「禅学入門」 鈴木大拙(1934)

pikarrr2011-08-22

ISBN:4061596683

禅とははたして仏教徒の色々の教訓にみるような、高尚深遠な知的、形而上学的は哲学大系であるのであろうか。・・・禅はまったく論理や分析の上に築かれた哲学ではないのである。いずれかと言えば、禅は論理の正反対である。すなわち論理は思考の二元論的様式を具えたものである。が、禅は心の全部であるから、禅のうちには知的要素があると言えるが、心とは多数の機能に分割されたり、また解析の終わった後に何物も余さぬような合成物ではないのである。P22

禅は、吾々は余りに言葉と論理の奴隷であると思っている。吾々はこうして縛られている間は、吾々は悲惨である無数の哀しみを味わわねばならない。しかしもし吾々が何物か知る価値あるもの、すなわち精神的幸福に導くものを見いだそうと希うならば、吾々はただ断然すべての条件から離脱することに努めなければならない。・・・ここには論理もなく、哲学化もなく、人為的手段に合致せしめんがために事実を枉屈することもなければ、知的解剖に委するために人の性質を殺すこともないのである。・・・この意義において禅は明らかに実際的である。抽象や弁証法の巧妙さは禅の関知するところではない。・・・禅は神や霊魂を説かない。また無限や死後の生命を語らない。P63-64

論理学には努力と労苦の跡がある。論理学には自覚の意識がある。人生の事実に対する論理学の応用であるところの倫理学もまたその通りである。倫理的な人は賞賛すべき奉仕の行いをするが、しかし彼は常にそれを意識しているのだ。さらにはまた将来の報酬を期待することもあろう。彼は訓練されており、その行為は客観的にも社会的にも善である。しかし純ではない。禅は不純を嫌忌する。人生は芸術である。その完全の芸術のように、それは自己没却でなければならない。そこには一点努力の跡、あるいは労苦の感情があってはならぬのである。禅は鳥が空を飛び、魚が水に游ぐように生活されなければならない。努力の跡が現わうるるや否や、人は直ちに自由の存在を失う。彼はその本然の生活を営んでいないのである。P68-69


ボクのコメント:心を言語として捉える。言語論的、構造主義的である。



禅は敢えて自ら好んで非論理的を装っているのではない。それはただ人をして論理的一致が最善ではないこと、また知的聡明によって得られざるある主の超越した提唱の存在することを知らしめるためである。「然り」と「否」の知的通路は、物が常道を走っている間はまことに便利であるが、一度び人生最後の問題に逢着すると、智能はついに満足な解答を与えない。「然り」といえば、吾々は断定したのである。しかし断定は自己制限である。また「否」と言えば、吾々は否定したのである。否定は拒絶である。拒絶と制限は結局同一のものであって、それは精神を殺す。何となれば完全の自由と完全の一致とに生活することが、精神の生命ではないか。拒絶と制限には自由も一致もないのである。禅はよくこのことを弁えている。故に吾々の内的生命の要求に従って、禅はいかなるものの対立も存在せざる絶対の領域を提唱するのである。

しかし吾々は肯定に活きているのであって、否定においてでないことを思わねばならない。なんとなれば生命は肯定に過ぎず、しかしてこの肯定は否定に伴われたり、また否定によって条件づけられたりしてはならない。しからざればかかる肯定は相対的となって絶対的でなくなってしまうからである。かくのごとき場合には生命は、その創造的独創力を失ってしまい、精神を欠いた骨と肉とのほか、何物をも生ぜざる機械的一過程になってしまうのである。自由であるためには、生命は絶対的肯定であらねばならない。それの自由なる活動を阻害するあらゆる条件、あらゆる制限、あらゆる対立を超越しなければならぬのである。P73-75

ここに一つの禅の研究者が、特に注意して避けねばならなぬ、危険な陥穽(かんせい)がある。それは禅を自然主義自由主義、放埒無軌道性などというものと混同してはならなぬことである。自然主義は、人の自然的傾向に従って、それの起源も価値も究めずに、盲従するということである。人間的行為は、道徳的本能及び宗教的意識を欠いている動物の行動ではない。その間には非常に差異がある。動物は自らの状態を改善したり、またはより高い徳に進めたりすることについて、何ら努力することを知らない。P107


ボクのコメント:生命には否定はなく肯定しかない。なんと言おうと自然主義的である。



大概の宗教的隠者の苦労することは心身から一致して働かないことである。身体は心から遮断せられているし、心は身体から遮断され、別々に身体があり、心があるという風に思っており、この遮断は単なる観念上のことで仮設上のことであることを忘れている。禅修行の目的はこの最も根源的な区分を認めないことにある。身心いずれかの一方の考えを強調し易い習慣を避けるように常に気をつけることである。真の悟りは空の状態ではないが、区分的な考えのまったくなくなったところに達することにある。静かな瞑想によってしばしば生ずる心の沈滞は悟りを熟させるには何の役も立たない。修禅に進まんと欲する人々は、究極において本来の心的活動の流動性をまったくとどめてしまわないようにいつも当然注意すべきである。

