なぜプラトン主義は人々を魅了し続けるのか

pikarrr2012-03-07


南イタリアクレタ島の墓で発見された、すくなくとも前五世紀に溯る金の板に刻まれた詩・・・には貴重な指示が含まれている。「黄泉の国の棲みかの左には泉が見いだされ、そのそばには白い糸杉が生えている。この泉にあまり近づきすぎてはいけない。かわりに別の泉を見つけなさい。その思い出(ムネモシュネ)の湖には冷たい水が湧き、番人たちがそこで番をしている。番人に向かって、「私は大地と星空の子供で、それはあなたも知っているはずだ。しかし、私の喉の渇き、死にそうだ。思い出の湖から湧きでた冷たい水を、すぐにいくまいか」と言いなさい。そうなれば、番人たちは聖なる泉の水を飲ませてくれるから、そうなれば他の英雄たちとともに権勢をふるうことができよう。」

この金の板の宗教的な重要性は、ホメロス的な伝統において記録されたものとは異なる、魂の死後の生存についての観念を示しているという事実にある。おそらく、ここにみられるのは地中海やオリエントのアルカイックな信仰や神話であり、長いあいだ「民衆のなか」、あるいは文化的辺境のなかで保存され、ある時点から、オルフェウス派」やピラゴラス派をはじめとする終末論の謎にとりつかれたすべての人間たちのあいだで、一定の評価をかち得るようになったものなのであろう。

しかしそれ以上に重要なのが、「魂の渇き」についての新しい解釈である。死者の渇きをいやすための葬儀における献酒は、多くの文化において記録されている。「生命の水」が英雄の復活を保証するという信仰もまた、神話や民間伝承にひろくみられる。ギリシア人は死を忘却と同一視し、死者とは過去の記憶を失った者だと考えていた。・・・しかし、記憶と忘却の神話は、輪廻の理論が導入されることによって変化していく。レテの(湖の)機能は逆転し、肉体を離れたばかりの使者を迎えいれ、地上における生存を忘れさせてやる必要はもはやなくなる。反対に、レテは転生して地上にもどる魂から、天上における記憶を抹消する。こうして「忘却」はもはや死ではなく、生命の復活を象徴するようになる。軽率にもレテの湧き水(「忘却と悪に満ちた」プラトンはよんでいるが。パイドン)を飲んだ魂は転生し、新たな生成のサイクルのなかに投げこまれる。ピタゴラスやエンペドクレスをはじめとした輪廻の教義を信じていた人間たちは、前世のことを記憶していると主張するが、要するに彼らは、あの世における記憶の保存に成功したということなのである。(注 記憶の鍛錬や修養はピタゴラス派の諸集団においては重要な役割をはたした。)P257-260


世界宗教史3 ミルチア・エリアーデ (ちくま学芸文庫) ISBN:4480085637




プラトン主義と原子力



哲学の始まりとは、オルフェウス教=ビュタゴラス教にはじまると言われる。魂の輪廻転生、魂と肉体の心身二元論、魂の想起説。これらを哲学として体系化したのが、プラトン主義である。魂は肉体をかえて生まれ変わる。生まれる前に神の国にいる魂は真理を知っている。真理とは数学的均整をもつ自然な調和であり、役割としての配置(イデア)である。しかし生まれて肉体をもつと真理を忘れて様々な欲にまどわされる。魂の真理を想い出す方法は禁欲に真理を探求しようとする哲学によってのみである。

原子力は、アインシュタイン相対性理論から導き出した質量とエネルギーの等価法則E=mc2を元にしている。アインシュタインの有名な言葉「神はサイコロをふらない」。すなわちこの世界は確率ではなく、美しい法則でできているはずだという核心である。これは、14世紀の神学者オッカムの剃刀「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くの実体を仮定するべきでない」にもたどれる。

ピュタゴラスプラトンも生きていれば、この法則をみて、自らの正しさを確認しただろう。その意味で、原発を推進した人々はプラトン主義の系譜にあると言って良い。人類を破壊するほどの原子力は究極であるが、科学技術全般につきまとう魔力である。




プラトン主義と自然主義の誤謬


プラトン主義には人類に普遍的な魅力があると思う。その基本は自然信仰だ。「自然は神的に美しい」ということが大前提になっている。その美しさは具体的な物質的な自然ではない。目の前に自然には腐敗があり、死がある。自然の美しさは生死の輪廻を超えた法則性そのものにある。ここまでって、現代の自然科学でも持っている考え(信仰)だろう。プラトン主義は、この自然を人間へ延長している。自然の一部としての人の生死を超えた自然の法則性を魂へと延長する。

