なぜ日本は中国周辺として生きてきたのか 中国史としての日本(試論)

1)縄文時代から中国文化圏 〜 漢・三国
2)朝鮮半島倭国の一つの政治圏 〜 唐
3)唐におびえ「日本」を宣言する 〜 秦・唐
4)秦の法治主義と漢の徳治主義 〜 秦・漢
5)中国での仏教ブームと日本への伝来 〜 三国、晋、南北朝、唐
6)仏教が日本を動かした時代  〜 唐
7)なぜ共産党は宗教を弾圧するのか  〜後漢・唐
8)宋銭と日本の地方の時代 〜 宋
9)黄金の国ジバングが世界マクロ経済に影響を与える 〜元・明
10)儒教、仏教等がミックスされた室町時代の日本思想 〜 宋・明
11)なぜ清は簡単に西洋に負けたのか 〜 清
12)西洋化禁欲主義としての儒教の活用 



1)縄文時代から中国文化圏 〜 漢・三国


縄文時代から日本で出土するさまざまなものは中国の出土品と時間差でリンクしているのが知られている。すなわち縄文時代の古くから中国の最新の文化を吸収する関係にあった。島国日本という自立もなく朝鮮半島と活発に交流する。すなわち中国の文化圏の周辺だったということだ。

国史における日本についての記述のはじめは、後漢書の奴国や魏志倭人伝卑弥呼などに見られるのが有名だ。これらは中国を頼ってのものである。権威を授かるため、さらには実質的な協力を求める。すなわちすでに中国に帝国があることが知られてのことだろう。このとき中国には長い歴史があった。漢、魏呉蜀の三国までに、殷、周、そして春秋戦国時代、その後の始皇帝による初の中国帝国秦、そして漢、三国時代と続く。




2)朝鮮半島倭国の一つの政治圏 〜 唐


魏志倭人伝のあと、日本は大和を中心に発展する。このときも朝鮮半島の国々と合わせた一つの政治圏を形成していた。朝鮮半島の先に実質的な支配地をもち、新羅百済高句麗という朝鮮半島各国間の政治的な調整をするなど。

このような朝鮮半島周辺の活発な政治活動が可能になったのは、漢滅亡後、三国、晋、南北朝と中国の政治が不安定だったことによる。朝鮮半島で中国の脅威を感じることがない時代が続いた。しかし唐という安定した帝国が生まれたとたんに、朝鮮半島進出が始まり、次々朝鮮の国々が征服されていく。日本も支援するが大人と子供のように全く歯が立たず白村江の戦いで破れ、朝鮮半島から逃げ帰る。それだけではなく唐が日本にまで攻めてくることに怯えることになる。




3)唐におびえ「日本」を宣言する 〜 秦・唐


結局、唐はせめては来ないわけだか、倭国はこれにより徹底的に唐を模範に内政を強化する。このときに島国を自覚し「日本」を宣言する。唐式の整備された都を作り、天皇を頂点とした階級制をひき、日本の土地を天皇のものとして測量区分けし平民に分け与え税を徴収し徴兵制をしく。各地に役人を送り込み管理させる。すなわち中央集権システムによる富国強兵を目指す。

このような中央集権システムは中国では、始皇帝の秦の時代に整備された。封建制のように各地域を統治する主権者を置くのではなく、中央から派遣された役人が地方を管理する郡県制とし、 土地を区画し、税を集め、徴兵する。このシステムは中国では秦以降、清まで帝国システムとして継続されていく。日本も取り入れたわけだ。




4)秦の法治主義と漢の徳治主義 〜 秦・漢


唐との衝突の前から日本に仏教が伝わり、唐化に合わせて都には奈良の大仏を始め、多くのお寺が作られるなどさらに活発になる。しかし中国では仏教は苦難な道を歩んでいる。中国には仏教が伝わったのは後漢だといわれるが、その後300年まったく広まらなかった。

中国には春秋戦国時代に多くの思想が生まれた。一番有名なのが孔子儒教。そして徳を儒教に対抗すべく、秩序を否定し自然を重視する老荘思想、法を重視する法家など。このような思想の時代は秦の始皇帝の書物を焼くという焚書によって終わる。しかし法家による法治主義により帝国を支配しようとしたが、厳しすぎる内容に各所で反乱が起きて短命に終わった。

