なぜ日本の禅には暴力的な匂いがするのか

pikarrr2011-08-24


考える名無しさん

鈴木大拙は、ニューエイジ思想の人だという印象があります。確か、大東亜戦争についても、推進・肯定派に与していた人だったような。生死の区分さえも無考えに無化、解除してしまうと、犬死にも大往生も、生きるも死ぬも関係ないような世界が誕生してしまうから、この手の思想も、少し注意して扱わないといけないと思う。

新興宗教ライフスペースの教祖もそんな感じで、信者か誰かの死体を目の当たりにしても、そうした生死の区分はこの世的なカテゴリーで、現実には、魂としては今でも生きている状態だから何の問題もないみたいな謬った理路に陥ってしまう。

心が壊れても大丈夫なように座禅という身体訓練をすると書き込みにあったけど、その理路であれば座禅など組むよりは、プロのアスリートのように全身を鍛え上げた方がいい訳であって、それとは違う意味があるのでしょう。

写経、読経、なぜ、同じことを延々と繰り返すのか。洗脳効果ももちろん、そこにあると思う。生理学的な意味では、副交感神経を賦活させて、不安感を除去する効果などが考えられます。簡単な作業療法だとも言える。




第三の波平

経歴見ると、鈴木大拙って、東大哲学科なんだよね。禅にはまったのも同じ時期だから、哲学が先になった可能性がある。あの時代の哲学と言えば、なんといってもヘーゲルだからね。

ボクは禅とヘーゲルが似ていることを書いているけど、そうではないんだな。鈴木大拙の一番の功績って、海外に英語で禅を紹介したことにあるよね。海外に禅を紹介するということは、まず禅を論理的、哲学的に分析しないといけないよね。そうでないと、西洋人は理解できない。そのときに、鈴木はヘーゲルを使ったんだな。いや禅がヘーゲルで説明できることを発明したんだな。ボクはそれを再現しただけだったんだな。

鈴木大拙は、ニューエイジ思想ではなく、ヘーゲルなんだよ。生死の区分も無化する。戦争推進・肯定派、さらにはボクが指摘した欲望論。ヘーゲルそのものじゃん(笑)


座禅は禅の一部でしかない。鈴木は座禅だけするのは間違っている。堅実な生活経験をしろと言っている。生活経験としての慣習の矯正が必要なわけだ。身体を鍛えるのではなく、慣習を鍛えるんだよ。

写経、読経、なぜ、同じことを延々と繰り返すのか。洗脳とは、心理的なものではなく、身体=慣習的だからだね。自然にふるまえるように体に覚え込ませる。

しかしこのような慣習の矯正が、洗脳のような何でもすり込ませることができるのか、疑問はある。慣習はいわば生物学的なものまで繋がっているから。大げさに言えば、進化を遡る。だから殺人マシーン的な人間を作ることはできないと思う。そして禅もまた自然主義であることから逃れられない。



考える名無しさん

あと、春日という精神科医内田樹との対談で述べていたのは、患者の身体が弱る方が、その精神疾患が快癒するケースが多いらしい。つまり、ナミヘイさんの主張していることと逆の現実がある。健全な肉体に狂気が宿るみたいな内容の話だったけど、肉体的には健康でも精神的に狂っている感じの人など、幾らでもいる感じがする。




考える名無しさん

うすうす気づいていたけど、改めて言われるとかなり正当な理論だね。自分はよく電車でそういう人達を見かけるんだけど、記憶にあるかぎり、ほぼ全員がマッチョだった。マッチョというのは簡略化した表現で、要は背が並以上で体格がよいという感じ。お前もうちょっと食えよというの反対にある人種。そういうのがほぼ全員。で、その半分くらいは付き添いの人がついて暴走を制している。後の半分は一人。てか、なんで電車なんだろうw電車の前と後はあの人達どんな行動しているのだろう?まあいい。とにかく超健康で体力があることだけはたしかだ。




第三の波平

肉体的な健康と健全は違うということでしょ。肉体的に健康でも、欲望にまみれた慣習である不健全な人は大いにあり得る。禅的な健全とは、欲望を律するよう慣習を矯正すること。

鈴木は禅は禁慾主義ではないといっている。禁慾主義とは、逆に欲望的なんだよね。欲望のおもしろいのは、増やすだけではなく、減らすことにも同じように働かせることができるところ。食への欲望は人を太らせるけど、ダイエットもまた欲望なんだよ。というかダイエットを成功させる方法は欲望に変えること。食べないことは苦しいが、その結果体重が減っていることに快感を覚えるようにすること。




考える名無しさん

ジジェクは日本の鈴木大拙について話しています。日中戦争において、中国で戦った日本の軍人が、鈴木大拙の禅の思想の影響を受け、殺人マシーンになってしまったことを、ジジェクは批判しているようです。

http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/9346621.html




第三の波平

紹介ありがとう。ヘーゲルときてラカン、そしてジジェク。役者が揃った(笑)

