なぜ日本人の本質は「ただあること」なのか

pikarrr2011-09-06


犯罪者としての赤穂浪士
打算的武士道としての赤穂浪士
パフォーマーとしての赤穂浪士
武士の三層
純粋贈与としての武士
純粋暴力としての武士
草木のように「ただある」という生き方
「ただある」ために「ただ否定する」 禅的転倒
日本人の美学は死ぬことではない
ガラパゴス化「ただあること」の運動



犯罪者としての赤穂浪士


忠臣蔵はいまも日本人の大好きな物語である。赤穂浪士事件が起こったあと、一般民衆から賞賛の声が上がった。それは芝居となり、そして現在にわたるまで繰り返し演じられている。「日本倫理思想史(三)」和辻哲郎(ISBN:4003811070)の中での、赤穂浪士事件に対するその時代の反応についての分析は大変興味深い。

赤穂浪士は事件後に幕府に捕らえられて法的に裁かれ処刑された犯罪者である。これに対する幕府の見解は以下である。

吉良義央が赤穂候を殺したのではなく、逆に赤穂候が義央を殺害しようとした。その被害者を君に仇と見るのは理屈が立たない。赤穂候が死んだのは国法による処刑であって、義央の関知するところではない。もし恨むなら幕府を恨むべきである。

敵討ちが合法であった時代に敵討ちとは認められなかった。幕府はすでに古くある武士道精神を、組織重視の儒教へと変革を進めており、法の元において献身を重視した古い武士道精神は認められなかった。




打算的武士道としての赤穂浪士


葉隠で有名な山本常朝 は、古い武士道の立場からも赤穂浪士を批判している。

武士としてなすべきことは、主君に一命をささげることであって、敵打ちを成功させることではない。吉良邸に討ち入り義央の首級をあげることができず、同志がことごとく討ち死にしたとしても、武士としての道は立つのである。それに反して、敵打ちの準備中に敵に死なれたならば、主君のために一命をささげ得なかったという腰抜けの事実だけが残る。従って大石らは、主君が怨みを抱いて切腹した時に、その怨みを晴らすために即座に立って敵打ちを決行するべきであった。その敵打ちに成功するか否かは拘泥すべきではなかった。

武士にとって死すことに理屈、結果はいらない。まず死ぬことが重要である、ということだ。これは、敵討ち自体は献身の武士としては当然で、死ぬ姿勢において甘いという、ラディカルな批判である




パフォーマーとしての赤穂浪士


それでも、民衆は赤穂浪士を古い武士道として賞賛している。それがいまにも続く、「常識的な」評価である。

赤穂浪士に対する賞賛の声が社会の最下層にまで行きわたっていた。赤穂浪士が義士と呼ばれ、その敵打ちが義挙にとして讃えられるといことは、当時の世間一般の体制であった。赤穂浪士を義士たらしめたのは、忠臣蔵の芝居を喝采して迎えた民衆に常識として存していた古い武士道の勢力による。

ベタにいえば、武士という一握りの選民は、いまでいえば「芸能人」のようなものだ。それは民衆からの一方通行ではなく、武士もまた民衆の目を気にせずにおれないということだ。武士道はもはや民衆という観客抜きに語れないパフォーマティブなものになっていたのだ。




武士の三層

鎌倉時代の古い武士道・・・献身としての武士

戦国時代の英雄的武士道・・・パフォーマーとしての武士

江戸時代の儒教的武士道・・・組織の一員としての武士

このような3つの見解は、わかりやすくいえば、武士が経た時代に対応している。鎌倉時代「献身としての武士」とは、中央集権による暴力の独占が崩れて、地方に分散することで、地方は自衛の必要があり、自衛手段として武士が台頭してくる。この時代には、秩序は法でも、経済でもなく、身近な信頼関係である。といっても、信頼関係はとてもあやふやなもので、いつ反逆されるかわからない。このために強い信頼が重視された。その究極的が主君のためにただ死ぬことであった。

その後、武士の世となり、下克上の戦国時代となる。数が力となり、多くの人々を集めて、戦術に長けていることが武士に求められる。この時期に自らの権威を誇示し人々を魅了するために、武士はパフォーマティブへなっていく。戦国武将たちの機能性とはかけ離れた鮮やかに飾られた武具が象徴的である。

