なぜロリ萌えは性的欲求不満ではないのか

pikarrr2013-08-09

ロリ萌えは社会的なストレスの発散を根に持つ


よくロリ萌えに対して、童貞、彼女いない、セックスレスなど、一元的な性的欲求不満で語られるが、そうじゃないと思う。極端にいえば性的不満とロリ萌えは別腹ではないか。ロリ萌えは社会的なストレスの発散を根に持ち、癒しに近い。子供やペットなどに癒されることと連続性をもつ。いわば癒しと性的不満が混ざった感じ。

でもそもそも動物的な純粋な性的欲求が人間にあるわけではないので、性的要求不満とストレスは切り離せないわけだが、メディアの発達はおそらくエロそのものを変えたんだろう。エロコンテンツの爆発的普及、そして社会そのもののエロ化。豊かになりおしゃれそのものは性的な魅力を演出する。体感するエロから見るエロへ。

たとえば女子高生のミニスカはすごい発明だ。日本を変えたね。学生なのにあんなにスカート丈を短くする。それも年中。彼女たちはそのためにやってる訳じゃなく、ファッションであり、やらないと仲間に入れないと言う暗黙の強制力のもとやっている。女子高生の総ミニスカ化は日本中のエロレベルをあげた。明らかに日本は変わった。日本人は覚醒された。




日本のハイコンテクストな社会ではストレスが生まれやすい


現代のストレスのもとは広義の交通の高速化だろう。単純には車、電車など短時間で異なる場所に移動すること。そしてメディアにより短時間で大量の外部情報が移動してくるという交通の高速化。人間は切りとられて、知らないコンテクストに貼り付けられる。交通が高速化した現代ではただ生活するだけで大きなストレスをうける。ようするに俗に言うストレス社会ということ。

オタク思考の人はおとなしい人が多いが、気の弱い人ほど場になじもうとコンテクスト(空気)を読むことに必死だ。ロリ萌えにしろ、癒しへの欲求が日本人に特別強いのはよりコンテクスト(空気)読みを求められる社会だからかもしれない。これは世界でも有数の交通の高速化が進んでいるということもあるが、日本の社会がコンテクスト(空気)読みを求められる社会=ハイコンテクストな社会だからだろう。

日本がハイコンテクストな社会であるのは島国で征服されたことがなく、疑似単一民族として、集団的同調圧によりさまざまな決定を行ってきた文化によるだろう。だから現代の流動性が高く、多様な価値の社会と、ハイコンテクストな集団的同調圧の間にストレスが生まれやすいのかもしれない。

そして人々は癒しを求めるわけだけど、その対象が無垢なもの。子供、ペット、自然、かわいいもの、天真爛漫なものなど。このような無垢なものは裏表がなく、コンテクスト(空気)を読む必要がない。ハイコンテクストでコンテクスト(空気)読み疲れしている人は無垢なものに接するとコンテクスト(空気)から解放されることで安心し癒される。




子供に接したときの体の芯から力がほどける感じ


子供やペットに接したときのあの体の芯から力がほどける感じ。あれはなんだろうか。その根元には生物学的なものがあるだろう。動物の子供はすべて円形のフォルムを基本に生まれてくる。これは人間がかわいいという感性とつながっている。すなわちかわいいは動物学的な構造をもつ。

あるいは母性本能というのがあるのかもしれない。動物は幼態の形、しぐさに保護本能が働く。みずからの子供でもなくてもかわいく、助けたくなる。人の癒しをすべて生物学的には還元できないがある種の生理的な核があることが確かだろう。

しかし一方、子供に対して、癒しを感じ保護する感情は人の文化では特殊だともいえる。特に貧しい社会では子供は強いたげられてこきつかわれてきた。この辺りは環境、文化の影響が強い。たとえば西洋では子供は未熟な大人と見なされて、大人になるよう厳しくされる文化がある。

