沈黙の宗教――儒教 加地伸行

沈黙の宗教――儒教 加地伸行 (ちくま学芸文庫) ISBN:4480093656
第1章 儒教の深層、宗教性




儒教文化圏において墓が重視される理由

短い人生を生きる者のための安心できる死生観を宗教者に説いてもらい、死の不安や恐怖を取り除いてほしいと要求がでてくるのは当然である。そうした要求に応じた説明が、インド諸宗教を貫く輪廻転生という死生観であった。・・・死後、その魂は元の身体に帰ってくることはありえないし、第一、元の身体はもうかいて捨ててしまっている。つまり、遺体あるいは遺骨を納める墓を建てる必要はないというのである。お墓を作ることは、輪廻転生を説くインド仏教として無意味なことなのである。

儒の歴史は古く、孔子はその中興の人物にすぎず、儒の教えは孔子から始まったのではない。・・・儒たちはこう考えた。人間は精神と肉体とから成り立っているとし、精神を主催するものを<魂>、肉体を支配するものを<魄>とした。心身二元論である。・・・この魂・魄は、人間が生きているときは融合し共存して蔵まっているが、死ぬと分裂する。いや、分裂するから死ぬのかも知れない。

理論的には、離れたものは再び結びつけることができるはずである。そこで、分かれた魂・魄を再び結びつける。そうすることによって、<この世>に再生が可能だと儒は考えたのである。具体的には、もとのとことへ魂を招還し、魄を復帰されること、すなわち招魂復魄の儀式を行うこととなる。

たとえば、骨が動物によってどこかへ運ばれてしまうとか。そうなると招魂再生のとき困るわけである。だから、魄、具体的には白骨をきちんと管理する場所が設けられた。その場所とは、墓である。だから墓が大切にされるのである。当然、インドの場合のように死者の肉体を焼いたり捨てたりするなどというこは、とんでもないこととなる。儒教文化圏の中国・朝鮮半島・日本において墓が重視されるのは、こういう理由である。




<精神(魂)の永遠>

死、その不安や恐怖を和らげる説明として、儒教は招魂再生を説いた。今日流に言えば、慰霊である。儒教文化圏の人々、東北アジアの人々、中国人・朝鮮民族・日本人は、慰霊によって心が落ちつく。

慰霊、招魂再生の第一の目的は、これである。死を前にして恐怖に怯える人に対して、「心配しなくても、あなたをみなが忘れずに必ず呼び降します。」という招魂再生の約束があるとき、死は怖いけれども、死後の安心感が生まれるのである。

この<招魂再生の誓い>を、現代のことばに翻訳するとすれば、<亡き人の想い出を語る>ということである。自分がこの世に生きていたことを、人々、特に<親しい人々>の記憶にとどめてほしいという願望に対しての、まごころをこめた答えである。それも可能ならば、<想い出を永遠に語ってほしい>のである。・・・しかし、人間としてきちんと生き、そうした人生のあと、だれが自分を思い出してくれるのであろうか。

友人がいる。後輩がいる。しかし、やはりより強く、切なく想い出してくれる人とは、家族である。親族である。血のつながった人々である。儒教はもちろん、こういう常識に従う。招魂再生すなわち祖先祭祀を行いのは、<子孫である>と。・・・しかし儒教が言おうとしているのは、なにがなんでも自分の子どもを持たねばならないということではない。・・・儒教が言うのは、基本的にはあくまでも一族なのである。

さて子孫、と言うよりも子孫を含めた一族が祖先祭祀を行うわけであるが、祖先は過去であり、子孫は未来である。その過去と未来とをつなぐ中間に現在があり、現在は現実の親子によって表わされる。親は将来の祖先であり、子は将来の子孫の出発点である。だから子の親に対する関係は、子孫の祖先に対する関係である。そこで儒教は、(一)祖先祭祀をすること、(二)現実の家庭において子が親を愛し、かつ敬うこと、すなわち敬愛すること、(三)子孫一族が続くこと、この三者を併せて<孝>を表現したのである。



