なぜ倫理は「進歩」するのか

pikarrr2013-01-19

どんどん厳しくなる現代の倫理


部活の体罰が問題になっている。少し前なら先生が学生に体罰を与えるのは当たり前だった。あるいは少し前まで職場や街中で喫煙は当たり前。隣に吸わない人がいても気にしない。女性社員に気安くするのもコミュニケーションのひとつだった。誰も疑わなかった。それがいまや禁煙だ、セクハラだと、当然のルールになった。

次に厳しくなるのは、ストーカー。アメリカではなんメートル以内に近づくなとか。あとは子供の人権。虐待は当然として、子供への十分な環境を与えられないと親失格となる。あと日本ではエロ表現の反乱が問題になっている。公共の場で出版物などのエロい表現を規制、オタクのロリ表現禁止など。

これらの倫理は主に西洋からくる。なんか倫理って年々厳しくなる方向だ。これらの現代の倫理はより高次の人権尊重に向かっているのだろう。これは人類の「進歩」だろうか。




倫理の進歩


古くは身分制があって、奴隷制があって、人身売買があった。現代のような倫理へ向かい出したのは西洋近代化からだ。近代の一つの大きな特徴は民主主義である。そこで歌われ基本的人権の尊重をより徹底する方向と言える。この近代倫理を人類の進歩と言うことができるだろうか。

まず民主主義の基本にあるのは「個」という思想だ。人類は集団を重視してきた。個では生きられないからだ。強い集団的な協力があって生き残ることができる。身分制度にしてもその流れから生まれてきた。だから個の尊重という考えはかなり異質な考えだ。近代以前に誰もが平等であるなどと誰が真剣に考えただろうか。




個という抽象的概念


そのような中で早くから「個」の概念を取り出したのはキリスト教だと言われる。キリスト教がその前身であるユダヤ教から世界宗教に飛躍したのは、ユダヤ人に閉じた教えをキリストの説いた隣人愛によって広くユダヤ人以外にも開いたからだ。それがローマ帝国の国教になることでより広域に広まる。何者も制約されない隣人愛、また一神教という神と各人との一対一の関係が個の自立に結び付く。

キリスト教が広まる中で「キリストは神か人か」ということが重要な問題であった。その中で正当な考えとされたのが三位一体論だ。神とキリストと精霊は同格である。キリストは神の下にいるのではなく神と同格とされた。

しかしまたキリストは「まったき人」であるともされた。なぜならキリストが人々に代わり死ぬことで、人々に贖罪が生まれる。これがキリスト教の最重要な教義である。キリストが神なら死ぬことはない。キリストは「まったき人」であり人が本来背負う苦しみを代わりに背負った。ここに人々の贖罪と隣人愛が現れる。

そしてギリシア思想という高い論理性を経た西洋文化において、キリストが神であり人であるという矛盾を説くことが神学として思考されていく。この思考の中で、神が唯一無二の存在であるように、人にもまた唯一無二の存在=個があり、その二面性を持つ者がキリストという存在であると考えられた。

このように個という考えは漠然と産み出されるようなものではない。たとえば虚数のようなものである。自然を設計する算術からは虚数は決して生まれない。数学という抽象的な分析の先にしか生まれない抽象的な概念である。だからといってそこからすぐに平等思想が生まれた訳ではないが、概念化された個はその後西洋思想として受け継がれて近代の民主主義思想へと繋がっていく。




日本人の「和」の倫理


倫理は個だけからうまれるわけではない。社会集団にはそれぞれ社会秩序を保つ方法があり、倫理がある。たとえば古代の日本では「和」である。日本初の憲法である聖徳太子の十七条憲法ではます始めに、和がくる。

十七条憲法はその時代の先端の儒教や仏教をもとに作られているが、そこから最初に「和」がくる発想は導かれない。その時代にすでに日本人に和を重視する思想があったことを意味する。これは決して身分制を否定し、個を尊重するものではない。

縦の関係とともに人民のための政治=仁政思想を理想とする文化があった。ここには大陸の多民族闘争から離れた日本人の疑似単一民族感が見える。それは現代まで続く日本人の理想になっている。ここからは個の尊重は生まれないだろう。

一にいう。「和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。」和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。




豊かさと倫理の進化


個がキリスト教からの概念としても、それが近代的倫理として確立していくには、段階がある。キリスト教的な個からプレ近代の理性的主体の啓蒙思想を経て、個の集合としてのマクロな社会科学へとつながっている。

現代にもつながるマクロな社会科学による倫理は私的な趣向を問わない。個人が性的な悪趣味をもっていることを問わない。理性的な主体であれとは問わない。問題は他者と関係する公共のあり方である。なぜならマクロの社会科学の中で特に重要なものが自由主義経済だからだ。各人がそれぞれ自由に振る舞うことが経済を発展させて、社会を豊かにする。これが倫理のベースの一つになっている。

現代の倫理の進化が豊かさと密接な関係があることが重要である。現実として格差が大きく貧しい社会ではセクハラや禁煙などの高次の倫理を進めることは難しい。それ以上に非倫理的な状況、貧しさからの抑圧、虐待、不衛生などが回りにたくさんあるからだ。だからといってただ豊かになれば高次の倫理へ進むとは限らない。現代の豊かさは西洋近代化によって生まれ、それは個の概念とともに発展してきた。




倫理の進歩は先進国の義務


現代日本人は確かに明治以降、西洋の民主主義制度を移植してきた。最近ではセクハラ、禁煙、などの法規制。しかしその核にある抽象的な概念である個をどこまで理解しているか怪しい。もしかするとキリスト教の概念を理解しないと真に理解できないのかもしれない。

だからと言って日本人の倫理が低いとは言えないだろう。日本は世界有数に治安がよく、社会的な人々である。しかし近代化において倫理のスタンダードは西洋にあり、国際的に認められるためには、新たな西洋からの倫理を導入していかざるをえない。

部活の体罰の問題ではもしかすると体罰を加えた先生は生徒に慕われた良い先生なのかもしれない。それでも許されないだろう。倫理はグローバルな潮流の一部だ。豊かさを推進する先進国が果たすべき義務だから。

*1