なぜ悟りには修行が必要なのか

pikarrr2011-08-23

ヘーゲルと猿


禅もそうだが、宗教全般において修練の方法は自らを律することにある。自らを律するとはやりたい放題の反対だ。欲を絶つ生活をすること。これってなんだろう。

思い出すのが、以前テレビでやっていた猿の実験だ。飼育された猿はいつも餌として一定量のサツマイモが与えられている。実験としてその猿にいつもの量以上のサツマイモを大量に与えてみる。しかしいつもの量程度を食べると満足したのか、それ以上は食べなかった。

次にサツマイモにバターを塗って大量に与えてみる。すると、いつもの量を越えてたべ続け食べることをやめなかった。考察すると、バターを塗り美味しくすることで、満腹を越えても、美味しさの快感を求めつづけたと考えられる。

この実験はヘーゲルの有名な欲求と欲望の違いを思い出させる。ヘーゲルによると、動物には欲求しかない。だから満腹になると満たされてしまう。しかし人間には欲望がある。欲望には終わりがなく満腹になろうが終わることがない。たとえば飽食の時代と言われる現在、食への欲は満腹を軽く越えている。

では、猿でも満腹を越えて求めた実験結果はヘーゲルを越えているのだろうか。おそらく今後、猿にバターを塗ったサツマイモを与え続ければ、飽きて一定量の食事に落ち着くのではないだろうか。

今回、猿に美味しさを与えたのは人である。人が満腹以上を継続し続けるのは自らで新たに快感を開発し続けることができるからだ。すなわち人が快感を開拓する欲求がヘーゲル「欲望」といえる。ヘーゲル「欲望は他者の欲望を欲望する」といった。欲望は単に快感へのアディクション(はまり)ではなく、他者の評価を求める故に終わりがない。




言語と欲望


このヘーゲルの欲望論をさらに拡張したのがラカンである。ラカンでは「他者の欲望」は拡張される。ラカンは人が幼児から習得する言葉体系そのものが欲望を生み出し、言語を獲得することそのものが他者の欲望の転写であると考える。

人は言語を持つことで、世界を概念的な把握することができるようになった。そしてさらに言語把握は世界を切ったり張ったりと高度に操作することを可能にした。その能力が次々に快感を生み出すことを可能にしているのである。その動力は言語そのものに備わっているということだ。

これらのことを整理して考えるのにベイトソンの学習論が役立つだろう。ベイトソンは動物の学習をレベルわけした。

猿のアディクション(はまり)は一次レベルでしかない。美味しかった快感を覚えていて繰り返す。それに対して、人間は2次、3次まで習得が可能だ。単に快感にアディクトするだけではなく、それを概念化して理解して、さらには創造し続けることができる。そしてラカンによると、人は2次、3次レベルの習得が可能になった故に、猿にはない「欲望」を持つことがなった。

0次レベル・・・学習しなくてもできる本能レベル


1次レベル・・・単純な反復練習によって覚える。動物が芸を身につける、人が慣習を身につけるレベル


2次レベル・・・対象を概念として把握し理解する。言語を習得し話すレベル


3次レベル・・・概念体系そのものを操る。コンテクスト操作、創造行為、お笑いなど




悟りとは「欲望」を律する方法


ココまで来たところで最初に戻ろう。宗教全般において修練の方法、自らを律すること、欲をたつとはいかなることか。

1次レベルまでしか学習できない動物は自らを律することができないだろう。「猿のオナニー」の神話ではないが、飽きるまで快感を求めてしまう。しかし人は高次のレベルから、0次、1次の欲を絶つことができる。欲が生まれる状況を把握し、将来にわたる問題を予期して、自らを律することができる。

しかしまた人は動物とは違い高次レベルで把握し、操作することが可能になった故に、次々と新たな快感を生み出してしまう。すなわち快感を生み出す快感という欲望をもつ。

悟りとはこのような高次レベルの「欲望」を律する方法といえるだろう。そのために、欲望発生の元凶である2次レベルの言語概念把握を解体する。すなわち言葉体系や常識に囚われないようにすることが必要である。




慣習の矯正


解体することもとても難しいが、さらに困難なのが再構築である。ただ解体したままでは動物に戻ってしまう。悟りがある意味で動物の戻るのは正しい。「鳥が空を飛び、魚が水に泳ぐ」ごとくだから。

しかし1次レベルの再構築をともなう必要がある。3次レベルから2レベルを解体するというパラドキシカルな行為を行いつつ、新たに立脚すべき1次レベルの「慣習」を再構築する。

この再構築は、論理的に3次レベルから行ったのでは結局、2次の言語概念による再構築になってします。これを避けるために、禅の修行ではただ無心で質素で単純な労働を繰り返し繰り返し行う。

そこではなぜこのようなことをしているのか、どこを目指しているのかと考えてはいけない。ただただ簡素な生活経験を繰り返すのみである。それによって慣習を矯正する。これこそ、悟りが「生活経験の上に立脚しなければならぬものである」という意味だ。そして言語により理解と違い、慣習を矯正するには長い時間がかかる。

といって、単に慣習の奴隷になってはいけない。おそらく1次レベルの慣習の矯正から再び、3次レベルの創造によって、二次レベルを再構築し直さないといけないのだろう。これによって、2次レベルの既成概念、そこから生まれる欲望そして不安から解放され、自由になれる・・・らしい。




参照:[お勉強]「禅学入門」 鈴木大拙(1934) 
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20110822#p1

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*1:画像元 拾いもの