なぜ見るためには訓練を必要とするのか

pikarrr2013-02-02

1)人は言語構造のように世界を見る


人がものを見るということは複雑だ。人は外部の客観的情報を受信しているわけではない。外部の客観的情報とみていることには相関関係がない。調べた中で比較的関係が深かったものが言語だという。人は言語構造のように世界を見ている。たとえば言語が差異の体系であるが、色を見る場合には言語の色の分類で見えている。

だから世界の見え方は習得した言語に依存するということだろう。たとえば雪がよく降る国では雪について細かく差異化された言語体系をもつ。彼らは雪をみても細かく分類して見えているのだろう。職人などもそうだ。ある分野の細かい用語を習得することで、その分野の世界は普通の人と異なる見え方をする。




2)見ようとすることで見える


しかし見るということはさらに複雑だ。たとえば生まれながらに目が見えなかった人が、突然視覚機能を取り戻しても、見ることができないという。見るためには訓練が必要だ。足があるから歩けるのではなく、歩く訓練が必要なように、見る訓練が必要だ。訓練が必要であるということは身に付けるべき見方の規則をあるということ。その一つが言語との相関ということだろうが、見ることが見ようとする独自の解釈行為である。

解釈行為であるということは、主観的だ。解釈はその日の体調や心理に、さらに日々の経験により、変化し続ける。見ることはそのときの気分と同じでとても主観的なものだ。果たして人の気分は客観的データになりうるのか。




3)盲人も見ている


盲人は見えているという話。盲人と色の話をしても違和感がない。彼らは色そのものが見えなくても言語体系の中で色を認識する。たとえば赤を見たことがなくても、派手、ショッキング、血など言語的な意味を共有している。目が見える人もこのような言語意味的にものをみているために、実際に見えている、見えていないとは関係ないということだ。

見ることが解釈であることは実感としてわかるだろう。たとえば漫画を楽しめるのは漫画絵を視覚的な客観情報として見ているのではなく、簡略化された図を実際の世界のように解釈してみている。これは訓練だ。




4)3D映像はつまらない


ボクが前々から不思議なのが3D映像ってなんだろうということ。ボクたちは毎日3Dの立体的世界で生きている。漫画や映像などの平面情報も立体的に補完してみている。なのに今さら3Dって?

エンターテイメント的3Dは立体的にという以上のものだ。人は日常の立体も情報を縮減して、言語的に、漫画的に、平面的にみている面があるが、3Dイベントは強制的に立体感を強制して、アトラクション化する。また人が世界をみているものとは違う世界だろう。確かに最初は飛び出てビックリするが物語が進むうちに、感じなくなる。人の見る解釈が強制的な3Dを補正していく。

結局、興奮するのは見る解釈に与える物語の内容で、3Dとかどーでもよかったりする。遊園地の3Dジェットコースターアトラクション辺りが物語なく短いので一番3Dを楽しめたりする。3Dテレビの失敗はこんなところにあるだろう。




5)オールCGの実写映画は成功しない


ならば人が見ることはいい加減で客観的事実はないのかといえば、ある意味正しいが、正しくない。言語依存が高いということは、言語は究極の慣習なので見る解釈の規則として訓練され組み込まれる。

また人には先天的な見方の特徴が組み込まれている。たとえば人は人の顔に執着するようにできている。生まれたての赤ちゃんも人の顔に特別反応する。また人面魚や模様が人の顔に見える心霊写真などの錯覚は人が顔に執着する、顔的な配置の模様に顔を見てしまう特性からくる。

あるいはCGで実写を模写する場合には、いまは大体のものは騙せるが顔だけが騙せない。いまだにオールCGによる実写映画が成功しないのはこのためだろう。このようなカント的な「現象」の疑似客観的な基盤によって人の客観性は保たれている。




6)客観主義の誤謬


見るとは見ようとする行為である、ということ。といっても意思で行うわけではなく、内的に行っている。ここにはギリシア哲学以来の根深い客観主義の誤謬がある。見るとは客観的な観察である、すなわち無時間な場面の切り取りどあると、考える。ここからゼノンのパラドクスなどの歪みが生まれる。見るとは見ようとする行為であるから、主観的であり決して切り取れず変化し続け、また見ようとする影響を与える参加者である。

客観主義は理性主義。まずは客観的な観察があり、正しい思考分析がある。そして場に働きかける行為がある。理性>身体という理性主義。実際は基本は身体であり、行為。理性はあとからあたかも自らがコントロールしたように錯覚する。考えて行為していては世界の変化についていけない。




7)なぜ人はフリーズしないのか


そこから生まれるのが人工知能のパラドクス。正しい解を計算し行動する人工知能はフリーズする。なぜ人はフリーズしないのか。考える前に行為している、というか、人は死ぬまで途切れない行為の連続。

たとえばマグロは止まったら死ぬと言う。エラ呼吸できないから、進むことで新たな水を取り込み呼吸する。だから死ぬまで進みつづける。大変だと思うかもしれないが、人間も対して変わらない。人は絶えず動いてる。自分を観察してみればいい。休んでようが、寝てようが手は何かしてる。さらにたえず見ているし、嗅いでいるし、聞いている。すべてが行為だ。行為をとめることはできない。だから人はフリーズしようがない。解を出す前にすでに行為している。




8)風邪の引き方を訓練する


AだからBになるというような純粋な脊髄反射なんてない。行為である以上、そこに自己産出が伴い、毎回、現れ方は違う。しゃっくりの仕方だろうが、風邪の引き方だろうが、身体訓練が伴う。いままでになんどもしゃっくりを経験することでしゃっくりの仕方を体が覚えている。風邪の引き方もそう。

ボクは以前、突然悪寒に襲われて、熱が出て、怖くなった。いままでに経験したことがない反応だったから。いままでに風邪を何度もひいているが、明らかにそれとは違う。それは結果的に食中毒だった。逆にいえば、これが風邪なら熱が出ても風邪の引き方を知っているので、慣れたものということ。

食中毒にあらわれる症状を経験したことがなかったので、とても不安で、不気味で、気持ちが悪かった。しかし1秒1秒経験することで体は、その症状への対応を学習して行っている。訓練されている。もう一度食中毒になれば、体はもっとうまく反応するだろう。




9)思考の限界


哲学、科学という言語による論理的思考方式が客観主義の誤謬の上に成り立っている。それを放棄すれば、思考は停止する。結局これが客観主義への答えだ。

如何にして規則は私に、私はここに於いて何を為すべきかを、教える事ができるのか。・・・如何なる解釈も、それが解釈するものの支えの役は、果たし得ないのである;解釈だけでは、[それをいくら連ねても]それらが解釈するものの意味は決定しないのである。

私が「規則に従う」と呼ぶものは、ただ一人の人がその人生に於いてただ1回だけでも行う事が出来る何かであり得るだろうか?[答えは否である。]・・・規則に従うと言う事・・・は慣習([恒常的]使用、制度)である。

規則の表現−たとえば、道しるべ−は、私の行為と如何に関わっているのか、両者の間には如何なる結合が存在するのか?・・・私はこの記号に対して一定の反応をするように訓練されている、そして、私は今そのように反応するのである。(198)

規則の或る把握があるが、それは、規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用において我々が「規則に従う」と言い「規則反する」と言う事の中に現れるものである。(201)

したがって「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践である。そして、規則に従うと信じる事は、規則に従う事ではない。・・・或る規則に従う、という事は、或る命令に従う、という事に似ている。人は命令に従うように、訓練され、その結果命令に或る一定の仕方で反応するようになるのである。(202)

「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」(217)


『哲学的探求』読解  ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン  (ISBN:4782801076