続く漢では秦の反省から法を緩め、代わりに儒教を国境とする徳治主義を目指す。このために経書として儒教を政治程度に使いやすく体系化する。そんな時代に仏教が伝わるが、儒教という政治的、実働的な思想に対して、仏教の超越性は求められなかった。




5)中国での仏教ブームと日本への伝来 〜 三国、晋、南北朝、唐


しかし漢後、三国、晋、南北朝など政治が不安定になると、儒教のカウンターとして老荘思想が受け入れられるようになる。老荘思想は知、そしてそこから生まれる欲望を否定し自然体をめざす。無の思想である。さらに仏教もまた老荘思想の無から、より実践的な空の技術として仏教が受け入れられ始める。

そんな中国での流行から最新の思想として、日本にも仏教が伝わりはじめて、さらに唐の文化輸入の中で大々的に広まっていく。しかし逆にいえば純粋に仏教として入ってきたというより、中国の最新文化の一部として入ってきた。特にこの段階では仏教の空の思想など超越性への関心より、祈祷による後利益や、道徳教育に関心がおかれた。

中国ではその後、幾度かの排仏政策が取られるが、その中で生き残っていくのが、実践的な禅宗と、念仏をとたえるだけと民衆にもわかりやすい浄土教である。これが平安時代末期に日本に伝わり、鎌倉仏教という民衆の実践的な仏教の流れを生んでいく。




6)仏教が日本を動かした時代  〜 唐


中国に被れて最新文化を取り入れたら、たまたまそのとき流行っていた仏教がついてきた。日本ではどこまでが儒教で、法で、仏教か明確でなく、中国文化として入ってきた。たとえば聖徳太子の17条憲法もいろんな思想がごちゃごちゃである。しかしただ受け入れるだけではなくを重視するという日本化はきちんと行われている。

だから日本での仏教の需要のされかたは、日本特有であり、また重要な役割を担った。まだ呪術が重視された時代だった日本は仏教を最新かつ強力な呪術として受け入れた。日本の呪術の重視は、頻繁に遷都を繰り返したことでもわかる。とにかく疫病、不作など悪いことが起こると祈祷が行われ遷都した。国事は仏教の祈祷で決められ、多くの寺院が建立される。すなわち仏教が国を動かした。空海も名をあげたのは祈祷の力が認められたからだ。インドはもちろん中国とも違う仏教の重視のされ方だ。




7)なぜ共産党は宗教を弾圧するのか  〜後漢・唐


中国の禅宗、念仏教が日本で流行るのは鎌倉時代まで待たなければならない。鎌倉仏教の特徴は、それまで国事を担う上流層に受容されて仏教が、民衆に解放されたことだ。これは中国での仏教の需要のされ方の一つである。

中国は古くから思想の二重性があると言われている。上流層は政治のための儒教下流層は老荘思想に発展する自然信仰という二重の流れがある。後漢末頃に道教が生まれるが、道教とは老荘思想に影響された自然信仰系の宗教で、民衆に支持される。これが民衆の反乱となり漢は滅んでいく。

そして仏教が広まる一つの流れはこの道教ブームの延長にある。すなわち民衆を結束する力になる。まさに中国で念仏教が流行ったのは民衆にわかりやすいから。すなわち体制は恐れて弾圧する。黄巾の乱など、定期的に起こる民衆反乱はだいたい道教・仏教系だ。現代も法輪功とか弾圧されているがあれも道教・仏教系だ。チベット仏教、最近ではウィグル自治区イスラム教系が問題になっているが、このような中国の歴史をみて危ないから弾圧するんだろう。




8)宋銭と日本の地方の時代 〜 宋


その後、日本に大きな影響を与えたのは経済である。唐が衰退し、その後宋が生まれるが、この時代は唐の厳しい統制に比べて自由な風潮があり、社会の流動性が高まり、経済が活性化する。中国国内だけではなく、インドまでも交易圏が広がっていく。そして日本のその交易圏の一部となる。

