なぜ日本人は職につくことが存在意義なのか

pikarrr2012-01-11

日本は「子供の楽園」


「逝きし世の面影」(平凡社ライブラリー)渡辺京二 ISBN:4582765521、幕末に日本を訪れた外国人から見た当時の日本人についての記述を整理したものである。その中で、西洋人が驚いた日本人の特徴の一つに日本は「子供の楽園」であるということがある。

西洋人からみると、日本の子どもはなんでも許されて甘やかされて育つ。これは当時の日本人が子供に甘かったということではなく、そもそも西洋ではキリスト教文化の影響から、人間を自立した理性的な存在と考えるため、子どもは未完成な人間、大人より下の存在であり、待遇も低くて当然で、きびしく仕付けられ習慣がある。

彼らからすると、日本人は家庭の中心が子供であったり、子供を優遇する姿が、甘やかしているように見えるのだろう。このような日本人の子供への寛容さは現代でもかわらず日本人の特徴である。

だからといって、当時の日本人の子供が大人になれずにどうしようもなかったかということは、当然ない。西洋がキリスト教的文化として子供をきびしくしつけるのに対して、日本人は日本人なりの教育方法があり、大人になっていく。




家業を継ぐことが大人になること


日本人の大人への教育の特徴は、個人的な自律よりも、集団の中での役割を果たすことがめざされる。江戸時代は士農工商の階級社会であり、各人がそれぞれの継承された家業に固定されていた。そしてそれぞれの家業は単なる職業ではなく、社会的な貢献という公的な意味もあった。

大人になるとは家業を継ぐこと、そして家業を継ぐことは社会的に認められた存在になることを意味する。だから家業には作業を覚える以上に社会的な約束や儀礼が組み込まれている。日本人は子供のうちから大人と交ざりながら、仕事を覚えて、それはまた社会的な慣習を覚えることである。

西洋的価値においては、仕事ができること、経済的な自立は重要であろうが、このような経験論的な慣習は低級な目標であって、大人になるということは、理性的な主体を目指す超越論的な理想があった。




日本人の職業中心主義


そもそもこのような日本人の職業中心主義は、一つには戦国時代の混乱から天下統一を成し遂げた秀吉時代の兵農分離による人民の再配置に溯ることができる。さらにはそもそも飛鳥時代律令制の導入では、土地は天皇によって配分され、また人民は天皇による任務(職業)と位置づけられる存在とされる。

そもそも島国で、侵略された経験がなく、擬似的な単一民族であったハイコンテクストな日本人は、天皇を頂点とする階級制という縦社会であるとともに、天皇のために与えられた役割をになうという天皇を中心とした横の繋がりをもつ。このために全体の中でそれぞれに割り振られた職を全うすることが存在証明であった。

明治以降、近代化するなかで、階級制は解体されて職は自由化され、さらにはサラリーマンが増加するなかで、もはや職業中心主義は保たれないように思うが、国家主導の急速な富国強兵ではまさに日本人の職業中心主義が活用された。

明治以降に、天皇を中心とすることの成功は、日本人の精神性に訴えかけた面もあるが、より実用的には天皇を中心として日本人の職業中心主義システムを活用し、実働したと言えるだろう。人民の職自体を国家が配置したわけではないが、それぞれ職についてお国のために懸命に働くことが求められた。これを徴兵による軍隊という「役」へ展開することは簡単なことだ。




近代以降も継承された職業中心主義


日本人において、戦争に破れて軍隊が解体しても、職業中心主義はかわらず継承された、どころかまたもや職業中心主義が護送船団型企業の終身雇用として継承され、奇跡に復興を遂げる。

たとえば日本人は大学生までばか騒ぎは許されたが、就職すると「長い髪をきって」大人になることが求められた。その後、社内恋愛し結婚して子供をつくり企業補助でマイホームを買い、定年まで勤め上げ、企業年金で老後を過ごす。企業は大人になるための装置であり、性関係の装置であり、結婚紹介所であり、そして老後の社会保障装置でもあった。まさに日本人の職業中心主義社会を継承したものである。

