なぜ日本人は裸を見せることが恥ずかしくなったのか



裸をさらす江戸時代の日本人

 
「裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心」(新潮選書)中野明 ISBN:4106036614。本書によると、驚くことに幕末、多くの日本人は毎日銭湯を利用していたが、銭湯は男女混浴だった。銭湯内では男女は丸裸でなにも気にすることなく、体を洗い、社交場でもあった。このような裸をさらすことへ素朴さは銭湯だけのことではない。暑いときは女性でも人前で上半身裸ですごし、庭先で人目を気にせず行水するなど普通だった。

その時代の日本人は、春画の反乱や夜這いの習慣などセックスに対してあけっぴろげで旺盛だったが、裸そのものは性的な対象ではなかった。いまテレビで未開の裸族をみて驚くが、ほんの百年前は日本もそうだった。

来日した西洋人の驚きはまさにいまの日本人以上だろう。彼らのキリスト教の厳しい性モラルからするととんでもない。また儒教圏の朝鮮からの使者も驚き、眉をひそめた。




日本人の素朴な土着的な思想


日本人は世界有数の風呂好きである。たとえばその時代、西洋人に風呂の習慣はなく、清潔に保つためには下着をまめにかえるか、たまに行水をするがだった。日本人の風呂好きは地形的に水が豊かなこと、また温泉がたくさんあることがあげられるだろう。ほとんどが農民であることを考えれば、内風呂などぜいたくなものはないから、毎日の農作業後に皆で体を洗う。そのときに男女がどうだとか気にしていられなかったのだろう。

このような性風俗は、海外から日本への強い思想の輸入についての教科書的な情報とは異なる。強い海外思想は一部の権力層や知識人に広まっただろうが、日本の庶民への影響は少なく、土着の思想世界を生きていた。当然、武士やその家族は混浴に行くことも、人前で無造作に裸をさらすこともなかっただろう。

ようするに庶民のレベルでは、儒教にしろ、仏教にしろ、キリスト教にしろ、強い道徳思想に律されていなかった。彼らは土着的な素朴な道徳に生きていたということだ。




現代の倫理の尺度はリベラリズム


明治以降の近代化の中で、このような性風俗は規制されて、庶民は強い海外思想により、規律訓練されていくことになる。そしていまの僕たちは裸をさらすかつての人々に驚愕し、かつての西洋人のように、まゆをひそめるようになる。

現代日本人から見て、江戸時代の庶民はもっと様々な面で奇妙な人々であった可能性が高い。いまと変わらない面も多いだろうが、特に現代的「リベラル」でない点で驚かされるのではないだろうか。

自由主義リベラリズム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9#cite_note-0


啓蒙思想から生まれた近代思想の一つであり、人間は理性を持ち従来の権威から自由であり自己決定権を持つとの立場から、政治的には「政府からの自由」である自由権個人主義「政府への自由」である国民主権などの民主主義、経済的には私的所有権と自由市場による資本主義などの思想や体制の基礎となり、またそれらの総称ともなった。

自由主義リベラリズム、リベラル」という思想や用語は、時代や地域や立場などにより変化している。初期の古典的自由主義(Old Liberalism)はレッセフェールを重視して政府の権力を最小化する立場が多かったが、20世紀には社会的公正を重視して社会福祉など政府の介入も必要とするニューリベラリズム(New Liberalism、社会自由主義)が普及した。アメリカ合衆国や日本では「リベラル」という用語は、この社会自由主義の意味で使われる場合が多く、穏健な革新を目指す立場(中道左派)だとされる。この「リベラル」に対して本来の自由主義的な側面を強調する表現がリバタリアニズム(libertarianism)で、特に経済的に古典的自由主義を再評価する立場を新自由主義(ネオリベラリズム、Neoliberalism)とも呼ぶ。




リベラルは人類の進歩だろうか


現代の日本人はとても「リベラル」である。自律的な主体であろうとし、自己責任を心得て他人に迷惑をかけないようにする。特に公共において互いの権利を尊重し、平等であることを重視する。それは考えることではなくすでに習慣化されている。誰もが切符売り場では順番に並んでまつという当たり前の慣習も、高度なリベラルな規律訓練によるだろう。そして現代のリベラルな倫理は禁煙、セクハラなどより繊細なレベルに達している。

ようするに現代の倫理の尺度は、いかにリベラルであるかが、大きな基準になる。再度言えば、現代日本人から見て、江戸時代の庶民が奇妙な人々にうつるもっとも大きな点は、「リベラル」でないことだろう。

このようなリベラルな倫理の重視は、リベラルが人類の到達点であるという西洋史観から来る。そしてリベラルは多くをキリスト教の倫理におっている。キリスト教は多くの西洋的ローカルな特徴を持っているが、また世界宗教として個人を重視し「誰もを愛する」というリベラルに繋がる特徴を持つ。

ただ重要なことは、このようなリベラルの成功は、経済的な自由主義の成功、すなわち豊かな社会を達成したという実績によって支えられている。さらに豊かさとは巨大な軍事力=侵略されない平和な強国を意味する。これらがなければ、リベラルな倫理はこれほどに支持されないだろう。日本がリベラル化を受け入れたこともしかりである。
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