この姿勢において、戦士はもはやひととして行動することはない。彼は完全に脱主体化される。あるいは、鈴木大拙自身がいうように、「実際のところ、殺人を行うのは彼ではなく、剣そのものである。彼には、誰かを傷つけたいという欲望はない。しかし、敵が現れ、みずから犠牲者となるのである。剣はまるで、自動的に、正義の役割を果たしているかのようだ。ここでいう正義の役割とは、慈悲の役割である」。殺人をめぐるこの記述は、現実に介入するかわりにただ事物をあるがままに現れさせようとする現象学的態度を究極的に説明したものではないか。剣自身が殺人を行い、敵自身がただ現れ、みずから犠牲者となる−つまり、わたしには責任はないのであり、わたしは自分の行為を受動的に見守る観察者でしかない。こうした態度が示しているのは、あの有名な仏陀の眼差し」が、冷酷極まりない殺人機械の支えとしていかにうまく機能しえたか、ということである。


「操り人形と小人」 ジジェク(2004) (ISBN:4791761502

これだけではよくわからないですね。ただボクが次に考えたいのは、武士が台頭した鎌倉時代に日本で禅が流行った。その後、武士の精神性を洗練するために使われたという事実は重要だと考えています。さらにいえば、明治維新は下級武士によるブルジョア革命で、明治維新以降、対西洋のための国民一致の富国強兵のために使われたのは、武士の精神性です。このとき、日本人総武士化されたとも言えます。

武士とは、無秩序化した社会で、武装した自衛集団であり、信頼(義理人情)を基礎にした強固な集団を作り上げるための方法です。日本の禅が、自らの欲を捨てるとことで、集団のための身を捧げるという武士の精神性を洗練したことはあると思います。




考える名無しさん

オウム真理教の人達は禅的なものだけに取り組んでいた訳ではないけど、集合的な殺人マシーンと化したのだし、思考停止を促すだけの身体や精神への刷り込みは十分に効果を現したのだから、何でもよく注意した方がいいと思う。

オウムの教義がどんなものかは知らないけど、無差別殺人を肯定出来る人間へと促す教義が、そこにあった筈。収監中の麻原教祖の存在だって、重度の精神病患者なのか、単なる凶悪犯罪者なのか、もしくは、それらを超越した解脱者であるのか、禅のロジックで捉えると判明でなくなる、もしくはその悪魔的な在り方さえ肯定されてしまうから、注意が必要。

親鸞のことも述べていたようだけど、それなら、ビンラディンみたいな無差別大量殺人を指揮したような人間も救われるの?秋葉原の加藤みたいな人も、救われる?それは、有り得ないと思う。親鸞が勝手に作ったファンタジーを無批判に真に受けるのは、怠惰な態度に感じられます。




第三の波平

宗教というと、オウム真理教へ短絡するのは日本人の宗教アレルギーでしょ。爆弾テロがあったから、爆弾を否定するごとく。

有名な、親鸞の他力思想のジレンマですね。勉強中のボクがどうこう言うことではないが、師匠の法然による、仏教史上画期的な革命である他力思想は、日本人が行ったことに実は意味があるとボクは思っている。ボクはここにも日本人的な自然主義が隠されているのではないかと。すなわち日本人は、悪人も救われるから悪いことをどんどんしろ、といって、はたして無秩序に犯罪を起こすだろうか。その前に、日本という島国では、日本人単一の素朴な自然主義、慣習主義が根付いていたわけで・・・




第三の波平


ようするに指摘としては、鈴木大拙の禅思想には、右翼的、暴力的な面があるということですね。この匂いはボクも感じていますよ。ヘーゲル的であることもあるし、さらに禅思想の中でも、特に鈴木は「純粋」を重視するんですね。

結局、仏教とは経験に基づいた慣習体系なんだろう。体系と言っても、体系化されていたり、論理的に説明されているわけではなく、経験に基づいた逸話が積み重なって、自己組織的に増殖した総体だが。伝承という方法はあるが、経験そのものを伝達することは難しい。だから経験のエッセンスを逸話として記述し、後続者は読み考えて体験し、新たな逸話を産み落としていく。

それに対して、鈴木の禅思想は、このような大系をも良しとせずに「純粋」を強調する。結局のところ、それは鈴木の説明とは別に、形而上学的なものに繋がっている。そしてそこに「日本的なもの」が隠されていると思う。

倫理的な人は賞賛すべき奉仕の行いをするが、しかし彼は常にそれを意識しているのだ。さらにはまた将来の報酬を期待することもあろう。彼は訓練されており、その行為は客観的にも社会的にも善である。しかし純ではない。禅は不純を嫌忌する。人生は芸術である。その完全の芸術のように、それは自己没却でなければならない。そこには一点努力の跡、あるいは労苦の感情があってはならぬのである。禅は鳥が空を飛び、魚が水に游ぐように生活されなければならない。P68-69


「禅学入門」 鈴木大拙(1934)  (ISBN:4061596683)

でもこれって、鈴木の思想だけだろうか。そもそも日本で禅思想が受容された段階で、「日本人的なもの」が隠されていた。先に指摘した同じ鎌倉仏教の親鸞の他力思想に「日本人的なもの」が隠されていたように。ようするに鎌倉仏教の誕生とはそういく時代だった。

さらに鎌倉時代が武士の台頭の時代であって、日本の禅思想は武士の暴力性との深い関係が隠されているのではないか、という疑いは大いにある。そしてこれって日本人がもつ暴力性ではないだろうか。ジジェク鈴木大拙への批判って、日本人の精神性のもつ危険性への注意のようにも思えるのは気のせいか。
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