なぜ社会科学の黎明期は語られないのか(未完)

pikarrr2013-02-10

マクロ主義


西洋思想の基本は、個(主体)にある。これを個の理性主義の系譜と考えると

<理性主義>
ギリシア−ストイック−キリスト教ニュートン力学啓蒙主義−民主主義−社会主義構造主義

それに対して、近代化の中でマクロ主義が登場する。これはそもそも主義というよりも近代の経済の発展が社会、大衆を必然的に生み出してきた。そこに倫理を見いだす流れを生み出して生きた。

<マクロ主義>
統計、熱力学−スコットランド啓蒙主義自由主義功利主義−社会(科)学−リベラリズム−公共哲学

その元祖の一つにスコットランド啓蒙主義のヒュームをあげられる。カントとヒュームの対立は理性主義とマクロ主義の最初と対立ともいえる。マクロ主義は倫理というよりも、社会科学として新たな潮流を生む。経済学、社会統計を基本とする社会学、そして最近では政治もリードしている。社会主義亡き後、政治の中心は、自由主義かリベラル(富の分配)か重要になっている。

もはや現代の倫理を引っぱるのはマクロ主義である。しかし西洋ではそこに絶えず理性主義的な揺り戻しが起こる。ヒュームに対するカントに始まる揺り戻し。おそらくキリスト教的伝統ではマクロ主義は許されないのだろう。概略でいえば、理性的なコントロール欲求とでもいうものだ。なるようになるでは許せないコントロールしたい欲求。現代はこれを右(自由主義)VS左(リベラル)を表現される。




マクロ主義


ここに日本人の倫理を考えるとおもしろい。日本人の倫理の伝統は、和にある。もともとがハイコンテクストな社会での慣習的な和である。キリスト教的な理性的な主体の伝統はない。あるとすれば儒教である。キリスト教まではいかないが、儒教の基本は君子という理性主義的な面がある。君子というように支配層に受け入れられた。

日本人の基本は役割主義である。日本人は誰もが日本に対する役割(職)をもっている。それを全うすることが重視される。それが明治にはいり一気に理性主義からマクロ主義が入ってくる。

しかし西洋の理性主義的なものは日本人にはほぼ根付かなかった。マクロ主義への高い適応を示した。といっても、それは思想というレベルではなく、経済活動としてである。役割主義は会社主義としてつながっている。軍国主義は西洋の理性主義を儒教的武士道と役割主義によっている。

そして会社主義が解体しつつあるいま、公共哲学が重視されつつある。サンデルが人気があるのはそのためである。理性主義(民主主義)が苦手な日本人は、自由主義社会の中で、消極的自由を重視している。必要以上に干渉せずに個人の趣向を楽しむ。豊かさと社会インフラをそのために発展させてきた。




公共哲学


このために重要であるのが、公共哲学である。必要以上に干渉しないとしても干渉せざるをえない領域として公共がある。公共をいかにするか。それがいまの日本社会の倫理である。

自由主義。これは受け入れられる。しかしリベラルとなるとよく分からない。民主党(リベラル)とはなんだったのか。結局、自民党自由主義)になるととたんにわかりやすくなる。民主党政権もべつに自由主義に不満があった訳ではない。単に自民党が腐敗しているのではと嫌悪しただけだ。

サンデルの立ち位置は、リベラリズムへの懐疑である。日本人にわかりやすい位置にいる。公共哲学は公共という領域を社会科学的に考える。日本人が嫌悪する理性主義は少ない。

たとえばいまNHKで日本人は何を考えてきたのかという日本人の過去の思想のシリーズをやっているが、どうも変な感じをするのはこれらは日本人の理性主義の系譜だからだ。思想かぶれの一部の日本人がこのように西洋に理性主義を思考したがほぼ根付かなかった。これらはニッチな領域でしかない。日本人の主流の思想はなんだったのか。それを思想というようなものではない。




ヒュームの社会科学


ヒュームの革命は啓蒙思想の本質、物理科学と人間を一つの統一理論とすること。ヒュームはそれを理性という単独ではなく、多数とすることで人間科学を生み出した。哲学と社会科学の分岐点。フランス啓蒙主義の限界。フランスにおいては、社会学コンドルセ、コント、社会主義。イギリスにおいては、ヒューム、アダム・スミス

ニュートン力学の革命は啓蒙主義を産み出す。理性的主体を単位として秩序ある理想的な人間世界を構築される。しかし当初の構想は早々と暗礁に乗り上げるが理想的主体から多数へとシフトが起こる。一人一人ではなく集団を理想状態へ導く。このアプローチには様々なものがある。たとえばフランスでは、ルソーの全体意志など、全体として最適化はその後、社会主義思想へ繋がる。またコンドルセは全体の統計的な分析から理想を目指す。コントにより社会学へ繋がる。

