なぜ日本人のおもてなしは西洋のサービスとは違うのか その2

pikarrr2013-11-03

平等と公平感

NHKスペシャル 第3集 うつ病〜防衛本能がもたらす宿命〜
http://www.nhk.or.jp/special/yamai/detail/03.html

働き盛りを襲い自殺に追い込むなど、深刻な社会問題になっている「うつ病」。世界の患者数は3億5千万人に達し、日本でもこの10年あまりで2倍に急増しています。なぜ、私たちはうつ病になるのでしょうか?その秘密が、意外にも5億2千万年前に誕生した魚の研究から明らかになってきました。魚でも、「ある条件」を作ると、天敵から身を守るために備わった脳の「扁桃体(へんとうたい)」が暴走し、うつ状態になることがわかってきたのです。

更に2億2千万年前に誕生した哺乳類は、扁桃体を暴走させる新たな要因を生みだしていました。群れを作り、外敵から身を守る社会性を発達させたことが、孤独には弱くなり、うつ病になりやすくなっていたのです。

そして700万年前に人類が誕生。脳が進化したことで高度な知性が生まれ、文明社会への道を切り開いてきました。しかしこの繁栄は、皮肉にも人類がうつ病になる引き金を引いていました。文明社会によって社会が複雑化し、人間関係が一変したことが、扁桃体を暴走させ始めたのです。

番組では、研究の最前線で明らかにされてきたうつ病の秘密に迫り、そして進化を手掛かりにして生まれた新たな治療法を紹介。人類の進化がもたらした光と影を浮き彫りにしていきます。

平等は等価交換的な概念ですね。すなわち相手は誰であるかを選びません。貨幣は持ち手が誰であろうが等しく価値をもち、等価交換可能です。交換の瞬間にすべてが清算され完結するからです。それに対して贈与交換は相手を選びます。交換は決して一回では清算されず、相手との関係を継続します。

このような贈与交換は個人間の一対一よりも、限られた集団内の円環として働く場合が多い。これは平等ではなく、いわば公平な関係です。相手の顔を知り継続的な関係によって助け合い、バランスを取ります。上述のNHKスペシャルは平等ではなく公平な関係でしょう。




資本主義の誕生と自由と平等


このような贈与交換の集団を成立させるには、純粋贈与の存在が重要です。すなわち天の恵み(天災)。人智を越えた力が生存を大きく作動する場合には、天から与えられたもの(災害)は集団として分配しないと個人では受け止められません。このために生存を共有する集団内で贈与分配する公平な信頼関係が大切になります。それを破り独り占めするものは集団の生存を脅かす危険分子として、排除されます。

大規模な農耕がこの関係を崩します。生存に必要以上の大量の富の蓄積ができることで、純粋贈与圧は緩みます。天の恵み、天災と人との緩衝になります。そこに富を巡る争いがおきます。多くの富を得ることが生存に優位になり、階級が生まれます。そして富の独占者との再配分の関係が生まれます。

近代にこの関係を大きく変えるのが資本主義の登場ですね。貨幣交換の全面化は富の意味を決定的に変えます。貨幣等価交換の清算性により、贈与交換のように交換に人を選ばず、その場で清算されるので初対面だろうが交換が可能になります。これにより市場の流動性が上がり、市場規模が膨らみます。そして一番重要なのは資本による富の増殖でしょ。貨幣が流通することで富が富を生むようになります。これはある種のギャンブルの原理ですが、誰でも富を得る可能性がでてくる。そして貨幣では富の蓄積にコストがかからなくなります。町の商人などでも可能になります。このように資本主義社会では、人々が平等に自由に貨幣交換することで富の流動性が上がり、富が増加します。このために社会の自由、平等が重視されます。




うつが増えたのは自由と平等が原因


近代にうつが増えたとすれば、むしろ自由、平等が原因ではないでしょうか。要するに、原始社会の贈与交換による公平感と近代資本主義社会の貨幣交換による平等とは大きく違う。NHKスペシャルが言うように原始社会にストレスが少なく、現代人にストレスによるうつが多いとすれば、平等、自由そのものにストレスが潜んでいる。