平清盛は宋との交易を積極的に進め、その経済力が権力を獲得する大きな要因の一つになった。その後、日本に大量の宋銭流入し、国内の交易も活発になり、それは地方を豊かにして、地方の台頭、そして武士の台頭に繋がっていく。それまでの中央集権体制から武士中心の封建制へ日本が劇的に変化していく本質的な要因となる。




9)黄金の国ジバングが世界マクロ経済に影響を与える 〜元・明


その後、宋からモンゴル人国家元にかわり、世界帝国を目ざす元の日本侵攻、元寇が起こるが、このときも普通に日本と中国の交易は続けられていた。モンゴル人が切り開いた世界帝国のあととしての世界交易圏は西はヨーロッパから東は世界の果てジバングまでを結び。

続く明には西洋人が日本を訪れるようになる。特にアメリカ大陸が発見される前までは、まさに黄金の国ジバング日本は世界的な銅、銀、金の産地として、世界交易の一翼をになう。日本からの銀の輸入によって、西洋のマクロ経済が大きく変動する。日本は少しずつ中国文化圏から西洋文化へとシフトしていくことになる。これら交易によってえられた富、あるいは西洋から入った技術が室町、戦国時代の日本の武士領主たちの力関係に大きく影響するようになる。




10)儒教、仏教等がミックスされた室町時代の日本思想 〜 宋・明


戦国時代もあけ、江戸時代にはいり思想の面で中国の影響は続く。家康は武士の管理に儒教を取り入れる。儒教の精神とは簡単には祖先を大切にすることにはじまる。そして家庭での父を敬う父権主義が、社会へと展開される。目上の者を大切に、組織の上下関係を重視する。武士においても組織を重視し、上司に忠実で、さらに徳によって部下、および庶民を大切にし、礼儀正しく、そして営利を嫌う。

しかし武士が単に儒教的であったわけではない。武士道という思想があるとすれば、儒教とともに日本人としての精神性がある。武士の理想像とされたのが源義経であり楠木正成である。忠臣であり、知略にたけ、民衆の味方であり、義理堅く、そしてそれ故に悲劇的である。ここにあるのは、明らかに中国から伝わった儒教、仏教等の思想が元にはなっているが「日本風」に生まれ変わっている。このような室町時代以降の地方の時代に作られた思想が、現代人の日本人と連続性を持つ文化であると言われる。




11)なぜ清は簡単に西洋に負けたのか 〜 清


清において、中国は西洋近代化に翻弄される。清は中国史でも最大の領土を誇る大帝国であった。そこに西洋人が交易を求めてくる。なにを恐れる必要があるだろうか。アヘン事変においても西洋人が数十万人で攻めてきたわけではない。数隻の戦艦と数百人の軍人で港を攻めただけだ。彼らは皇帝に取って代わり、中国を占領しようとしたわけではない。より優位な条件での交易を求めただけだ。そしてそれが経済的な征服につながっていく。特に儒教において営利活動は卑しい行為である。いままでのマンパワーと陣取りの戦争と異なる次元の競争を清の女帝西太后はまったく理解できなかっただろう。

それに対して日本はあの中国が西洋によって、いとも簡単に植民地化されていく姿を間近で見ている。その恐怖は恐るべきものだろう。いままで中国をまねて生きてきた日本人はいま誰のまねをしないとやばいかすぐに理解しただろう。




12)西洋化禁欲主義としての儒教の活用 


明治維新を迎え、西洋化が進む。それはまさに革命的だ。環境、制度、表現すべてが西洋化する。たとえば「〜ですます」調など国語は明治に作られたがその手本にされたのは西洋近代の写実文学の翻訳である。近代西洋の表現がすんなりと語れるような日本語として作られた。

このような近代西洋化の国家一丸となり富国強兵へ邁進する原動力はプロテスタンティズムの禁欲主義と深い関係をもった。日本でも禁欲主義が教育されたが、キリスト教の代わりに使われたのが教育勅語に象徴的な儒教だった。江戸時代に武士に導入した儒教教育を日本国民全体へ導入される。これによって現代にもつづく、まじめで律儀なサムライ・ジャパン像が生まれる。特に現代ではサラリーマン像に象徴的だ。
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