江戸時代となり、世が安泰させるために家康が武士へ導入したのは儒教である。儒教は大きな組織のもとに忠義によって人々の振る舞いを規定したものである。安定した武家社会の中で、それまでの情動的なもの、パフォーマティブなものを排除し、規範的な武士像が求められた。




純粋贈与としての武士


主君への忠誠という意味で、献身の古い武士道と儒教的な武士道はなにか違うのか。儒教的な武士道において、君主との関係は贈与関係である。贈与は返礼を求める。相手を助ければ自分も助けてもらう。成果をあげれば褒美をもらう。互いに助け合う関係。世界的に「忠誠」といえばこのような贈与関係だろう。

しかし献身の古い武士道では、贈与に生まれる返礼を排除し純粋化する。君主への献身は決して見返りのないものなのだ。少しでも見返りを求めることは不純なのだ。これは純粋贈与と言えるだろう。

純粋贈与は人知を越えた神の領域であると言われる。人が贈与するときに必ず見返りを求めてしまうからだ。そしてそれは決して悪いことでないだろう。それは社会的な経済則である。しかし武士は見返りを不純として純粋贈与を求める。

武士が求める純粋贈与とは、神の領域に達したいということではなく、「自然」の領域だろう。樹に実がなり人はそれを食べて命を繋ぐ。樹は人に与えるだけで何の見返りも求めない。天の恵みは純粋贈与である。自然はなにも語らずなにも求めずただある。武士は「ただあること」「自然である」ことを理想とした。




純粋暴力としての武士


さらに純粋贈与を考えるときには、その裏面である純粋暴力についても考える必要がある。天の恵みが純粋贈与だとすれば、天災は純粋暴力である。人が暴力をふるうときには、目的、意図、感情がある。そのために回避するための交渉が可能になる。しかし天災にはなにもない。あるのはただただ暴力である。どんなに悲惨な状況になっても容赦なくただ暴力がふるわれる。

そして雨が降ることが純粋贈与であるのか、純粋暴力であるのかさえ、自然はまったく関係がない。だから純粋贈与と純粋暴力はまったく同じものの裏表なのだ。

もし武士が純粋贈与によって、主君への見返りのない贈与を行うなら、武士とは恐ろしい存在である。武士が敵へふるう暴力は純粋暴力である。目的、意図、感情がなく、交渉などできない、ただ純粋な暴力である。そこにあるのはもはや死ぬか生きるかだけである。




草木のように「ただある」という生き方


多民族世界において脅威は他の民族であった。だから武力と共に、交渉の技術を磨き、自らの正当性をしめる論理を形而上学まで拡張して確立しようとした。

しかし「隔絶した島」に住む日本人にとって脅威は自然である。自然とは他民族のような交渉はできない純粋暴力に対してなすすべがない。この世界は「無常」なのであり、この世界に生きるものは「あわれ」なのである。

しかしだからといってただ絶望するわけにはいかない。純粋暴力によって無常に破壊されて愚痴っても嘆いても仕方がない。自然の草木が潰されても潰されても育つように、「ただある」だけだ。それが原初的な日本人の生き方である。

だがこのような自然信仰は世界的にも珍しくない。このような自然信仰は主に自然に生きる未開文化に生まれる。しかしやがて原始的な共同体へ統合される中で、素朴すぎて他民族によって淘汰される。

しかし日本人の自然信仰は「隔絶した島」に住むために侵略されなかった。といって未開社会のままで止まったわけではない。大陸から間欠に伝わる文化をみずから吸収し、重層的に発展させた。その中で「ただある」姿を美意識への洗練させていった。




「ただある」ために「ただ否定する」 禅的転倒


日本人の原初的な「ただある」とは生き方ですらなく「姿」である。ここから武士道へと直結することはできない。なぜなら日本人の「ただある(生きる)」が、武士道では「ただ死ぬ」という美意識へ転倒されているからだ。

