なぜ日本人と韓国、中国人はわかり合えるのか

pikarrr2013-11-17

儒教文化圏のわかりあい


日本の仏教は中国思想の強く影響を受けている。儒教はもともと葬式儀礼から始まった。たとえば仏教には墓石とかない。位牌や墓石は儒教から来ている。あれらは身体のメタファになっている。仏教で大切なのは輪廻する魂で死体を大切にする考えはない。肉体はただの箱だから川に流してしまう。いまは衛生上からそんなことはしないだろうが。

日本人は仏教国と言われるが、仏教の本質である超越性、すなわち死後の世界にそんなに興味があるか。たとえば日本人は死にたいしてお墓を立て、先祖供養などするが、それは死んだ人が死後の世界でいかにあるかということではなく、現世を見守って欲しい、繋がっていたいというような現世を中心に考えている。

仏教のように超越的な死後の世界を考える場合には向き合うのは個人である。先祖崇拝の現世主義は仏教よりも儒教のものである。日本人は中国人、韓国人同様に血のつながりを重視する。その意味でも日本人は儒教文化圏の中国人や韓国人とは基底が同じでわかりあえる。それがインド人となると、思考がちんぷんかんぷんな異邦人となる。




中国仏教は老荘思想の延長にある


おもしろいのは、中国での仏教の需要のされ方だ。中国に仏教は後漢に伝わったが、まったく受け入れられなかった。理由は中華思想により周辺の民族、彼らの文化を馬鹿にしていた。さらにすでに儒教など独自の哲学があったこと。それが後漢後、六朝時代にブームになる。中国も儒教的な実力主義から、世襲による貴族化して暇になり、超越性への興味が出てきたから。

しかし中国での仏教の受け入れられ方は特殊だった。中国には儒教のカウンターとして、老荘思想がある。中国は老荘思想の無、あるいは無限と、仏教の空をつなげる。すなわち老荘思想の延長として受け入れられる。具体的には禅宗と浄土念仏教だ。禅宗は空へ達するための実践的な教義であるが、中国ではそれが老荘思想の無の思想を実践する方法として受け入れられる。中国ではいまも仏教といえば禅宗しかない。この中国禅宗が日本に伝わり鎌倉仏教となり、いまの禅宗、浄土念仏教へ繋がる。




輪廻を苦と考えるインド人はすごい


中国人が仏教で驚いたもうひとつが輪廻思想だ。儒教など中国思想には輪廻思想がなかった。輪廻思想が画期的であるのは、現世で不幸でも来世があることで救われることだ。儒教では正しいことをした人は幸せだったと因果応報を語るが現実はなかなか納得いかなく、救われない。

しかし実際の仏教では輪廻は苦しみを表す。ニーチェではないが輪廻とは終わりなく生きつづけなければならない苦である。その輪から解脱して涅槃にいくことが仏教の救済だ。仏教の修行はそのためのものである。日本人もそうだが中国人も輪廻そのものが救済と勘違いした。

輪廻を苦と考えるインド人はすごい。やはり普通は輪廻は死生感のひとつの有用な解決法だろう。ギリシア時代のピタゴラスも輪廻には救済を求め、その弟子プラトンも生まれかわる前のイデア世界を夢見た。それを苦と考えて脱出路を探そうとするインド人はどんだけ暇人なんだと。熱帯の豊かさの中で他にやることなかったんだろう。




インド思想の超越性は暇のたまもの


インド思想史でいえば、仏教の登場は長い歴史の末期だといえる。いろいろ考えられたインド思想にたって仏陀が考えた。多くの文明において、祈る人/戦う人/働く平民という階級があり、呪術者は最上階級である。インドで宗教が発達したのは、通常、最上流階級に限られた救済を誰もが目指したことにある。そこら中に草の根の修行者が現れて発展した。

なぜそんなことができたのか。年中温暖な気候と豊かな自然によって基本的な衣食住が担保できたからだろう。裸に近い服装で簡単な住まいで生きられ、食べ物も豊富であった。森にもって超越的な思考や修行を行えた。

インドではないけど、水木しげるは現地の軍隊の極限状態から逃亡して現地の村に隠れていたんだっけ。原住民とのんびり暮らした生活を語ってましたね。森からバナナ、イモをとってきて、土に埋めて蒸して食べる。自然生活の中で最低限の生活するために必要な労働量は、熱帯で生きることが少ない労働量で可能なんでしょうね。ただインド以外にも熱帯はたくさんある。なぜインドなのか。古代の有数なインダス文明の地であること、中東文明との交通など様々な要因があるんだろうが。
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