なぜ朱子学はいまも日本人により世界に広まっているのか プラトンと朱子学

pikarrr2015-06-19

プラトン心身二元論


朱子学理気二元論は、ある意味プラトン心身二元論と似ている。プラトンは、精神(心)=魂は、世界の正しい姿=イデアをすでに知っているという。なぜなら輪廻により生まれる前の魂はイデア世界にいたからだ。しかしこの世に生まれるときに忘却し、さらに身体を持つことで欲にまみれてしまう。

だからイデアを「想起」することが大切だ。そのためにイデアを記述しているとされる哲学や数学を学び、体を鍛えて欲を断つ。だから理想の政治とは、イデアをもっとも想起した存在、哲学家を君主として、国民がスパルタ的な規律により秩序だった国家を作ることを理想とする。

プラトン心身二元論は、現代に継承されている。特に漠然とこの世界は数学的なシンプルな法則でできていると科学者は考えている。またそれを人間界まで延長しようとした啓蒙主義の挫折を乗り越えて、いまも漠然と考えられている。その信念が人類の発展を支えている。




朱子学理気二元論


朱子学理気二元論では、「理」はイデアみたいなもので正しい法則である。自然界から人間界まで、理は一つであり、誰の心にもある。そしてこの世界は理に「気」が肉付けさてできている。しかし気が肉付けされることで、欲望が生まれるなど、理から離れてしまう。

だから人が理に到達するためには、経書(かつての聖人について記した儒教本)を学び、また経験を積む必要がある。そして誰の心にも理はあるのだから、誰でも「聖人」になれる可能性はある。そして正しい政治としては、聖人に導かれた政治であるとともに、誰もが理に向けて励むことで、自ずと天下も正しくなると考える。

朱子学以前の孔子が体系化した儒教に比べて、かなりリベラルになっている。孔子儒教は人間界とくに、身分主義を元にした君子の道徳、さらには国家統治法についての事例集のようなものである。それに対して、朱子学では世界を統一する理という合理的な構造論が語られ、さらに誰の心にも理はあり、聖人になれるという。この構造論、リベラルさは個を重視したプラトンに近い。




プラトンの客観主義と朱子学の行為主義


ではプラトン朱子学の違いはなにか。プラトンは人間界より自然界の観察を重視した。自然界を美しく論理的に描写すること。特に数学はイデアを記述する神の言葉である数理神学である。ピタゴラスの定理は単なる数学でなく、神の言葉であり、秘術化された。そして人間界もその延長にあると考えられた。これは客観主義である。対象を客観的観察して、論理的に記述する。

これに対して、朱子学は道徳、政治など、儒教伝統の人間界を重視する。また概念的な言葉の組み合わせであり、論理的とは言えない。学ぶのは経書に記述された聖人の経験則である。経書は客観主義的に世界が分析、記述されているわけではない。だからここでいう学ぶとは、プラトンのように分析する、記述する、理解するということではない。それはみずから体験するということだ。

みずからも対象世界の一部であり、経書を、そしてみずからの生活を経験し、身に付けていく。だから目指すところは、プラトンの客観主義のように明らかにすることではなく、体に叩き込むこと。そして考えずとも正しい行動ができること。すなわち行為主義といえる。

客観主義と行為主義は、伝統的な西洋的と東洋的な対比と言える。それは一長一短ある。自然界の記述には客観主義が優れ、人間界の運用には行為主義が優れている面がある。しかしまさに現代は客観主義全盛の時代である。客観主義により、世界を分析し記述し理解する科学によって、人類を豊さを手に入れた。




朱子学はいまも日本人により世界に広まっている


では、行為主義は絶命したのだろうか。人を動かす方法として、お金、法、規律が上げられる。たとえば会社の従業員を考えた場合、賃金によって働く、また会社のルールには従う。客観主義においては、労働は契約に基づく。対価に対して、やるべきこと、守るべきことの記述が約束される。そしてよい契約条件があれば移る。自由主義社会では当たり前のことではある。

しかしそれだけでよい仕事をさせられるだろうか。労働の生産性を向上させるにはルールに書かれていない規律を身に付けることが重要になる。特に日本企業は、カイゼン、品質管理手法、トヨタ生産方式など、従業員の規律訓練には優れていると言われている。ここには日本の儒教的精神がある。規律とは、客観主義のルールではない。体験し体で覚えて自然とそのように動くようになる。

まさに労働者の「理」である。このような職による理の多様化は、朱子学が伝わった江戸時代後に起こった。朱子学のリベラルから身分主義への回帰と言われながらも、武士の理、農民の理、商人の理が、儒家たちによって、模索された。日本企業の規律文化は、その伝統を引き継いでいる。そしてまさに日本企業の世界進出ともに、世界中に広まっている。

中国において儒教は崩壊した。共産主義という超リベラルが洗い去った。韓国ではもっとも儒教が原型の身分主義として根強く生きている。その意味では、朱子学のリベラルは、縦(身分)でありつつ、横(プロフェッショナル)でもある職分という日本の思想において継承され、戦争を経て、日本型の企業文化として世界には広がっている。すなわち朱子学はいまも日本人により世界に広まっている。
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