「夜戦と永遠」読書日記
2011/01/12(水)
「夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル」佐々木 中(ISBN:4753102661)を読み始めました。
まだラカンの章ですが、なかなか面白いですね。ラカンはいい加減なんだ、という入りは良いですね。大いに賛成です。だからラカンなんかどうしようもないということではなく、それを前提に読み込むという真摯な態度。
多くのラカンの入門書の困った点は、このいい加減さを懸命に補完して体系化しようとするところ。だいたいが演劇じみて興奮した語りで乗り越えようとする。そこを冷静に語った本って本と少なくてね。
特に面白いのが結局、ラカンのシニフィアンとはなにか?なにでできているのか?ラカン自身のいい加減さ、とまどい。ここでも以前議論したことがあったと思います。このようなラカンの限界をもとに、つぎにルジャンドルへ繋がっていくんでしょうね。
2011/01/12(水)
ラカンの章読
入門書的に順調に来てたら、「女性の享楽」でいっきに振り切られたなあ。女性の享楽しらなんだ。マイナーだけど、あたるんはここがラカンの臨界ととらえたわけだね。
女性の享楽とは要するに出産でしょ。男にできない女の喜び。そして性関係が失われたはずの人ができる、奇跡的な動物的な行為=子供を産みための性関係、性関係は存在する。ここから、芸術家などの創造に繋がる。創造する喜び=女性の享楽。さらに世界を生み出す「政治家」の喜び。すなわちラカンで禁じられていた、生の思想への扉が今開く。
と理解したけど
ルジャンドルの章へいきませう
2011/01/13(木)
鏡を見ることの気持ち悪さ。そこには自分しかいないのに見られている気まずさがある。鏡により自分が自分を見張っている。そこに突然、自分でない自分が登場する。すなわち第三者がいる。
しかしこれはあまりに視覚主義ではないだろうか。そもそも鏡ということを基本にすること自体が、ハイデガーのいうデカルトに始まる近代の現前性の象徴である。
なぜ鏡によって自己は発見させなければならないのか。自己とは鏡によって発見されるものであるなら、その自己とは始めから、視覚主義な自己でしかない。
それ以外の自己はないのか。たとえば人が一つの身体を獲得していくのは他者のものまねを通してであるとしても、それは視覚を通してか。ただ単にまねることはないのだろうか。
2011/01/13(木)
ルジャンドルに章に入って一気にペースダウンした。知らないだけに仕方がない。
ようするに、ルジャンドルが言っているのは、精神分析は西洋キリスト教圏の秩序の在り方を継承していると。
精神分析への批判は、精神分析的人間が普遍性を持っていると言うことだ。いかなる時代も、いかなる場所でも、人間とは精神分析的であると。その点に、フーコー、ドゥルーズらは批判してきた。精神分析は近代に発明された一つの装置であると。
ルジャンドルは、ラカン派でありながら、同様に批判する。精神分析は西洋キリスト教圏の秩序の在り方を継承していると。一つの人間像の在り方でしかないと。
それでもルジャンドルはラカン派である。では、ルジャンドルにとってのラカンとはなにか。1つは西洋の法学者として(西洋の)法の原理、なぜ法は正しいのか、を説明する手がかり。2つは西欧の法の起源、キリスト教の原理、いかに社会秩序を生み出すのか。その分析にラカンの有効性を見たのだろう。
ラカン派でありながらラカンを批判するというアンビバレント、どこまでがラカンでどこまでがその先か、これが見えにくいのが、ルジャンドルのわかりにくさの一つかもしれない。
2011/01/17(月)
ルシャンドルの章を読んだ。
二つの疑問がある。
・なぜラカンではダメなのか。
・なぜラカンじゃないとだめなのか。
なぜラカンではダメなのか。ラカンとの大きな変更点は象徴界と想像界を重ね合わせること。そのために、ラカンの想像界の代表である<鏡>のメタファーを重視する。言っていることはわかるが、ラカンも3界はどれか単独であるのではなく、いつも合わせてあると言っている。それを分離して語るのは、フロイトの回帰であり、また一つの成長神話をわかりやすく語るためだろう。
ルジャンドルには精神分析、フロイトというこだわりがないために、このような変更は容易だった。それとともに、ルジャンドルは象徴界に「物質的」を持たせたかった。テクストは言葉に限らないということ。精神分析に、より普遍性を持たせるためには物質性=身体の去勢が必要だった。それはキリスト教圏以上のプリミティブな文化圏へ広げるためには必要なことだったのだろう。
しかしそうするとなぜラカンじゃないとだめなのか、という疑問がわく。ルジャンドルは象徴界に身体を重ねるために、鏡のメタファーを用いるが、鏡はあまりに視覚中心主義すぎる。身体といってもそれはあくまで(視覚による)イメージなのである。たとえばフーコーがいうよう規律訓練権力では、身体の分節(調教)は視覚に限らない。環境に合わせて身体を反復して訓練することで。
ルジャンドルがラカンに傾倒していく過程はよく知らないが、まずにラカンからスタートしてこと。それとともにルジャンドルが法学者であり、やはり重要であるのは言葉による掟=象徴界であったこと。象徴界がまずあり、そこに身体性を持たせたかった。そのために都合の良かったのが<鏡>であった。<鏡>をラカンの臨界としてとらえて装置として利用した。
鏡というメタファーは、ラカンでは想像的である場面とされるが、また象徴的な場面でもあるとも言われる。この取り入ればそれほど画期的なことではない。むしろなぜラカンはそれを語らなかったのか。その手前まで来ているのに。
