合理主義的、国家主義的です。少数で多様な民族が国家という枠組みの中で、合理的な経済活動を重視する国民として教育されていく。その大きな潮流の中で精神分析が正常人と狂人の分別などの矯正装置の一部を担っているのではないか、とフーコーは批判します。

さらに矯正対象としてフーコーが重視するのが、ウィトゲンシュタインがいう慣習です。近代化では「規律訓練権力」として慣習を矯正する様々な装置が作られてきた、と。

すなわちフーコーによって「社会の秩序はいかに可能か」という哲学的な原理への問いは、近代化によって「社会の秩序をいかに可能にされたか」という実践的は問題として取り組まれます。

さらに言えば、「社会の秩序はいかに可能か」という哲学的な問い自体が事後的であると言えます。すなわちすでに近代化という社会秩序改革が実践的に進む中で、より効率的に進めるために理論的に「社会の秩序はいかに可能か」という問いが発明された、ということです。
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