公平な社会では信頼関係ある限られた人々と交換のコミュニケーションをつづけることに対して、平等な社会では、見ず知らずと人々と会い、交換し、そして清算する。これによって高い流動性が可能になった。相手が誰であるとか関係なく、互いを平等であるとして関係する。しかしこれはある種のストレスである。流動性の向上は交通の発達も生み出し、いままででは考えられない人々と出会い別れることになる。これは平等だから可能になることだ。たとえばフロイト精神分析を発明したのは、二十世紀初頭の、コスモポリタンであるウィーンである。

たとえば会社の上下関係と平等は両立している。逆にいえば平等だから上下関係が成立している。封建的に階級が生まれで固定され、人権まで差があるわけではない。仕事の効率の分業として組織化されている。だから上に上がる可能性は開かれている。しかしそこに落ちたり、上がったり競争という流動性が生まれる。より複雑な人間関係が生まれる。簡単にいえばギャンブル社会である。誰にも平等にベットする権利が与えられている。それはまた義務でもあり、決して逃げられない。

これは生理的にはかなり不自然な社会なんだろう。人類史をたどれば、農耕社会になったのは古く見て一万年前。資本主義が全面化したのは古く見て五百年前。それ以前に人類は十万年近く原始社会を生きている。平等な社会は五百年にも満たない。このような資本主義、民主主義な平等を支えているのが国家群体制である。




偶然性と交換様式


では偶然性の位置で考えてみましょう。原始社会では回りは偶然の世界(純粋贈与/破壊)です。その中で小さな集団は信頼関係を頼りに寄り添い安全を確保します。それが大規模な農耕社会になると、外部はまだまた偶然の世界ですが、富の蓄積が偶然と生存の間のクッションになります。富とは単に食料だけでなく、様々なインフラ整備などもあります。このようなインフラ整備は権力者に税を納める再配分により、公的な事業として行われます。ここに階級社会が生まれます。

さらに貨幣社会になり、分業体制が整うと、富は増大し、より強固なインフラが整い、安全な環境が整い、外部の偶然性は大地震程度になります。このようになると逆に偶然性を飼い慣らすようになります。必要な程度で偶然性を取り入れることで富を増やす。ケインズがいうアニマル・スピリッツです。社会を活性化する程度に偶然性を引き込み、経済を活性化させる。それがたまにアンコントロールに暴走すると恐慌、バブル崩壊にいたります。

贈与交換は安全です。繰り返された信頼ある人々と交換するからです。しかしマルクスが言うように貨幣交換は命懸けの飛躍であり、偶然性を含んでいて危険です。さらには本は貨幣交換はさらにリターンが大きくなるように増幅させて危険です。より詳細にいえば貨幣交換はすぐに清算されますが、資本は清算を未来に延長することで偶然性をさらに呼び込み、そのリスクの代わりにリターンを増やします。このような荒業はある種、社会から偶然性を排除し安全が図られるからできるのです。なにが起こるかわからないジャングルの中でできるものではありません。

要するに平等と自由がもつ抑圧です。個が安全と偶然の繰り返しを背負うということ。これはある種の疲労テストとも言えます。平等であれ、自由であれとは簡単にいえばブラウン運動する粒子のようなものです。




贈与交換は決して精算してはいけない


では復習のために贈与交換とはなにか、考えてみよう。まず貨幣交換とは、100円商品を百円と交換する等価交換である。その場で清算され何も残らない。だから相手が誰であるかを選ばず、一瞬で終わる。

これに対して、贈与交換の特徴は決して等価交換により清算されないことにある。百円の商品を送られ百円を返すことはない。そのような清算する行為は、もう相手との関係を清算するという相手への拒絶になる。同様な意味で、贈られてすぐに返礼してはいけない。あたかも相手が返礼を求めて送ったようだからだ。儀礼的に送られたものより多くを送る、あるいは価値の対比ができないように送る。交換する相手はすでに関係があり、そして今後も関係を続けるように行われる。重要であるのは、決して清算されない関係性を維持すること。




貨幣交換はそれを支える巨大なシステムが必要になる


逆に貨幣交換はかなり特殊な交換であるということ。現代では当たり前になったが等価交換というこの繊細なシステムを成立させるには、様々な環境整備が必要とされる。商品が等価であるとはどのようにきまるのか。貨幣の価値は誰が保証するのか。正常な商品であるとどのように保証されるのか。交換相手が略奪しないと保証されるか

