なぜマクロ思考は現代最強の倫理なのか

pikarrr2013-02-27

西洋近代が生み出した「十分なマクロ領域」


ダーウィンの進化論の衝撃は進化そのものではなく自然淘汰にある。ダーウィンはこの発想をマルサス人口論から得た。すなわちこの世界そのものが持つ自浄作用である。マルサスの自然の人口調整は、これが限られた地域ならば対応しない。食料が足りないなら回りから奪うことも可能だ。しかしそういうミクロな現象も含んだ「十分なマクロ領域において」という前提がある。

このような「十分なマクロ領域において」というマクロ思想は西洋近代の発明である。このような思考の起原をさかのぼることは難しいが、アダムスミスが神の手と呼んだ以前の14世紀の欧州の経済には連動ずる物価があったという。すなわち「十分なマクロ領域」としての市場経済があった。貨幣という一元的な価値の流通はもっとも「十分なマクロ領域」を生み出しやすい。

人口論 Wikipedia

マルサスは人口の増加が生活資源を生産する土地の能力よりも不等に大きいと主張し、人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが生活資源は算術級数的にしか増加しない、という命題を示す。・・・動植物については本能に従って繁殖し、生活資源を超過する余分な個体は場所や養分の不足から死滅していく。人間の場合には動植物のような本能による動機づけに加えて、理性による行動の制御を考慮しなければならない。つまり経済状況に応じて人間はさまざまな種類の困難を予測していると考える。このような考慮は常に人口増を制限するが、それでも常に人口増の努力は継続されるために人口と生活資源の不均衡もまた継続されることになる。




人は均質的な1単位で人の創造は偶然でしかない


ダーウィンは進化にこの唯物論的なマクロ思考を取り入れた。ダーウィンの衝撃はまさにここにある。キリスト教創造論に対して唯物論的なマクロ現象を対置させた。この時代、まだ人々は神を信じまた身分制は神に支えられていた。進化論そのものは広まっていたが神が人へと進化させたと考えられる余地が十分にあった。

「十分なマクロ領域」では個体は集合の均質的な1単位となる。そしてただ偶然に晒されている。自然という「十分なマクロ領域」では人は均質的な1単位でしかなく、人の創造は偶然でしかない。ここに強烈な唯物論がある。




合理的な全体


近代の啓蒙主義はフランスの合理主義を中心に進んでいた。ニュートン力学の合理性のように人を、社会を理性を基本にして合理的に設計する。最終的にヘーゲルにいたりそれは未来で完成される。

イギリスの経験主義、ロック、ヒューム、さらにはアダムスミスでさえ、社会をマクロ思考で考えたわけではない。ロックが言ったのは人(の理性)は生まれてからの経験でつくられるといったのだし、道徳哲学家のヒューム、アダムスミスが言ったのは人の関係性から規範(理性)が生まれるといった。アダムスミスの神の手は経済現象のことをいったのであって理性の創造についていったわけではない。まさに理性はキリスト教の産物である。ここにはミクロとマクロに断絶はない。あるのは合理的な全体だけである。




マクロ思考にあらわれた人間


マクロ思考は経済現象への表現から確実に社会への表現へと広がっていた。マルサス人口論にすでにその端緒はある。実際に人口統計、さらには様々な人の特徴の計測が行われた。そしてケトレーは人の特徴が「十分なマクロ領域」として扱えることを示す。たとえばある人の身長は「十分なマクロ領域」では集合の均質的な1単位でありただ偶然に晒されて決まっている。

ダーウィンの進化論が社会ダーウィニズムとして優生学に使われたのはこの延長にある。「十分なマクロ領域」において、それぞれの人種に差があるなら自然が生み出した差であると。人種優劣を自然主義的に補強する。優生学以前に身分や奴隷制が当たり前の社会でまず実際に人々は優性を信じていた。




人間科学に隠されたマクロ思考


アメリカはドイツから哲学思想を学んだ。特にカントはアメリカに多大な影響を与えている。それは認知科学化されたカントである。ドイツで生まれた心理学はカントが示した主体像を実験的に証明する試みとして始まった。すなわち因果律モデルの心理学である。このような心理学は従来の哲学と対立する欧州よりもアメリカで広まった。行動主義、サイバーネティクス、分析哲学脳科学遺伝子工学など因果律モデルの認知科学アメリカがリードすることになる。

いまもアメリカはミクロレベルで強烈な因果律心理学を表す。最近ではタイガーウッズの離婚訴訟では、セックス中毒として矯正所が命じられた。正しい因果律心理から外れた欲望は病である。

この「正常」への執着はプロテスタントの伝統からきているのかもしれないが、しかしここでの矯正は理性の矯正ではなく、あくまで身体的矯正である。すなわち「十分なマクロ領域」の「正常」である。正常は統計的な平均値により補強される。これは優生学の原理と本質的には変わらない。




マクロ思考の経済合理性という倫理


現代の科学はニュートン力学を基礎として数学を用いて合理主義的である。しかしそれを人に、あるいは社会に展開するときにマクロ思考が使われる。人を合理的に扱うことなどできない。しかし「十分なマクロ領域」としての人なら扱える。これが社会科学の基本的なスタンスである。

このようなマクロ思考の正当性を強化するのは経済性である。マクロ思考は経済学からはじまったのは偶然ではなく、マクロ思考そのものに経済合理性という倫理が含まれている。人口論、進化論、神の手はただの現象ではなく、生物が生き残るための自然の自浄作用であり、経済的に合理的な現象である。この自然主義は現代もっとも世界的にみなが共有している倫理だろう。

マクロ思考は現代最強の倫理である。社会制度、行動規範、そして法律もマクロ思考の倫理を基本に作られている。しかしあまりに最強すぎて疑われることもない。

マクロ思想は西洋近代の市場経済という貨幣の一元的な価値の流通にあらわれた。
マクロ思想は社会の流動性が上がる中で人間社会にも適応された。
「十分なマクロ領域」では人は均質的な1単位でしかなく、人の創造は偶然でしかない。
マクロ思考は人が生き残るための自然の自浄作用であり経済的に合理的な現象である。

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