なぜ日本人は女々しい恋の歌が好きなのか
万葉集というポップス
よく日本のポップスは恋の歌ばかりだと言われる。西洋では歌詞のテーマは恋が多いが政治的なものもありより多様である。この理由の一つに、日本語がポップスのリズムに乗りにくいためと言われる。メロディー、リズムを重視すれば、歌詞は恋のようにやわらかくすんなり入るものがよい。確かにそれもあるかもしれないが、そもそもポッブス以前から演歌など日本の歌詞は恋の歌が多い。
万葉集は文字がなかった日本に漢字という文字が始めて導入された頃の歌集である。そのときに歌がつくられたというより、それまで口頭での伝承されていたものを収集し、漢字を使って書きとめて編集したものだ。日本に儒教、仏教文化が伝わり始めたのが漢字の使用と同時期であるとすると、それ以前の土着の日本人の特徴を表している面が高いだろう。
その万葉集の特徴がいまの日本のポップスの歌詞の特徴に似ているのが面白い。とにかく恋の歌が多い。名無しの大衆歌から、名のある貴族の歌まで、男女の心情の機敏、あるいは性的なもの、仏教の浄土を望む彼岸的ではなくいまこのときの快楽をという此岸的である。さらに儒教的な男性的、忠信的でもない。いわば恋人を想う女々しさとも言える。
当然、その頃の日本人も生活の苦があり、諍いがあり、恋だけが日本人の心情ということはないだろう。だから日本人にとって歌うというコンテクストがあり、庶民芸術(ポップス)として恋の歌を楽しんだんだろう。
日本人は女々しい詩が好き
庶民文化といえば江戸時代が上げられるだろう。浮世絵、歌舞伎、街頭の物語読みなど、広く娯楽として楽しまれたが、その中で人気のものが、平家物語の平重盛、源義経、太平記の楠正成、そして忠臣蔵などがある。儒教が広まった時代、これらの人物の忠信が支持されたのだろうが、儒教だけには還元できない。彼らの悲劇的な物語への思い入れである。ここにも日本人の現世的、情緒的な義理人情のお涙頂戴もの好きが現れている。
悲劇といってもたとえば聖書のように民族虐待などのようなことではないし、ギリシャ悲劇のように運命による無情でもない。そんな大きなことではなく、その場に生まれる身近な相手へ叶わない想い、その心情の描写。このような物語が日本人の琴線を刺激し、共鳴するのだろう。ようするに女々しい恋の歌が好きなんだろう。これは万葉集のころから変わらない日本人の性行なんだろう。
思へども しるしもなしと 知るものを 何かここだく 我が恋ひ渡る
(いくら恋しく思っていても、何の甲斐も無いと解っているのに、どうしてこんなにも恋しいと思ってしまうのだろうか、私の心は。)
恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛しき言尽くしてよ 長くと思わば
(好きで好きでたまらなくて、やっと会えたと思った時くらい、情け深い言葉をありったけ言い尽くしてくださいな。この嬉しさがずっと続いてほしいと思って下さるのなら。)
会いたくて 会いたくて 震える 君想うほど 遠く感じて
もう一度聞かせて ウソでも あの日のように 好きだよって・・・今日は記念日 本当だったら 二人過ごしていたかな
きっと君は 全部忘れて あの子と 笑いあってるの?ずっと私だけに くれてた言葉も 優しさも 大好きだった
笑顔も全部 あの子にも 見せてるの??
会いたくて 会いたくて 西野カナ
律令体制下の貴族官僚が住んでいた感情的・感覚的世界は、東国農民の世界と、その構造においては根本的に異ならない。その構造こそ、土着世界観の構造であって、奈良の支配層にとっては、大陸文化という接触にもかかわらず、少なくとも日本語の抒情詩のなかに、変らずに維持されたものであり、大陸文化のまだ浸透しない地方の大衆にとっては、彼らの自己同定の根拠そのものであった。その点について、『万葉集』が提供する資料は、「防人」の歌にかぎらない。また別に、地方の無名の作者の歌を集めて一巻とした「東歌」がある。短歌二百三十余首、作者のなかには地方の支配層や奈良からの旅行者が含まれていたかもしれないが、大部分は地方農民であり、その歌の多くは八世紀に行われていたはずである。・・・
第一、感情生活の中心は男女関係であった。そこのことは二百三十余首のほとんどすべてが恋の歌であることからもあきらかであろう。・・・日本の土着思想(または土着の感受性)の焦点は、決して「自然」ではなく、何よりまず「恋」であった。・・・第二、民間信仰は、「東歌」にあらわれたかぎりで、すべてその効果を、此岸に、しかも近い将来に期待するものであった。・・・日常的生活のなかで感情を強く揺さぶる要因は、男女関係であり、男女関係の中心は「寝る」ことであったという点で、八世紀の地方農民の世界は、「古代歌謡」の世界を保持していた、ということができる。P115-121
日本文学史序説〈上〉 (ちくま学芸文庫) 加藤周一 ISBN:4480084878