貨幣交換にはそれを支える巨大なシステムが必要になる。貨幣交換を整備し、市場を管理する。資本主義の発展とともに近代国家が登場したのは偶然ではない。国家群がグローバルな市場を管理したのだ。これに比べて贈与交換は簡単である。小さくても共存する集団があればそこで行われる。




日本人は人のつながりを重視して贈与的要素を大切にする


広義の贈与交換を基本に社会はできている、ということ。これは人は一人では生きられないと同様な意味である。このような贈与交換が全面化した社会として指摘されているのが、狩猟を中心とする原始社会である。剥き出しの自然を生きる原始社会では、得られたものを贈与し、返礼することで、生き抜いていく。

さらに現代でも多くを贈与交換が行われている。厳密に貨幣交換をめざすことは、自由主義経済を徹底することだ。個人には等しく機会があたえられ、交換はその場の営利を基準に行われる。相手への好意や今後の関係を考えて助け合いの関係を求める贈与交換の要素を含めてはいけない。はたしてどれぐらい純粋な貨幣交換があるだろうか。その場で清算してしまうことは長期的な保証がなくなる。必然的に人は贈与交換的要素を入れて、将来を担保しようとする。

特に日本は自由主義経済を徹底できないと言われる。自由競争を嫌い、人のつながりを重視して贈与的要素を入れようとする。さきの西洋のサービスと日本のおもてなしにつながる。サービスを商品とする西洋に対して、貨幣と等価交換することは失礼だと、贈与交換として支払いに還元されないサービスをできるだけ贈与することを儀礼とする。




キリスト教個人主義


そもそも宗教とは自然信仰に始まる。人は古来より自然とともに生きてきたわけで、そこに霊的なものを感じる。特に農耕時代になると豊作を祈願する。いまの日本の祭りでもそうだけど、農耕生活と信仰が一体になってる。神様とはなにで、教えがなにか、とかではなくて生活の中で守り、祈り、感謝する。

でもユダヤ人はそれとは別の宗教を生み出した。ユダヤ人は砂漠の放浪民で自然を憎み、土地に根ざして豊かに生きる自然信仰民族を嫉み、自分たちだけを救う自然を超越した絶対神を生み出した。その神とのつながりは自然信仰のように生活によってではなく、言葉=掟で契約することである。

ユダヤ教の原理は、自然と反しようが理屈に反しようが、とにかく神との掟(契約、言葉)を守ることによって成立する。キリスト教はこのユダヤ教ユダヤ人以外にも参加できるように改良したものだ。

自然信仰が農耕生活に根ざすからその土地に生きることで参加する、逆に言えばよそ者は排除される、すなわち贈与交換の世界であるのに対して、キリスト教は、神を信じ、掟を守ればだれでも信者になれることにある。すなわち神と個人との契約である。神の前では誰もが平等であると。そのために流動性が高まるヘレニズム時代の都市層に広まり、その後ローマ帝国国教として世界へ広まる。

またそれとともに西洋にはギリシア哲学の理性主義の流れがある。理性主義は、この世界には正しさ(イデア)があって、人はその正しさに理性(言葉)によって近づけると考える。キリスト教はそのはじめからギリシア哲学の影響を受けていると言われるように、ユダヤ教の反自然信仰、掟主義とギリシア哲学の理性主義が合わさって発展する。

それとともに神と個人の平等の契約というキリスト教的エッセンスによって、その後、理性主義は個人の理性という個人の自立をより強化する。ようするに、西洋人には言葉(掟)というのが強い力を持つ系譜がある。




近代化とプロテスタンティズム


とはいっても、実際キリスト教がローマ国教となり、ゲルマン民族へと広がる中では、かなり土着の宗教と融合し、神と個人という原理は曖昧になる。それが再び回帰するのは、宗教改革のとき、さらには反宗教改革という、16世紀である。このときはまさに西洋が資本主義へとテイクオフを始める時期でもある。

まさに近代化において、プロテスタンティズムの厳格さは発揮される。それはウェーバーに聞くまでもない。たとえは日本でも明治に入り、近代を目指すなかで社会を変えたのはこのプロテスタンティズムの影響である。性的に特にわかりやすいが、性的に寛容だった日本人は一気に貞操観念を取り入れ、処女、貞淑、純愛などが導入される。現在昔の日本人は性的に固かったというイメージはまさに、この明治期のプロテスタンティズムの影響である。近代化において、国家として富国強兵をめざし国民を統制するために、プロテスタンティズムは有用であった。