それに対して日本人は子供に関しても寛容と言われる。集団の中に子供と言う位置付けがあり、子供だからと無邪気な振る舞いも許される。逆にいえば子供が無邪気であること、集団の潤滑油的なホジションが用意されているともいえる。癒しとしての子供は日本文化の一部としてあったのだろう。




西洋ではロリ萌えは病気であり犯罪である


西洋では子供という存在に厳しく、日本では寛容であることは、エロ文化のあり方にもつながるだろう。以外かもしれないが日本人は性に開放的だ。開放的というより素朴だ。西洋はキリスト教文化から禁欲的で性に関する倫理も明確だが、日本人は素朴で性倫理など緩く無頓着である。このために今でも性的表現が管理されず生活の中に普通にある。

いまではむしろ西洋人の方が性に自由だとも言える。どちらが性に開放的かは別にしても、日本に比べ西洋は性について倫理的である。たとえば西洋の性の自由は個人主義に裏付けられている。大人の個人が恋愛しセックスすることは自由である。だから西洋は子供に関する性については厳しい。一人前の主体でない子供は姓表現から守る。だから西洋文化ではロリは病気であり、犯罪である。




男性の純愛信仰はロリ萌えへ向かう


しかし一方で明治以降の急激な西洋化推進の中で、西洋の禁欲主義を取り入れてきた。明治以降、日本人は性を管理してきた。まずは女性の貞操である。結婚するまで性交渉はせず、結婚後は夫に操を通す。これは純愛というキリスト教的物語を通して広がる。白馬の王子様、赤い糸など。特に消費社会では少女趣味という一分野を確立する。

男性にも同様な倫理はあったが、現実的には合法的な売春が行われ、男尊女子であった。しかし面白いのは戦後、売春が違法となり、徐々に男性にも貞操文化が浸透していく。女性ほどに社会的に貞操を求められていないにも関わらず、純愛文化は男性にも浸透していく。運命の女性を見つけドラマのような充実した恋愛を達成する。この高いハードル故に性経験しない男性が増えている。このような現象は日本に特徴的ではないだろうか。

そして純愛信仰による性的禁欲者たちが向かったのがロリ萌えである。彼らが純愛を達成するために処女を求めるのはわかる。それが幼児へ向かうのは究極の処女であり、純化した存在であるためだ。




男子は白馬の王子様からロリ萌えへの逃亡する


女子も純愛信仰で、男子も純愛信仰なら相性がちょうどよくハッピーエンドで、わざわざロリ萌えへ向かうことなどないじゃないか。しかしそう簡単ではない。

オタクという人たちがなぜかつて性的に抑圧された女性が逃避するための純愛信仰に向かったのか。それはまた男性性からの逃避があるのだろう。明治以降の男女の倫理は一方で西洋キリスト教、もう一方で武士道的儒教の影響を受けてきた。教育勅語に有名なように武士道的儒教は「男子たるもの」という男尊女卑、父権主義を進めた。

オタクが自らの自虐も含めてネガティブなイメージがあるのは、いまだに儒教的コンテクストが生き残っているからだ。男性の性関係の多さはステータス(甲斐性)である。男性の純愛信仰など「女の腐ったの」だ。

このような社会的な男性性のコンテクストに対するストレスから、逃避としての純愛信仰。社会的にコンテクストに拘束されたくもない。それに対して、女性の純愛信仰はまさに武士道的儒教コンテクストから生まれてきた。父権主義の白馬の王子様を夢見ている。だから男性は女性の純愛信仰からも男性性を求めないロリ萌えへ逃亡する。

日本で先進国の中で断トツで女性の社会進出が少ないのは武士道的儒教コンテクストの父権主義の影響だろう。男子はそのような男性性からロリ萌えへ逃亡している。では女性はどこへ向かうのか。ボクは男性なのでわからないが女性の中でとても恐ろしいことが起こっている気がする。女子高生の総ミニスカ化はその予兆なのかもしれない。