<宗教的孝>と<道徳的孝>

孝と言うと、たいていの人は、子の親に対する絶対的服従の道徳といった理解をしている。しかしそれは、孝の不十分な理解である。・・・中国人(ひいては東北アジアの人々)はこの世を五感いっぱいに生き、楽しいと思っているゆえに、死を不安に思い、恐怖している心に対して、儒教は死後の慰霊を教えたのである。招魂再生ということによって、懐かしいこの世に再び帰り来ることができる、と。そういう死生観と結びついて生まれてきた完全が孝なのである。すなわち死の観念と結びついた<宗教的孝>なのである。一般に理解されているような孝、すなわち子の親に対する服従といったような<道徳的孝>をはるかに超えたものなのである。・・・この宗教的孝こそ、儒教の本質だからである。




<肉体(魄)の永遠>

さて、この死の観念との結びつきは、つぎに新しい観念を生みだす。それは、死を逆転した<生命の連続>という観念である。・・・祖先祭祀とは、祖先の存在の確認である。もし祖先がいないとすれば、現在の自分は存在しない。祖先があると意識することは、祖先から自分に至るまで、確実に生命が連続してきたということの確信となる。のみならず、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫・一族ありせなば、自分の生命、現代生物学流に言えば自分の遺伝子は、存在し続ける可能性がある。・・・すなわち<孝>とは、現代のことばに翻訳すれば、<生命の連続の自覚>のことなのである。・・・死の意識から、広大な生の意識へ逆転する。これが儒教の死生観なのである。




永遠に<楽しいこの世>に<現在として存在し続ける>

整理すると、こういうことになるであろう。まず第一は、死の恐怖を乗り越えるものとして、死後に子孫が遊魂(浮遊している自分の死後の魂)と形魄と呼びもどしてくれ、なつかしいこの世にかえることができる。この招魂再生という祖先祭祀は、<精神(魂)の永遠>という可能性を教えるものである。

そのつぎは、己という個体は病気や老衰等によって死滅しはするけれども、己の遺伝子を載せた子孫の肉体が存続することによって、肉体の消滅という恐怖もまた解決される。すなわち、子孫が続くことによる<肉体(魄)の永遠>という可能性を教えてくれる。

遊魂と形魄と子孫と、形は変わるけれども、己の精神と肉体とは、永遠に<楽しいこの世>に<現在として存在し続ける>可能性があることと、その自覚とを説くのが儒教であり、そのキーワードとして<孝>が存在するのである。




日本の儒教

韓国や台湾の場合は、儒教の立場から、制度として始祖と四代前までの先祖祭祀を行ってきたのである。しかし日本では、日本仏教が、江戸時代に寺請制度(いわゆる檀家制度)の下に先祖供養を管理したため、儒教式の四代前までを祭る制度がなく、前述したように死者個人のための先祖供養の性格を強め、その結果として祖先崇拝が盛んでないというのは、日本仏教の管理のしかたが儒教式でなかったところから来たものにすぎない。

以上、述べてきたように、儒教の祖先祭祀は、日本においては日本仏教の中で行き続けている、今日に至っているのである。・・・確かに儒教には教団組織がないが、各家庭において執り行うという形で、全国に広く行き渡っているのである。つまり、儒教とは教団宗教や個人宗教ではなく、<家の宗教>なのである。




コメント

本書はなかなか目から鱗の神本である。仏教と言われるとお寺など身近に感じるが、儒教と言われても、どこにあるのかもわからない。しかし仏教よりも遙かに深くに日本人に埋め込まれている。深すぎて見えない、ことがよくわかる。

日本人は「死者個人のための先祖供養の性格を強め、その結果として祖先崇拝が盛んでない」ということだが、日本人のもう一つの特徴は、天皇に象徴的であるが、侵略されたことがなく、運命共同体感が強いことである。日本人民族/儒教的一族/血族の三層を考える必要があり、本来の儒教的な一族は挟まれて弱まったのではないだろうか。

このことは儒教の影響が弱いということではない。「儒教の祖先祭祀は、日本においては日本仏教の中で行き続けている。」となっているが、さらにいえば儒教は日本人の形成過程から影響を与えて、いまも慣習深く続いているのだろう。