なぜ現代日本人は童貞を大切にするのか キリスト教の「強さ」

pikarrr2012-04-01

キリスト教の「強さ」


ようするに、問うているのは、なぜボクたちは禁欲的なのか、ということ。その起源の一つがキリスト教だ。日本には明治維新以降の近代化によって、ドミノ倒しのように、一気に社会が禁欲にかわった。

キリスト教ユダヤ教にたどれる。ユダヤ教には、他の宗教に比べて「強さ」がある。ユダヤ教が、1神教や律法強化をしたのは、バビロン捕囚、ユダヤ王国がバビロニアに滅ぼされバラバラになった中で民族の団結を強化する。

そもそもユダヤ教は、他の多くの豊饒宗教と異なり、砂漠の民によって作られた、土地に根ざさず、放浪の中で団結するための強さをもっている。それが改めて、強化されたわけだ。それがまさにユダヤ教の強さだ。

キリスト教ユダヤ教の一派として派生し、ユダヤ民族以外の民族に開かれるという特徴をもつ。それでいて強さを継承する。その一つの表れが禁欲だ。1神教への忠誠と、生活レベルで禁欲的規律が作られていく。

ローマ帝国時代という都市化して流動性が高く、豊かであるが、権力が安定しない不安定を抱えた時代に、キリスト教の強さは、流動する人びとを団結する働きと、禁欲による心の安らぎをえる救済と、誰にでも開かれる寛容さによって、広まっていった。それとともに、ヘレニズム時代という、ギリシア思想などの知的な運動を吸収して、豊かで知的な体系化を果たすことに成功する。




キリスト教の純愛思想


基本的には2、3世紀に作られた禁欲的な道徳が、キリスト教の基盤となり、やがて近代日本も席巻し、現代のボクたちの生活のあり方を作っている。たとえばここに一夫一婦制の純愛思想の原型がある。現代の次々作られる恋愛ドラマの根底にある思想はまさにここにある。

童貞生活は、その源に神への愛がある時のみ聖なるものである。しかしもしそれが結婚蔑視から出ているならば、良いものであるとは言えない。男は妻を、単なる欲望によってではなく、愛徳にもとづいた愛によって愛さなければならない。性的生活にはいかなる不浄も含まれていない。 キリスト教史1 初代教会 ジャン・ダニエル−(平凡ライブラリー)

江戸時代の日本人にはこのような純愛思想はなかった。一夫多妻制だったし、性交も解放されていた。これは日本人が淫乱というよりも、そもそも豊饒宗教では、性は豊作と結びつく、開放的であった。基本的には素朴な宗教は土地、農業と結びついた豊饒宗教なので、性に禁欲的であるのは都会的なハイセンスな思想である。




現代日本の童貞禁欲主義


現代の童貞を特別視することも明治以降に輸入されたキリスト教文化の影響から来ている。もともとは、簡単にばかばか性交していた田舎者に対する、近代化したハイセンスな都会人として、童貞と処女は神聖で礼賛された。

現代の童貞率が高いのはその影響である。現代、童貞を捨てることはそんな難しいことではない。風俗へ行けば終わりだ。しかしあえて風俗に行かないのは、そこに童貞が神聖なものであると考えがあるからだ。愛する人との純愛の先に、童貞を捨てることが正しいというキリスト教的愛の禁欲があるから童貞が守られている。

童貞が蔑視される本質は性体験がないということではなく、愛する人との純愛を経験していないためだ。だから風俗で童貞を捨てても、素人童貞のような新たな蔑視の言葉が作られている。リア充とは愛する人との純愛を経験している人という意味である。

現代は、風俗嬢の純真みたいなことが起こっている。毎日、売春しているから汚れているわけではなく、それとは別の次元でメンタルな純粋主義がある。性情報が氾濫し埋没するから、より純粋なものの価値が高まる。童貞が、性情報にまみれながら、童貞というラインで線引きして、純潔を守るのは面白い。

性交は相手がいることで、金を払って性交するか、金を払わないか。そして金を払わない場合には急に敷居が高くなる。金を払わない純愛は、純愛ドラマなどメディアであまりに神格化されすぎ、ドラマのような恋愛をしなければならないという強迫観念がある。




幼児性愛という日本人的な純愛主義


このように純愛への敷居が高くなりすぎて、純愛はオタクの「萌え」のように回避されてる。萌えも純愛主義の系譜から来てる。より純粋な愛を突き詰めたところに幼児がいる。幼児はもっとも性的なものから遠い純粋で神聖は存在だ。しかし幼児に神聖な純粋さを見るのは日本人的な考え方だろう。これは、四季の自然を重視しあたらに生まれるものへ神聖さを感じる豊饒宗教文化から来ているのだろう。

西洋キリスト教的な恋愛は結婚を基本とする。結婚できる年齢まで純潔を守った男女がたった一度の愛を交わす。だから結婚を前提としない幼児性愛は異常である。西洋では幼児は未完成な動物と考える。だから幼児は人間になるためにきびしく躾けられる。それにくらべて日本人は幼児に寛容である。