この転倒を起こした一つが禅である。禅では自然環境の厳しさに向き合い真の「自然」な自分を見いだす。そこでは素朴な「ただある」姿は理想とされるだろう。

禅においては、「ただある」という生への肯定へ至るために一度自らを否定しなければならない。世俗にまみれた我々は一度否定しなければ肯定できないからだ。そしてこの否定の契機が、ただの素朴な生に、「我」を目覚めさせる。そして「ただある」姿を一つの理想像として現前化させる。

禅の修行において、「ただあること」へ近接するために行うことは、無心で座禅を組むこと、単調な生活経験を繰り返すこと、或いは念仏宗においては、無心で念仏を唱えることだろう。あるいは、茶道など、質素で静かなものへ傾倒することで逆に美を見いだそうとする侘・寂(わび・さび)の文化など。

重要なことは、「ただあること」の美学は運動であるということだ。「ただある」へ向けてただ祈り、座禅を組み、ただ見いだす。




日本人の美学は死ぬことではない


だから「ただあること」の美学は決して「ただ死ぬこと」ではない。しかし武士道は「ただ死ぬこと」を選ぶ。否定において「死」が重要であるのは究極的な否定であるからだ。しかしここにすでにある種のパフォーマンスが介入していないだろうか。庶民に対する武士という新興の支配層としての貴族主義的、権威主義的な気負いのようなものが。

「ただ死ぬこと」はあまりに劇的である。人々を魅了すると言う意味で魅力的である。だから「ただあること」の美学にはたえず死がつきまとうことは事実である。

原初的な日本人の生き方である「ただある」がすべて消失したわけではない。いまも慣習深く根づいているだろう。文化としては禅的にものとして転倒されて、「ただある」ことの美学を目指す運動となった。そしてその究極に「ただ死ぬ」という武士道がある。それは劇的で人々の熱狂がともなう。




ガラパゴス化「ただあること」の美的運動


このように禅、武士道などというと、現代日本人にとってはジャパニズム、すなわち西洋から見た日本の神秘のようだが、そうではない。これはまさに現代の日本人に繋がる。たとえばボクは現代の日本人の「ただ改善する」ことでの「(文化的)ガラパゴス化にも同様の運動を見いだす。

日本的なものを表すことばとして、「(文化の)ガラパゴスという比喩は秀逸である。この表の(自虐的ネガティブな)意味は、技術が進歩しているのに日本に閉じて自己満足で世界に通用しないということだろう。

またこれには裏の(ポジティブな)意味を読み取れる。進化とは突然変異と自然淘汰である。日本は多くの突然変異を生み出す力がある。すなわち進歩を生み出す無数の創意工夫を産出する力がある。この力に日本人としての「ただあること」の美学的運動を見ることができるだろう。(つづく)



・・・細川家の殉死事件を取り扱った森鴎外阿部一族によって、われわれはほぼ推測することができる。・・・鴎外は許可を得た殉死者の心理を解剖してこう言っている。殉死はもちろん自分の発意であるが、しかしそれと同じ強さで、自分は殉死を余儀なくされているという意識がある。それは周囲の人が自分を殉死するはずのものだと思っているに相違ないからである。もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱をうけるであろう。その屈辱よりも死の方がよい。殉死者の遺族は主家の優待をうけるのであるから、あとの心配はない。それが殉死者の心理なのである。鴎外はそのあとへ、殉死者の母親、若い妻、家来、女中などが、暗黙のうちにこの殉死を期待している姿を描いている。すなわち当時の風習が殉死を余儀なくさせていたというのである。それに対応して、鴎外はまた、殉死を願い出る家臣たちに残酷だと感じながらも許可を与える忠利の心理も解剖している。忠利はこの家臣たちが命を惜しまぬものであることを信じている。なにも殉死によってそのことを立証する必要はない。しかし殉死を許可せず彼らを生かしておくと、彼らは家中から命を惜しむもの、卑怯者として侮られる。それを思うと許可せざるを得ないのである。P310-311


「日本倫理思想史(三)」 和辻哲郎 (ISBN:4003811070)

雨ニモマケズ 宮沢賢治


雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち 慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている


一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを 自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり そして忘れず


野原の松の林の陰の 小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい


日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ 
褒められもせず 苦にもされず
そういうものに わたしは なりたい


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