イギリスではスコットランド啓蒙主義としてヒュームが理性主義を批判し、共同体のコンベンション(慣習)論を提唱する。他者との関係、共同体の慣習が社会を作る。アダム・スミス自由主義経済学を産み出す。

このような主体論から全体論へは時代を反映している。経済発展が進み大衆が登場する。大衆を管理するために統計分析が行われる。さらに科学においてもニュートン力学では表せない熱力学や化学により集合を対象とする第二次科学革命が起こる。そしても人間学はもはや哲学ではなく経済学、社会学など社会科学の時代になる。そんな分岐点の時代である。




社会科学の黒歴史


しかしおもしろいことに、この社会科学の黎明期は語られることが少ない。哲学史なら、啓蒙主義がありヒュームの理性主義批判があり、それを乗り越えるカントが英雄として登場として、ヘーゲルへ繋がっている。かたや科学はそもそもあまり歴史を語らない。ニュートン力学は誰もが知っているが、ニュートン科学史最大のヒーローだがどのように思考し、何者であるか知る人は少ない。社会科学の経済学もアダム・スミスについて、社会学もその出目は語られない。しかしこれは社会科学が科学であるからだけではない。その時代か一つの黒歴史であるためだ。

本質的に人の集団を科学的に分析、管理することには、一人の人を一単位、いわばものとしてみなす倫理的な問題が潜んでいる。全体の最適化は抑圧される個体を生む。まだ身分制がのこり人権が曖昧な時代に多くの弊害を生む。

コンドルセの統計的な最適化は平均的な人間という理想像を産み出し、平均から外れた人を不良品を見なす方向へ進む。たとえば民族差別を生んだ優生学へ繋がる。あるいはルソーの思想は集団の最適のために管理される個としての全体主義に繋がる。また社会主義の弊害は最近まで続いた。ヒュームはベンサムなどの功利主義に繋がる。最大多数の幸福。これはまさにいまも続く倫理的な問題だ。

いわはこの潮流が世界大戦へ繋がるといってよい。そしていまは昔ほど無頓着ではなくなったが、社会科学の裏面として隠されている。だからその黎明期はいまも多くが語られないのだ。人々はしらーと科学技術を語り、哲学を語り、経済学を語り、社会学を語る。実はそこに昔と変わらず狂気が潜んでいることを見ないふりをしている。ボクの興味の一つがここにある。しかし実際この辺りのことを書いた本は少ない。




アメリカと社会科学


人の理想を理性的主体と考えていた時代、それはキリスト教の影響が大きいが、拷問による懺悔が行われ、公開での火炙り、首切りなど残忍な処刑が行われていた。しかし人の理想を平均的な人間と見る時代、矯正が基本となり、処刑はひっそり処理される。ものを処理するように。

社会科学がいまも息づいているのはアメリカだろうタイガーウッズの浮気性をメタファーでなく、ガチ病と考え更正施設に送ることは日本人にはない。浮気ぐせが絶えない人に「病気だな」というがあくまでもメタファーである。

アメリカ人は天才を尊敬する。天才とは一つの能力に特段に秀でた人だ。日本人は一芸に秀でてもそれだけのことで特に尊敬しない。日本人が尊敬するのは徳のある人だ。儒教的であるが日本的である。儒教で尊敬されるのは君子である。中国において君子は選民である。中国には烏合の衆でないところの自立した者としての君子である。日本の尊敬される人も英雄であるかもしれないが、重視されるのは自らを犠牲にしても人々のために尽くすことである。日本人の運命共同体を身を犠牲にしても引き連れていく者である。



wikiコンドルセ
テュルゴーの改革は挫折に終わったが、政治と科学双方を射程に入れたコンドルセの思想はその後深化を遂げ、1780年代に「道徳政治科学の数学化」もしくは「社会数学」という学問プロジェクトに着手することとなる。道徳政治科学とは、当時まだ明確な学問的輪郭を与えられていなかった経済学の源流の一つであり、啓蒙の知識人達に共有されていた問題関心であるばかりか数学者達の関心をも集めていた。そこでコンドルセは、当時数学者ピエール=シモン・ラプラスらによって理論的な整備の進みつつあった確率論を社会現象に適用し、合理的な意思決定の指針を与えるような社会科学を目指したのである。

しかし、フランス革命の混乱による中断等で社会数学の試みは未完成に終わり、20世紀初頭までその内容と射程が正確に見直されることは少なかったと言えるだろう。その一因には19世紀を通じて大きな影響をふるった実証主義の祖であるオーギュスト・コントコンドルセ評価が後世に与えた影響がある。「社会学」の創始者であるコントは、自らの「精神的父」としてコンドルセを挙げ、コンドルセの政治思想や歴史観を再解釈して評価した。だが、社会現象の記述に数学を適用することを全く認めなかったのである。

wiki統計学
ドイツでは17世紀からヨーロッパ各国の国状の比較研究が盛んになったが、1749年にアッヘンヴァルがこれにドイツ語でStatistik(「国家学」の意味)の名をつけている。19世紀初頭になるとこれに関して政治算術的なデータの収集と分析が重視されて、Statistikの語は特に「統計学」の意味に用いられ、さらにイギリスやフランスなどでも用いられるようになった。この頃アメリカ、イギリス、フランスなどで国勢調査も行われるようになる。