キリスト教は貨幣社会の平等圧を補完し救済効果として発達した。


キリスト教の平等はどこからきたのか。キリストのユダヤ人以外に解放された、誰にも等しくという理念。自然宗教のような自然も神官も通さない神と個の直接的な対話。三位一体論における、キリストが神であり人であることのペルソナとしての個。そこにはヘレニズムのギリシア理性主義が隠されていたのだろう。流動性が高く個がむき出しになりやすい都市層に需要があったのだろう。

平等そのものはキリスト教によるというより、貨幣社会の中で台頭する都市層の平等思想に受け入れられた。しかしローマ帝国崩壊とともにキリスト教も土着化する。司祭は土地の有力な政治的役職になり、それを統括する教皇という構造が生まれる。それが再び原点回帰したのが宗教改革であるが、この時期がヨーロッパか経済的な復興し始めた時期とかさなるのは偶然ではないだろう。再び改革を後押ししたのは都市層であった。その後、既得権力としてのカトリックと新興都市層のプロテスタントの構図が進む。すなわち都市化するとキリスト教が求められるという流れがある。

キリスト教は貨幣社会の平等圧を補完し、救済効果として発達したのかも知れない。単純には中世キリスト教世界が、科学技術に実証主義にとって変わられたと考えられるが、実際がキリスト教が純粋に教義として徹底されたのは宗教改革以降で、資本主義、科学技術を下支えしてきた。平等がもつ抑圧を緩和してきたといえる。




ギリシア時代の豊かさと個人主義


西洋がなぜこんなに個人主義に傾いたのか、と考えると一番はキリスト教があげられるわけだけどその前にすでにギリシャ哲学で、理性主義があるんだよね。キリスト教の普及にもギリシア哲学からの影響がある。

ギリシアがなぜ栄えたかと言えば、交易だよね。土地は肥沃だか港に最適な地形で、エジプト、イスラエル地方辺りとの地中海交易で栄えた。硬貨が普及したのもギリシアが始めだった。その豊かさから、富裕層が生まれ、富裕層のための知識人が生まれた。その中で生まれた思想が個人主義的であったのは、やはり商品交換、私的財産になどの影響を受けていると考えやすい。

というのは、その時代の基本は、エジプトにしろ、ペルシアにしろ、農業を中心として土地に根差した大国だから。その中から私有財産個人主義が育つとは考えにくい。




貨幣交換が全面化し豊かな商業都市ギリシアと抽象化された数字


ギリシアの理性主義といえばプラトンだが、プラトンの師匠はピタゴラスでその思想はほぼ継承されていると言われる。ピタゴラスは簡単にはいえば数理神学といえる。すなわち自然には数学的な調和があり、その真実を見つけ出す。そのためには禁欲的な精神、健全な肉体が必要だった。プラトンはその真実をイデアとして、数学を重視はしたが、必ずしもこだわらなかった。そして真実を知る能力を理性と読んだ。それは哲学者が獲得するものとされた。

ピタゴラス以前は建築など実用的な算術だった。それが実態から離れた抽象的な数字としての数学へ展開する。ようするにイデアにしろ超越論への向かう思考ここで重要になる。この思考はどこから来たのか?

抽象化された数字といえば貨幣である。単なる財ではなく貨幣が重視される社会では、貨幣が数字として抽象化する。これはあくまでも仮説である。しかし疑問がある。貨幣が普及したのはギリシアだけだろうか。たとえば日本で貨幣が機能し出したのは室町時代と言われる。貴族社会が崩れ、地方が活性化し社会の流動性があがる。中国の宋銭が広まり貨幣が流通する。しかしまだまだ農耕による自給自足が一般である。

貨幣交換が全面化し豊かな商業都市ギリシアで、抽象的思考は生まれ、算術から数学へのアンビバレントな神学的、そして超越論的転換は行われた。やがてイデア論という超越論的な世界が生まれる。そこでは豊かな私有財産を背景に、人も個への抽象的、さらに理性という超越論転換が行われた。というのが、ポクの仮説です。

このような抽象は、その後キリスト教により補強されるのだが、そもそもキリスト教が都市部で普及していったのは、逆に個の思想を求められていた故である。
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