これを道徳上より見れば、体力の消費となる労働は、一方に思想の健全さを試すものである。特に禅においてそれの真なることが窺われる。禅にありては、実際生活に何らの反映を持たぬような抽象的概念は畢竟無価値とされているのである。信念は経験を通じて獲得されるべきもので、抽象によってではない。道徳的肯定は必ず知的判断の上位に置かれるべきものである。すなわち真理は人の生活経験の上に立脚しなければならぬものである。P175-176



一人の僧にあてがわれる広さを畳一枚とし、彼はっこに坐って、坐禅もやり、瞑想もやり、また夜になると蒲団を布いてそこに寝るのである。蒲団は夏冬を問わず、五尺に六尺のものただ一枚が支給される。枕などなく、各自その所有品を出して勝手に工夫して枕とする。しかしその所有品なるものは、次のようなものだけである。一個の袈裟と、一着の衣と、二、三冊の書物と、剃刀と、椀の一組、それが全部である。彼らはそれを幅一尺、長さ一尺三寸、高さ三寸半程の紙製の箱に納めて持ち歩くのである。P177

禅僧の作業は人のよく知るところである。屋内の研究のない日は、大抵夏は五時半頃、冬は六時半頃、朝飯の直後に僧院の庭に出ているか、しかれざれば禅堂に附属の畑を耕している。後刻その一群は附近の村へ托鉢に出かける。・・・彼らは自給生活を営まねばならぬのだから、農夫ともなり、熟練な労働者ともなり、熟練しない労働者ともなる。・・・彼らは普通の労働者以上の激しい労働をやるのであろう。が、そのように働くことが彼らの宗教である。P182-182


ボクのコメント:禅学はヒューム、ウィトゲンシュタインなどの慣習主義である。そして思想ではなく、実践と言う意味で越えている。ウィトゲンシュタイン曰く「私は当にそのように行為するのである」。なんと禅的か。慣習は決して語れない。そうするだけだ。

「「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」(ウィトゲンシュタイン)」




仏教によれば、所有慾は人間が陥り易き誘惑のなかで最悪なる情慾の一つとされている。事実上、この世の中にあって不幸を誘発するところのものは、所有慾に対するほとんど一般的な衝動であるのである。勢力が望まれるところから、強者は常に弱者の上に暴威を揮い、富が望まれるところから、富者と貧者とは常に仇敵となって争う。

しかし禁慾主義が禅僧生活の理想と断定してはならぬ。禅はその窮極の意義に関する限り、禁慾主義でもなければ、またはその他の倫理的大系でもないからである。・・・僧侶生活の中心思想は、与えられた物について、それの最善の利用を計ることで、決して徒消することではない、しかしてこれはまた至る所の仏教の精神であるのである。事実、知能や、想像や、その他あらゆる心的機能は、吾々を囲繞(いによう)するところの物的対象 −吾々の体を含むところの一切− は、吾々の所有する最高能力を充分に発揮し、向上せんために与えられているのである。それゆえに、他人の利益や権利と衝突したり、それを毀損したりするところの単なる個人的気まくれや、慾望の満足のためではない。P178-180

禅堂で行われるこの種の僧院教育が、ある点において、時勢後れであることは疑うべくもないが、生活の単純化や、制欲や、瞬時をも惰性に過ごさぬことや、自己独立や、いわゆる隠匿なるものや、こうした指導原理は、どの地方へ行っても、またいつの時代になっても、健全なものである。特に最後の隠匿の概念の真理は、禅の訓練としてその紛れもなき特徴であるのである。それは物を取り扱う上においてそのものの持ち能う限りをつくさしめ、その徳を充分に実現せしむることである。すなわちそれは与えられた物は、すべて完全に、経済的に充分使用することを意味する。これを宗教的な言葉で言うならば、自分自身と周囲の世界とに対して、最も感謝的な、最も敬虔的な、心構えを持つことである。そしてこれによって一切の行動を規制して行く ことである。これは報酬や我慢の考えを捨てて善を善のために行うことを意味する。小児が水に溺れている。私が水中に飛び込む。そして小児が救われる。ただそれだけのことである。なさなければならぬことがなされたのだ。私は歩み去る。そして後を向かない。そしてそのことはもはや私の考えにはないのだ。雲が飛び去って、空はまた元の通りに青く広くなる。禅はこれを「報酬なき行為」(無功用または無功徳)と呼ぶ。そして雪を以て井戸を埋めんとする人の仕事に譬えるのである。P196-197


ボクのコメント:欲望を最大の敵とする清貧思想。清貧が健全であるということも一つの思想だろう。現代のマクロ経済では無駄な消費こそが全体の豊かさを生み出す善である。清貧思想はどこにきたのだろう。どこに基礎づけられるのだろうか。自然主義?慣習主義?

ボクコメント:「報酬なき行為」とは、デリダがい言うところの、人には不可能な神の境地である純粋贈与である。人は必ず下心から逃れられないという。経験は可能にするのか?