政治への参加も西洋人のように市民として参加するのではなく、企業を介して行われる。実際はただ企業のために懸命に働くことが重視される。女性は結婚すると専業主婦になり、社宅に住み、企業関係に帰属していく。

先進国の中で日本の女性の社会進出率が低いことが有名だが、その理由の一つとして、西洋では家族を補助するだけの専業主婦は個人として自立した存在として認められないのに対して、日本では専業主婦が職業として社会的に認められてきたことによるだろう。家業を重視してきた日本では家を守る女性の役割は男性に負けずに重要な存在と考えられてきた。職の自由化や核家族化という変化があったが、日本人の職業中心主義は継承されてきた。




企業の弱体化と日本人の喪失


日本人の子供への寛容さはいまも変わらないが、就職難によって安定した職につけずに大人になるきっかけがなくなり、ずるずると子供のまま年を取るケースが増えている。甘やかされることで自我が肥大し、わがままだか、打たれ弱いナイーブな人々。オタクの幼児性や、若者〜離れという社会的責任からの逃避は、このような大人になる機会を失った現代の日本人の特徴だろう。

大人になれない子供は、まだかろうじて企業とつながっている親に依存することで、扶養家族として企業装置の一部にぶら下がっている。

最近の日本企業による安定雇用の解体は、日本人にとって単に失業の問題以上に、根深い問題である。企業の弱体化によって、大人になる、恋愛、結婚、子供、社会保障、政治参加すべてを断絶している。日本人の無職に対する風当たりの強さは、職業中心主義から日本人の存在意義までつながっているためである。



江戸時代の日本の「家」は、「家業」の観念と切り離せないものであった。武士の家ならば、知行として世襲的に与えられた石高に応じ、それぞれの定められた軍事・行政的な職務を果たすこと。農民の家ならば、代々受け継がれてきた田畑を守り、農耕に精を出し、年貢を納めること。商人の家なら、それぞれののれんを守り、店を潰さずに反映させてゆくこと。さらに将軍家も天皇家もそれぞれ、軍事・行政を通じ、あるいは祭祀・学問を通じ、日本国全体の安全と秩序を守るといった、家としての職務を果たすべきものと考えられていたのである。「家」にはそれぞれ家名があり、それと結びついた家産と家業(家職)があった。

そうした「家」の集合として社会全体がイメージされていたのであり、社会のなかで割り当てられたその家の役割を正しく果たしていくことに「家」そのものの存在意義があったといえよう。ある家に生まれた人は−−−あるいはその家に嫁いできたり養子に来たりした人は−−−、その家の一員として家業の発展に奉仕することが期待されている。今日の会社が、社長の交代や社員の入れ替わりにもかかわらず続いてゆくように、「家」というものは、個人を越えた団体としてあり、同じ「家」に属する人びとの共同意識は、血縁関係そのものよりも、「家」の目的のために共同で働くことによって支えられていた。

それに対して中国の場合は、そうした「家業」という寛延が、ほとんど存在しなかった。・・・中国では、「家」という概念の範囲は必ずしも一定していない。「同居共財」すなわち、同じ家に住み家計を共にする集団を指すことが多いが、より広く宗族をさすことも普通である。・・・中国人にとって「家」の意識の根本にあるものは、男系の血筋を通じて脈々と受け継がれている生命の流れの感覚であったといってよいであろう。その流れはおうおうにして「気」と表現される。


世界の歴史 (12) (中公文庫) 明清と李朝の時代 岸本美緒 ISBN:4122050545  

ここに至ってわれわれはチェンバレンが「日本にはほとんど専制的ともいうべき政治が存在し(むろん、彼は明治時代の専制を指している)、細密な礼法体系があるけれども、一般的に日本や極東の人びとは、大西洋の両側のアングロサクソン人よりも根底においては民主的であるという事実が、初めのうちは表面から隠れていて見逃されがちである」と書いた理由を了解する。平伏を含む下級者の上級者への一見屈従的な儀礼は身分制の潤滑油にほかならなかった。その儀礼さえ守っておけば、下級者はあとは自己の人格的独立を確保することができたからである。身分制は専制と奴隷的屈従を意味するものではなかった。むしろ、それぞれの身分のできることとできないことの範囲を確定し、実質においてそれぞれの分限における人格的尊厳と自主性を保証したのである。身分とは職能であり、職能は誇りを本質としていた。尾藤正英は徳川期の社会構成原理を「役の体系」としてとらえる画期的な見地を提供している。「役」とは「個人もしくは家が負う社会的な義務の全体」であって、徳川期においては、身分すなわち職能に伴う「役」の観念にもとづいて社会が組織されることによって、各身分間に共感が成立し、各身分が対等の国家構成員であるという自覚がはぐくまれたと尾藤は論ずる。

