なぜ数字は力なのか

pikarrr2012-03-09

数字とはなにか


ぶっちゃけると、最後の最後は占いに頼ったりする。いくら科学が発達しても未来は予測できないし、どんなに金持ちになっても将来への不安は消えない。これはこの世界の原理だ。孔子にしろ、ピタゴラスにしろ、占いのプロだったことはなにもおかしなことではない。

数字、数学とはなにか。数学は誰がやっても同じ解になる。答えは絶えず1つしかない。だから空間、時間に影響されないより硬い基盤価値の基本であると考えられている。数学がこのような再現性を実現するのはなぜか。数字という「抽象化」された言語を演繹論理的に使用するからだ。

1とはただ個数を示す言葉である。1は存在しない。リンゴはどれとして同じものはない。それぞれが別々である。それを様々な特性を排除して、同じものとして還元して、1個と呼ぶ。さらにりんごであることも排除することで、1が生まれる。数とは極限的に質を排除した、量のみを示す言葉である。

いかなる物理現象でも厳密にはまったく同じことは起こせない。たとえば宇宙空間で物体を衝突させて慣性の法則を再現しても、物体が衝突するときの摩擦熱は再現されない。摩擦熱は物体の表面状態に左右されているが、厳密に同じ表面状態を再現することはできない数学で記述される物理法則は、徹底的に量に還元され=抽象化された理想状態の机上のモデルでしかない。




「抽象化」という神的な力


この「抽象化」という思考はとても特殊である。なかなか実用の世界からは生まれてこない。りんごを1、2、3と数えることはあっても、1、2、3という数字のみとして使用することは通常必要がない。数字を強く意識した最初の人がピタゴラスと言われるが、数字が世界を支配している「数理神学」を信仰した。逆にいえばこのような神的な行為としてしか抽象化への飛躍はなかったのだろう。

そして抽象化された数字は近代科学においてその力を発揮する。ニュートン力学にはじまり、次々と世界の秘密を解明し、それを力へと変えていった。そこには絶えず神的な魅力があったが、原子力だろうが、半導体だろうが、抽象化された数字が生み出したものである。

抽象化された言語としての数字が人々を魅了したのは、どこでもいつでも変わらない確かな基盤=真理であると考えられ、さらに延長することで確かな未来予測を可能にすると考えられた。だから抽象化された数字が最初に重視されたのは天文学であり、さらには占いだった。




抽象的な数字としての貨幣


このような抽象的な数字が支配者層の秘技から、より広く人々にいつ広がったのか。数そのものは実用で使われていただろうが、抽象性を実感するのは貨幣の普及からではないだろうか。人々が貨幣に触れたときとても不思議な体験を味わっただろう。

貨幣の数字とは商品の価値を表すものである。通常の100円の商品と100円の貨幣は等価であるが、またこれらは決定的に違う。100円の商品を他の100円の商品と交換できるとは限らないが、100円の貨幣は100円の商品と交換することができる。そしてこの不思議な貨幣の力は人々を魅了した。マルクスはこれを貨幣の物神性と呼んだ。この貨幣の物神性は、数字の抽象性がもつ確かな基盤=真理を元にしている。貨幣はどこでもいつでも同じ数字の価値をもつ。

そして貨幣はこの特徴からもう一つの力を発揮する。大量に容易に蓄積することを可能にする。いままで様々なものが貨幣の役割をしてきた。貝殻、石、麦、金銀、紙、そして電子データ・・・貨幣自体もより抽象化し、さらに大量の価値を永遠に蓄積する。そしてさらに3つ目の機能を発揮する。他者へ投資することでどんどん増えていく。これらを可能にしているのはすべて抽象化された数字の力である。




数学は遺伝子に基礎づけられている?


では実際、数学は神の言葉なのか。残念ながら原理的に数学はどこにも基礎づけられていない。人がつくった一つの言語でしかない。それにしてはあまりに世界をうまく記述できるではないか。この謎は解明されていないが、一つの可能性は数学は人の認識の根源に触れているのかもしれない。そして人の認識は生命誕生からこの世界の環境とともに進化してきた。すなわちこの世界をより的確に認識するために改造されつづけてきた。でなければ厳しい環境を生き残ることはできない。原理的には基礎づけられなくても、進化により遺伝子に基礎づけられている、と。

このように「数学はあまりに世界を記述できる」という謎によっていまもピタゴラス的数理神学=「世界は数字でできている」は生き続ける。


参考 なぜ数学の普遍性は慣習によって支えられているのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20101124#p1

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