この考えを本格的に広めたのが「近代統計学の父」と呼ばれるアドルフ・ケトレーであった。彼は『人間について』(1835年)、『社会物理学』(1869年)などを著し、自由意志によってばらばらに動くように見える人間の行動も社会全体で平均すれば法則に従っている(「平均人」を中心に正規分布に従う)と考えた。ケトレーの仕事を契機として、19世紀半ば以降、社会統計学がドイツを中心に、特に経済学と密接な関係を持って発展する。

同じく19世紀半ばにチャールズ・ダーウィンの進化論が発表され、彼の従弟に当たるフランシス・ゴルトンは数量的側面から進化の研究に着手した。これは当時Biometrics*(生物測定学)と呼ばれ、多数の生物(ヒトも含めて)を対象として扱う統計学的側面を含んでいる。

wiki優生学
1860年代から1870年代にかけて、フランシス・ゴルトンは従兄弟のチャールズ・ダーウィンの『種の起源』におけるヒトと動物の進化に関する新たな理論に影響を受けて、独自に解釈した。ゴルトンは“自然選択のメカニズムはいかにして人間の文明によって潜在的に妨げられているか”という文脈において、ダーウィンの研究を解釈し、「多くの人間社会は経済的に恵まれない人々と弱者を保護に努めてきた。それゆえにそれらの社会は、弱者をこの世から廃絶するはずの自然選択と齟齬を来してきた」と論じた。

ゴルトンは、これらの社会政策を変えることによってのみ、社会は「月並みな状態への逆戻り(reversiontowardsmediocrity)」(統計学において彼が最初に作った造語である)から救出することが可能であると考えた。この語は、現在では一般に「平均への回帰(regressiontowardsthemean)」という用語に置き換わっている。ゴルトンは1865年の論文「遺伝・才能・性格」において始めて自説を開陳し、1869年の『遺伝的天才』において、「天才」と「才能」は人間において遺伝するとした。また、「人間は動物に対して様々な形質を際立たせるために人為選択の手段を用いることが可能であり、そのようなモデルを人間に対して応用するなら、同様の結果を期待することが出来る」として、次のように述べた。

人間の本性の持つ才能はあらゆる有機体世界の形質と身体的特徴がそうであるのと全く同じ制約を受けて、遺伝によってもたらされる。こうした様々な制約にも拘らず、注意深い選択交配により、速く走ったり何か他の特別の才能を持つ犬や馬を永続的に繁殖させることが現実には簡単に行われている。従って、数世代に亘って賢明な結婚を重ねることで、人類についても高い才能を作り出しうることは疑いない。
--ゴルトン『遺伝的天才』(1869)序文

優生学は20世紀初頭に大きな支持を集めたが[3]、その最たるものが生物学者オイゲン・フィッシャーらの理論に従って行われたナチス政権による人種政策である[4]。他にナチス政権はオトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアー(OtmarFreiherrvonVerschuer)による双生児研究(双生児研究(ナチス))など数多くの優生学上の研究を行っている。

ナチとの繋がりで研究や理論が具体化する一方、公での支持は次第に失われていった。ナチスの人種政策という蛮行が多くの倫理的問題を引き起こした事から、優生学は人権上の問題として取り上げられ次第にタブー化していった。

しかし近年の遺伝子研究の進歩は優生学者が説いた「生物の遺伝改良」が現実化できるという可能性を結果として示す事になった。遺伝改良が社会上有益かどうか、また仮に有益だとしても倫理上許されるのかどうかなど、優生学的な研究の是非が問い直されつつある。

wikiベンサム
ベンサムは法や社会の改革を多く提案しただけでなく、改革の根底に据えられるべき道徳的原理を考案した。「快楽や幸福をもたらす行為が善である」というベンサムの哲学は功利主義と呼ばれる。ベンサムの基本的な考え方は、『正しい行い』とは、「効用」を最大化するあらゆるものだと言うもの。ベンサムは、正しい行為や政策とは「最大多数個人の最大幸福」(thegreatesthappinessofthegreatestnumber)をもたらすものであると論じた。「最大多数個人の最大幸福」とは、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」という意味である。しかし彼は後に、「最大多数」という要件を落として「最大幸福原理」(thegreatesthappinessprinciple)と彼が呼ぶものを採用した。ベンサムはまた、幸福計算と呼ばれる手続きを提案した。これは、ある行為がもたらす快楽の量を計算することによって、その行為の善悪の程度を決定するものである。


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