・・・英国における民主主義とは、ジェントルマン貴族の支配下における議会政治上の概念にすぎなかった。ピューリタン革命と名誉革命をいわゆる市民革命と規定し、十九世紀の英国社会をブルジョワジー主導の市民社会と見なしてきた旧来の史学は、ジェントルマン資本主義の提唱以来完全に崩壊し、十九世紀英国が地主貴族を中核とするジェントルマンの強固な支配が貫徹した社会であったことはもはや定説になりつつある。P284-285


逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー) 渡辺京二 ISBN:4582765521

応仁の乱から戦国時代と織田・豊臣時代とを経て、徳川幕府が成立した十六〇三年までの約一世紀半の間に・・・生じた社会構造の変化を代表するものが、いわゆる兵農分離であることは確実である。兵農分離とは、兵すなわち武士と、農民との間の、身分上の区別を明確にするとともに、その間の支配=従属関係を、個別的・直接的なものから、組織的・間接的なものへと変化させたことを意味する。それは具体的には、検地による石高制の施行という形式を通じて行われた。・・・武士には、知行としてそれぞれの地位に応じた石高が与えられ、それに比例した一定の収入が保証され、また農民は、それぞれが保有する耕地その他の石高に比例して一定の貢租を納入する義務が課せられた。・・・この兵農分離は、ヨーロッパの封建制度などにおいて見られない現象であって、その意味ではまさに日本における封建制度の特色をなすものであるといえる。

・・・武士は、知行として与えられた石高に比例して、それぞれ一定の数量の人と武器とを準備し、戦時にはそれだけの兵力を率いて主君に従軍する義務を負った。これを軍役と呼ぶ。これに対して農民は、保有する耕地の石高に比例して、米などの貢租を負担する義務を負うこととともに、村内の中級以上の農民には、夫役として築城などのための労働力を提供する義務があった。・・・これらの場合における「役」とは、狭義には労働を提供する義務のことであったが、広い意味では、その労働の負担を中心として個人もしくは家が負う社会的な義務の全体を指すものとして用いられる。

以上に述べたような「役」の概念が、成立期における近世の社会の、いわば組織原理をなしていたことに着目すると、近世の社会の構造や、またその政治の動きについて、従来の通説とは異なった解釈をすることが可能になるように思われる。例えば徳川氏の幕府は、自己の権力と維持することを第一義として、対立勢力となりうる朝廷や大名にきびしい統制を加え、また武士や農民・町人にも生活様式の細部にわたる規制を加えて、社会の秩序を凍結状態に置こうとして、実際にもそことに成功した、という風に、この時期の歴史は説明されることが多い。しかし支配者の権力意志だけでは、二七〇年に及ぶ平和の維持を可能とした条件の説明としては、不十分であると思われる。むしろ右にみたような「役」の体系としての社会の組織を作りあげ、かつそれを強大な武力と法規との力により安定的に維持することをめざしたのが、この時期の支配者たちの主要な意図であって、それはある程度まで国民全体の要求にも合致するものであったために、その政策が成功し、その結果として政権の維持も可能になった、とみるべきではあるまいか。

近世の「役」の体系に類似したものとして、中世には「職」の体系があったといわれる。「職」とは、本来は官職の意味で、七、八世紀には中国の制度を模倣して作られた古代的な官僚制国家の官職が、その後しだいに私有物化されることによって、中世のいわゆる封建的な社会組織が形成されたために、その封建的な領有の権力は、「職」の所有という形をとるのが普通であった。これが「職」の体系である。P34-46


江戸時代とはなにか―日本史上の近世と近代 (岩波現代文庫) 尾藤正英 ISBN:4006001584


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