現代日本の異常に高い童貞率も、その起源はまさに2、3世紀にキリスト教の成功にたどることができるわけだ。童貞は一つの例でしかない。現代のボクたちは、もはや意識しないがとても禁欲的な生活をしている。その起源のひとつがそこある。



童貞生活に付与された卓越性に関しては異論の余地がなかった。この考えは新約聖書のいくつかのテキストにすでに現れている。「コリントの信者への手紙 一」の中でパウロは、童貞生活を義務づけることは拒みながらも、彼自身の教えの表現として、それを保つようにという助言を与えている。・・・二世紀中葉、殉教ユスティノスは、キリスト教の一つの特徴として、「多くの、五〇歳ないし六〇歳の男女で、子供時代からキリスト教の教えを学んだ人びとが童貞生活を保ち続けた」ことを語っている。

童貞生活に対するこのような敬意は、全教会の一般的特徴の一つであった。しかしユダヤキリスト教の痕跡が比較的多く残っている社会では、さらに強烈な性格を帯びる。・・・ユダヤキリスト教に深く影響された地方では、キリスト教の完全な表現を結婚とは両立しえないものとみなす傾向があったらしい。

ユダヤ教の一派である)エッセネ派の社会で悪しき「イエゼル」すなわち、悪の霊と、性的本能とが同一視されていることに関係があるらしい。性欲というものは、そのままの姿では人間の悪しき原理に結びつくものとして現れる。そこからユダヤキリスト教の禁欲主義の他の側面も理解される。

このような傾向は二世紀後半に反対を受けることになる。アレクサンドレイアのクレメンスが、結婚はキリスト教的生活と完全に両立するものであることを初めて示すことになる。・・・なるほどキリストは結婚しなかった。しかしクレメンスはそれに、すばらしい深さをそなえた理由を与える。「ある人びとは結婚は性的な罪であり、悪魔からうつされたものであると言う。そして自分たちは、結婚しなかった主に倣っているのだと言う。彼らは真の理由を知らない。まず、主には自分自身の妻がある。教会である。次に主は、肉による助けを必要とする普通の人間でなかった。主は(自らを持続させるために)子供をもうける必要がなかった。永遠に持続する存在であり、神のただ一人の子であったから」。童貞生活は、その源に神への愛がある時のみ聖なるものである。しかしもしそれが結婚蔑視から出ているならば、良いものであるとは言えない。男は妻を、単なる欲望によってではなく、愛徳にもとづいた愛によって愛さなければならない。性的生活にはいかなる不浄も含まれていない。P280-285


キリスト教史1 初代教会 ジャン・ダニエル−(平凡ライブラリー) ISBN:4582761631

第二十五章 ユダヤ教の試練−黙示からトーラーの称賛へ

ペルシアの宗主権のもとで平和が続いていた二世紀にあいだ、捕囚以前に開始され、捕囚中にも続いた律法改革は決定的に強化された。バビロンでは、割礼がヤハウェの民の一員であることの最高のシンボルとして再び価値を与えられた。安息日の尊重が、神との契約に対する忠誠の証しとされるようになった。「レビ書」に含まれていた儀礼を規定した法典は、捕囚中に明確な形を与えられた。「神聖法典」と称され、モーゼのものに帰せられるこの法典は、儀礼の浄・不浄を主張しながら、動物の供犠、性的関係のあり方と禁忌、祭事暦、祭儀の詳細を規定している。・・・「神聖法典」は生活と社会行動の諸機能を儀礼化している。その目的は、ヤハウェによって約束された地を新たに獲得することに備えて、イスラエルの民の純粋性を保つことにある。民族としての存続は、不純な異国の世界にただ中で、イスラエルの民族的、精神的アイデンティティを守る程度においてのみ可能となる。

かつての偉大な預言者が成しとげたように、聖霊がもたらす内面的な回心によって国民生活が再建されるとはもはや期待するべくもなく、律法の絶対的権威のもとで、共同体を効果的に組織化するしかなくなった。P76-77

われわれは、きわめて重要な精神現象、シンクレティズムによって生じた宗教的創造性の問題を扱わなければならない。事実、初期の黙示文学の作者であるハジディームに属する者たちは、シンクレティズム的な体系に由来する思想を受容し、同化したが、これらの思想はユダヤ教の幅をひろげ、ユダヤの民が非常な困難に遭遇した時期に希望の支えとなったのである。同様の過程は他の宗教的潮流にもみられる。エッセネ派とよばれるハシディームの集団は、「義の教師」の指導のもとに共同体から離れ、荒野で隠遁生活を送る決心をした。修道生活を送るエッセネ派の組織にもっとも類似しているのは、ギリシア型の閉塞的な秘密結社である。101