現代の倫理学では、安易に人間の道徳、倫理と自然主義をつなげることを自然主義の誤謬といって批判する。自然法則、あるいは生物学なら進化論になるが、進化が10〜100万年単位でしか変化しないのに、人間の文化は100年、あるいは10年、1年で変化する。生物の進化と人の倫理をつなげることがとても危険であると考えられる。

それでも、人は自然と社会をつなげる誘惑に勝てない。裏から裏から絶えず、つなげてプラトン主義の誘惑を復活させている。進化論の倫理への短絡は、社会進化論優生学ナチスで有名なゲルマン民族優生思想、ユダヤ人迫害。この流れは最近では、優秀な遺伝子という遺伝子操作へとつながっている。




プラトン主義と自由主義経済

ケトレーはこれらの初期の著作において、何よりも次の事実に関心を向けた。すなわち身長的特徴の平均や非身長的特徴、たとえば犯罪や婚姻の比率は、長期をつうじてまた国のいかんを問わず、年齢その他の人口学的変数と驚くべき安定的関係を示すということである。彼が社会的世界の「法則」とよんだのはこれらの関係である。平均人という考え方は、1835年の彼の最初の本で最大の役割を果たしている。しかし彼は1840年以降になると、平均や比率の安定性だけではなく、それ以上にこれらの特性の分布に関心を示した。彼は人間の身長や体重の分布をグラフに描いてみると、今世紀初めから研究されていた観測誤差の分布と非常に似ていることに気づいた。そこで彼は、身長的属性の分布を正規分布であるかのごとくみなせるという固い信念を持つようになった。・・・彼の確信によると、十分な観察ができれば、身長的特性の分布のみならず、身体的でない特性の分布もつねに正規分布になる。P234-235


「確率革命」 第8章生命・社会統計と確率 ベルナール=ピュール=レクイエ ISBN:4900071692


でも現代、一番にプラトン主義の誘惑を継承しているのは経済学だろう。基本的に経済学は、自然法則としての確率法則(主に正規分布)が人間社会にも適用可能という前提で成り立っている。現代の新たな埋め込まれた真理は、正規分布という自然な調和である。そして自由主義経済では人は一つの理性的合理的な単位であることを求める。それが現代のイデアである。

ここに何か大きな権力が、人々をマクロな単位として扱う構図に見えるが、現代のプラトン主義の誘惑はそんな単純なものではない。自由主義社会を享受しているのは、庶民そのものだ。それは、経済学の理念として、個人を単位として扱う方が経済が活発になり、豊かになる。

そしてそれ以上に、現代人は正規分布の単位として扱われることを求めている。たとえばマクドナルドを考えればわかる。食べ物から、サービスから、場所から、規格化されることでとても居心地のよい環境が生まれている。コンビニだってそう。「街のほっとステーション」になっている。貨幣交換に依存した現代のこの当たり前の行為が実は秩序高い理性的な行為であることを現代人は忘れている。

実はそもそものプラトン主義は貨幣経済のもとの生まれたのではないかと、疑っている。最初に貨幣が広く普及したギリシア文化。もっといえばイデアのもっとも純粋なモデルは貨幣ではないか・・・



18、19世紀の双方において、数学的確率論は社会についての真の科学たらんとする希望と固く結びついていた。とはいえ、コンドルセーの「社会数学」とケトレーの「社会物理学」とでは、数学的確率と社会科学の双方にかんして、それぞれの考えにはっきりとした違いがあった。

18世紀の数学的確率は合理的人間のなかの1人のエリートの判断と決定とをその主題にとりあげた。また18世紀の道徳科学も行動や信念にたいする合理的根拠を示すことをめざした。いずれもそのアプローチの点では個人主義的、心理学的、かつ規範的であった。

19世紀の確率論者たちは自分たちの理論を統計的頻度を用いて理解した。19世紀の社会科学者たちは規則性を探究したが、それは個人行動というミクロのレベルではなく、むしろ社会全体というマクロのレベルでの規則性であった。18世紀の思想家にとり、社会は法則に支配されたものであったが、それは社会が合理的個人の総計であったからである。19世紀の反対者たちにとっては、社会はその構成員が非合理的な個人であるにもかかわらず、法則に支配されていた。P200



「確率革命」 第6章 合理的個人と社会法則の対立 L.J.ダーストン (ISBN:4900071692


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