それは、もし象徴的な身体についてラカンが語ると、精神分析はどうなるのだろうか。たちまち患者は寝椅子から立ち上がって、踊らなければならない。
あるいはルシャンドルが語る精神分析の系譜学。精神分析は普遍性を持たず、がある時代の産物であるということ。これもラカンは、その手前まで来ている。しかしもしそれを語れば、精神分析そのものが、終わってしまうだろう。
ではフーコーの章へ
2011/01/22(土)
フーコーの章に入って退屈になった。ラカン、ルジャンドルの章の明快さがない。フーコー分析が自説と対決だから、丁寧になぞりすぎ末梢にこだわりすぎる。そもそも講義録はある種のアドリブであって、前後の整合性が悪いことはそれほど珍しくない。この思考から書物が生まれるわけで。
あたるんはフーコーが主権権力、法権力を古いものと位置づけるルジャンドル批判の問題を掘り起こそうとしてるが、問題はほんとにそこだろうか。
フーコーがラカンを目の敵にしているというようにあたるんはフーコーを目の敵にしている、だけではないだろうか。
2011/01/23(日)
長いフーコー解説のあと、一気に来たね。フーコーとルジャンドルの融合。あまりの早業に何がなにやら・・・強引すぎる。これだけ長い本でもっとも重要な部分が短すぎるよ。
やはりパノプティコンの通路を使ったか。
「監獄の誕生」。あの本の中でのパノプティコンの章はあまりに不自然だ。監獄の誕生は、前半と後半で断絶している。 最初から読めば、規律訓練権力が身体訓練の権力であることは、一目瞭然なのに、後半に突然パノプティコンが登場し、視覚中心主義が表れる。パノプティコンと言う概念がわかりやすく、強烈さであるために、一気に転覆してしまう。このために今では、規律権力とは視覚によって主体を形成する構造主義的な権力という理解が一般化してしまった。
あたるんは見事に、この破れを使い、パノプティコンの視覚主体化をルジャンドルの鏡主体化とをつなげてしまった。
主体・・・視覚、表象 / 身体・・・訓練、環境
この近代哲学内の対立。(近代)哲学は視覚中心主義であり、主体主義だった。そこに身体を導入すること、それがフーコーの、「監獄の誕生」での転回だったはずだ。
その破れ=パノプティコンを捕まえて、安易にフーコーとルジャンドルをつなげてもいいのだろうか。
2011/01/25(火)
完読。
たしかにフーコーとルジャンドルは限りなく近づく。ルジャンドルは主体から身体へ、フーコーは身体から主体へ。ルジャンドルは鏡のメタファーで、主体に身体を導き入れた。しかしそれは表象、イメージとしてである。フーコーはそうではなく、身体そのものを取り入れたのだ。そこに表象がないとは言わないだろう。しかし表象とは切り離された、身体のレベルがあるのだ。
あたるんはネオリベラリズムのフィクションであるから、規律権力も生権力もフィクションであり、転覆可能だと位置づける。確かに完全な自由な交換など、フィクション以外のなにものでもない。だからといって、規律権力、生権力もフィクションであると片づけるのは安易である。規律権力、生権力の本質とは環境に従う権力である。
ネオリベラリズムは環境を作り替える。いまだかつてない大量の投資、すなわち労働力によって効率的な生活環境を建築する。この配置はフィクションでもないし、そこに従う身体は表象でも主体でもない。ともに思想だとしてもネオリベラリズムとマルクス主義の違いはそこにある。この「重さ」こそがフーコーがかつての主権権力と切り離して考えたかった権力である。そこに法や主権があるかないではなく、「重さ」が増しているということだ。
そもそも近代化を、中世解釈者革命に還元するのは無理がある。起源があるとしても、その後の市場経済の潮流にふれないというのはあまりにあまりだろう。ボクは、変革が不可能だと言ってるわけではなく、「重さ」を軽く見ては変革も起こせないだろう、ということだ。
かといって、ボクはあたるんの考えと近いところにいあると思う。現代人は「動物化」などしていない。しているとすれば、そのような環境が配置されてそのように振りまわされるからだ。だからこそ主体化する。かつて人は日が昇れば起きて働き、日が沈めば寝た。教育も受けないから学識もない。そえこそ動物のようだ。それに比べて、現代のオタクを見ればわかる。自らを現前化したいと創造に生きる。退屈な繰り返しを強いられるなら死んだ方がましだという。いままでここまで主体化した人々がいるだろうか。そしてドグマな世界を生きる人々が。
本書で、ルジャンドルに興味をもってしまった。フーコーとラカンの対立の歩み寄りとしてのルジャンドル。フーコーがあまり語らなかった法と生政治の関係が語られているのだろうか。「ドグマ人類学総説」読んでみよう。フーコーと相容れない限界を見るために。
2011/01/27(木)
ボクが思うのは非西洋人である日本人として、ルジャンドルのベースにある禁止、鏡、表象、法による主体論への違和感がある。いくらそこに身体を導入してオリエンタルへ拡張しょうとしても馴染まない違和感がある。
主体とは別の権力を主張するフーコーの方が馴染む。すなわち禁止の契機なく、「自然」に身体に覚えさせる権力に、納得がいく。
日本人が社会秩序を保つのは、言葉、法ではない。身体的な作法である。ルジャンドルはこれこそ儀礼だというだろう。鏡により身体表彰を分割すると。しかし何かが違う。否定的な契機がない。
たとえば自転車乗りを覚えるとき、否定的な契機は必要だろうか。主体化は行われるだろうか。繰り返し体で覚えるだけ。なにを覚えたかわからないが乗れるようになる。そこにフィクションなどないフーコーが注目したのはこのような権力だ。
そこに法や禁止の契機=掟がないとは言わないが。日本人はこのような身体訓練を基本に社会秩序を維持してきたように思う。