日本人の規律はどこからくるのか

pikarrr2012-06-09

フーコー 「自己への配慮」


いま、「性の歴史2 快楽の活用」ISBN:4105067052)、「性の歴史3 自己への配慮」(ISBN: 4105067060)を読んでいるが、フーコーは死ぬ最後まで、打倒ラカンだなと思った。キリスト教的な普遍価値による性の抑圧。抑圧から生まれる欲望。この欲望の負の表現がラカンなわけだが、それに対抗してドゥルーズしかり、欲望を力として捕らえる。

フーコーは快楽の活用で、キリスト教前のギリシア時代の性に対する規律を、抑圧ではなく、「調整」と考える。性そのものを悪とするのではなく、性はよいが過剰はよくない。これをたどると、自然宗教と非自然宗教にたどれるんだろう。

宗教って基本は土地に根ざし豊作を願う自然宗教にたどれる。ギリシア哲学も基本は自然主義だ。「自然」であることが正しい。それに対して、砂漠で生まれた宗教は自然を否定し、一神を信じる。自然も一神も創造したもので、その最高傑作が神に似せて作った人間。自然よりも上。だからただ1神の言葉=聖書に書かれたことを信じる。きびしくは普遍的価値において、童貞を薦める。裸を禁止する。

童貞生活に付与された卓越性に関しては異論の余地がなかった。この考えは新約聖書のいくつかのテキストにすでに現れている。「コリントの信者への手紙一」の中でパウロは、童貞生活を義務づけることは拒みながらも、彼自身の教えの表現として、それを保つようにという助言を与えている。・・・二世紀中葉、殉教ユスティノスは、キリスト教の一つの特徴として、「多くの、五〇歳ないし六〇歳の男女で、子供時代からキリスト教の教えを学んだ人びとが童貞生活を保ち続けた」ことを語っている。

童貞生活に対するこのような敬意は、全教会の一般的特徴の一つであった。しかしユダヤキリスト教の痕跡が比較的多く残っている社会では、さらに強烈な性格を帯びる。・・・ユダヤキリスト教に深く影響された地方では、キリスト教の完全な表現を結婚とは両立しえないものとみなす傾向があったらしい。

ユダヤ教の一派である)エッセネ派の社会で悪しき「イエゼル」すなわち、悪の霊と、性的本能とが同一視されていることに関係があるらしい。性欲というものは、そのままの姿では人間の悪
しき原理に結びつくものとして現れる。そこからユダヤキリスト教の禁欲主義の他の側面も理解される。


キリスト教史1 初代教会 ジャン・ダニエル−(平凡ライブラリー)ISBN:4582761631




武士道の美学


キリスト教的ではない自己規律とはなにか。日本人の自己規律と言えば、鎌倉仏教後。禅宗浄土真宗、そして武士道へとつながる。

たぶんギリシア思想は多分に古代インド宗教の影響を受けてる。プラトンの輪廻とか、想起とかは、ピタゴラス教を経由して、古代インド宗教につながのだろう。自己救済のための鍛錬。武士道も仏教の流れを汲むから同じ系統か。

武士道はどこまでほんとかわからない。江戸時代の葉隠れ」の頃から戦のなくなった武士には武士道は一つのノスタルジーだった。ましてや明治となり留学先で西洋人にバカにされて日本人魂みせたる!と書いた新渡戸稲造「武士道」は大きなフィクションだろう。

いま大河ドラマ平清盛をやっているが、武士は最初からパフォーマティブだ。武士の中で人望が必要だし、庶民に対しても人気・支持が大切だ。どこかいつも、マッチョでかっこつけ。武士は最初から美学だ。殉死も自らの命をかけた演技。




現世利益を求める日本人


日本人がキリスト教化しなかったのは不思議だな。明治以降には西洋近代化によるプロテスタンティズムの倫理は存分に吸い込んで、性も禁欲的になったのに。キリスト教は地域に関係なく浸透するから日本人もあり得た。

日本には先に仏教があったからキリスト教は広まらなかったということはない。逆に島原の乱前のキリスト教はかなりいいところまでいった。そのまま、キリスト教が禁止されなければそれなりに広まったかもしれない。

日本人にはやはり「強すぎる」というのはあるだろう。「強い」というのは仏教にしろ、一神教は個人の自立を求める俗に言う集団主義「ゆるい」日本人には無理かも。

江戸時代だろうが、庶民にとって仏教はいまとたいしてかわらない。日本人は雑種で、神社に行けば、お寺にもいく、本来の1神教的なつよい信仰はない。流動性が低く、土地に根ざし農民には、一番は豊作を祈る土着の民族信仰だ。各所各所に自然宗教があった。いまと同じで庶民には坊主はネタでしかない。

仏教が伝来したとき、困ったのは日本人は現世ご利益もとめることだ。全然、超越的な理念による神への信仰を持たない。「〜がかないますよう」にとか、上流でも基本は祈祷、雨乞い、病気なおし。空海だって、奇跡的に雨を降らして、成功した。いまだに日本人には超越的な世界への興味は薄いと言われてる。




自主的、自立的な集団の規律を維持する日本人


儒教の影響なのか。中国人の世界観も現世中心だ。儒教「天」とかいうんだけど、結局、天そのものを探求することはない。でも日本人の現実的なところはまた違うような気がする。

西洋人は何かと言えば、「普遍」「絶対的」とか、好きだよね。キリスト教の前にギリシア思想からそうだ。日本人はそんなことよりも実働的な、現実的なことに興味がある。だから西洋哲学はうけない。

浄土信仰の理念は阿弥陀如来信仰という、日本人が作った初の?超越的な信仰だったのだが、日本人は現世利益ばかり求めて、親鸞も困ったことだろう。結局、日本に仏教が浸透したが、本来も超越的な理想高き理念は普及しなかった。いまも昔も、日本人はやっぱりちょっと坊さんを小馬鹿にしているところがある。お寺に行こうが、神社にいこうが、基本的に手を合わせて、小銭入れて、願い事が叶いますように。パンパンと都合がよい。でも日本人は世界有数の規律ある社会を作ってきたんだから、すごいというか・・・

日本人はほんと明治までは性に開放的だし、性にはずるずるだった。かといって、野蛮であるわけではなく、規律にも満ちていた。フーコーもびっくり不思議な人びとだ。多分、西洋人フーコーにはわからなかったのは集団的な規律というものだろうな。全体主義的ではなく、各自が自主的、自立的な集団の規律を維持する日本人。

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