なぜAKBは愛と貨幣の交換を偽装しないのか  「アイドル」の共同製作

pikarrr2011-06-14


「選挙は一人一票じゃないか、本当に総選挙と言えるの?」って言う人もいるけど、私たちにとって票数は皆さんの愛です。 (第2位 大島優子 第3回AKB総選挙にて)


「愛」と貨幣を結びつける集金方法


「AKB商法」に一部で批判が出ている。今回の総選挙ではCD1枚に1票の権利があり、熱狂的なオタクが自らの押しメンのために複数枚購入することが起きた。「選挙といいながら一人1票ではない。」「ファンを騙して大量のお金を使わせている」など。

しかし「愛」と貨幣を結びつける集金方法は別にAKBに始まったことではない。アイドルやタレントなど、人気商売では基本的な集金方法である。なぜAKBが批判されるのかといえば、いままでのアイドルに比べてAKBの場合はあからさまだ。そのために「キャバクラ的AKB商法」などと非難される。

たとえば少し前にバラエティ「さしこのくせに」で、番組を継続するためには、ネット投票で10万票の賛成を集まらないといけないという企画があった。そして視聴者が票をいれるためには300円を出してAKBサイトのモバイル契約をする必要がある。結果、数時間で10万票が集まった。3千万円の売上げである。




なぜAKBは「愛と貨幣の交換」を偽装しないのか


モーニング娘もデビューの時はCDが1万枚売れなければデビューできないという企画があった。彼女たちが懸命に街にでて手売りする姿が感動を呼んだ。これも、愛と貨幣と交換する手法である。彼女たちが批判されなかったのは、貨幣はあからさまに登場せず、CDという音楽作品と票が交換されている、彼女たちの懸命な努力が賛同を呼んでいるのを見せているからだ。

そして「さしこのくせに」も同様な演出ができたはずである。モバイルサイトの登録者のために、コンテンツを自分なりに苦労して作成する。街頭で汗を書いて宣伝する。その結果、モバイル契約者10万人が集まったという演出をすれば、非難されることもないだろう。単なるネット投票ではあからさまに貨幣と票が直結して見えてしまう。

総選挙では、ファンがCDを複数枚買う姿が報道された。CDとは1枚で作品として音楽を聴く機能は完結するので、複数枚買うのは票と貨幣が直結して見えてしまう。

むしろ不思議なのは、AKB商法はあまりに無造作で、なぜ票と貨幣が直結してみえないようなファンタジーを演出をしないのか。仕掛人秋元康と考えると単にずぼらであると考えにくい。物議を起こすことで話題作りする作戦か。あるいはアイドルとキャバクラに違いがあるという幻想自体を暴露するためか。




女子がいて男子がいればアイドルは生まれるよ


秋元康はかつて素人をアイドルにするという「おにゃんこクラブ」を仕掛た。かつてのような国民的アイドルファンタジーが成立しないのは承知だろうが、アキバの素人たちにみたのはさらに進んだアイドル事情だっただろう。

アイドルのメッカであるアキバではメイド喫茶から、路上からアイドルが溢れている。誰でもアイドルになれる時代。彼女たちはかつてのようにメジャーなアイドルをめざしているわけではない。ただアイドルになりたい(変身したい)のだ。そしてオタクたちは彼女たちをアイドルとして扱う。ただアイドルになりたい(変身したい)女子たちがいて、それに男子たちが熱狂すれば「アイドルゲーム」は成立するそこに大きな仕掛けはいらない。




オタクは「アイドル」製作の「愛の」共作者


AKBもいまでは全国区のアイドルになったが、いまもアキバに劇場をもち日々ファンとふれ合う「会いに行ける」アイドルだ。そこでは、AKBメンバーたちが自ら公演をつくり、またオタクたちも意見をいい、声援の仕方を考えて、ともに「アイドル」を作っている。

簡単にいえば、秋元康が行ったことは、アップルがiphoneアプリのプラットフォームを公開したようなものだ。そこでAKBメンバーとオタクが「アイドル」をつくる創発的なゲームが繰り広げられる。オタクは「アイドル」の共同制作者だ。だからオタクたちにとってもAKB総選挙は世間に自らの創作物を披露する晴れの舞台なのだ。

「アイドルに入れ込んでもつきあえるわけではない。現実の女性とむきあえ」というオタクへの批判はナイーブすぎるだろう。愛と貨幣の交換を偽装するかつての国民的アイドルファンタジーを前提にしている。まあ、「愛の」創作物を披露するためにCD数枚程度の金ぐらい安いものだという人もでるだろう。

創造消費者(ネオ・プロシューマー)」の登場 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090616#p1


ネット住人はトフラーがいう「生産消費者」でありつつ、生産消費者に比べると、生活に根ざすと言うよりも、知的な領域において創造性を遊ぶ傾向がある。彼らを新たに「創造消費者(ネオ・プロシューマー)」と呼びたいと思う。

生産消費者(プロシューマ)が家庭仕事など誰もがもつ一面であったように、創造消費者(ネオ・プロシューマー)も趣味を楽しむなどのように誰もがもつ一面である。これらの境界を引くのは難しいかもしれない。例えば魚釣りを楽しむことは、創造消費な趣味であるが、それが食料になれば生産消費ともいえる。本を読むことは創造消費な趣味であるが、その知識が生活に役立てば生産消費である。

創造消費者は「経済性」には無頓着である。彼らはいわば「関心」を集めることを望んでいる。特にネット上の「関心」Web2.0などと呼ばれるように、創造、消費、創造、消費・・・という運動を生み出す。そしてそこに帰属意識が生まれる。

トフラーが「生産消費者の復活」というとき、「物質的に豊かな安定した生活を目指す」という「経済」的が強いのに対して、「創造消費者」「社会」的である。いわば創造消費者は非金銭経済ではなく、非金銭「社会」の住人なのである。


*1