世界宗教史4 ミルチア・エリアーデ (ちくま学芸文庫) ISBN:4480085645  

二世紀末の著作「ディオグネトスへの手紙」の中で、この姓名不詳の筆者は次のように書いている。「キリスト教徒たちは、言葉遣いにせよ、言語にせよ、衣服にせよ、ほかの人びとと異なるところがない。食物や生活態度についてもその土地の習慣に従っている・・・彼らは他の人びとと同じように結婚し、子供をもうける。ただし新生児を捨てるようなことはしない」

キリスト教的風習を創り出すという領域で、三世紀初頭はきわめて重要な位置を占めている。この時代にキリスト教徒は小さな集団の中で生活することをやめ、社会全体にふえ広がり始めたのである。

クレメンスはまず過度の奢侈を戒める。「装身具、彩色された布地、虚飾に満ちた色彩、贅沢な宝石類、金の細工品・・・こうしたすべてのむなしい技巧に対する好みについて、なんと言ったものであろう」と。つまり純粋さと自然さの理想が提示されているのである。・・・食物についても同様であった。簡素で巧まないものでなければならなかった。健康を犠牲にして味覚を満足させようとする「料理人たちの悪魔的な技術」は断罪された。・・・ここでクレメンスが繰りひろげるのは、よい身じまいと礼儀作法に関する一連の論考である。キリスト教徒は落ち着きと、静かさと、穏やかさによって性格づけられることが望ましい」。

結婚の倫理に関しては、キリスト教徒はローマ世界に広がっていた風習に反対する。テルトゥリアヌスは離婚を保留なしに断罪する。・・・彼は一夫多妻制をも否認している。最も強調されているのは堕胎に対する断罪である。

経済生活もまた多くの問題を提起した。キリスト教徒は、彼らの時代の社会が経済生活の領域で基盤とする原則に、異論を唱えたわけではない。彼らは所有権を認めた。社会的な条件に不平等があることも容認していた。・・・クレメンスもテルトゥリアヌスも奴隷制度を一度も断罪してない。ただ奴隷にも人間としての、キリスト教徒としての品位があることに注意を喚起しているだけである。キリスト教徒はあらゆる形で彼らの時代の経済生活に参加している。「あなただたと一緒にわれわれは土地を耕し、取引を行い、労働の成果を交換します。どうしてわれわれがあたながたの事業に役立たないことがありましょう」。このような手仕事も、商取引も、事業も、それ自体としてはキリスト教の信仰に反するものではないのである。

しかし具体的な面から、三世紀初頭の経済生活のありのままの姿を見るとき、それはキリスト教徒の良心にいくつかの重大な問題とつきつけたのである。・・・テルトゥリアヌスは問題のむずかしさを見抜いていた。彼の目には、利益は背徳的なものと映った。彼は利息をとって金を貸すことや、期限を定めて金を貸すことを禁止している。・・・しかし一方では商取引は利益の上に成立するものである。ではどのようにして、その時代の経済生活に参加しながら、しかもそれが内包する不道徳な行為の共犯者とならずにすますことができるのであろうか。P390-402


教史1 初代教会 ジャン・ダニエル−(平凡ライブラリー) ISBN:4582761631

ギリシャやローマの伝統的宗教は、現世に関心をもち地上の幸福を得る望みに満ちたひとびとに適したものであった。しかし絶望というものをより長く体験したアジアは、あの世的な希望という形態におけるより効果的な解毒剤を発達させてた。これらすべての宗教のうち、キリスト教が慰めをもたらすにあたって、もっとも有効だったのである。しかしキリスト教は、国家宗教になる時までに、ギリシャから多くのものを吸収してしまっていて、ユダヤ教的要素とともに、それを西洋の次後の諸時代に伝達していったのである。P280


西洋哲学史 1 バートランド・ラッセル ISBN:4622019019

第三十章 神々のたそがれ

キリスト教の教えが最終的に成功をおさめた原因は、ひとつではない。まずキリスト教徒の不屈の信仰と基礎的な強さ、拷問と死に直面したときの彼らの勇気があげられる。さらにキリスト教徒の団結心も他の類のないものである。キリスト教共同体は寡婦、孤児、老人の世話をし、海賊に捕らえられた者の身代金を払った。疫病の流行や籠城のときには、キリスト教徒だけが負傷者の看護をし、死者を葬った。根無し草になった帝国の大衆にとって、孤独に苦しんでいる者にとって、また文化的、社会的疎外の犠牲になっている者にとって、教会はアイデンティティを獲得し、生の意味を見いだし、回復するための唯一の希望だったのである。この共同体には、社会的な障害も、人種的、知的な障壁も存在しないので、だれでもこの楽観主義的で、逆説的な共同体のメンバーになることができた。・・・おそらくこれ以前にも、またこれ以降にも、四世紀までのキリスト教共同体の生活にみられる平等と慈愛、同胞愛に匹敵するものを体験した歴史上の共同体は存在しないであろう。P282-283


世界宗教史4 ミルチア・エリアーデ (ちくま学芸文庫) ISBN:4480085645  


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