現実とはなにか(2008) 3/3

 1 アブダクション(仮定)とレトリックと真理
 2 情報化社会は脱構築する、とはどういうことか
 3 快感を訓練するとはどういうことか
 4 「成功した性関係」とはどういうことか 
 5 「女は存在しない」とはどういうことか 
 6 貨幣の魔法とはどういうことか
 7 なぜ人工知能は笑わないのか
 8 なぜレトリックは人へ訴えかけるのか  
 9 なぜ金玉は「フレーム問題」に陥らないのか
 10 なぜ科学技術は成功したのか

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8 なぜレトリックは人へ訴えかけるのか

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論理とレトリック

詩はコンスタティブな意味では表しきれない「意味」を伝える。それは意味を伝えると言う以上に心に訴えかけてくる。なぜ詩にはこのような力があるのだろうか。
他者に意味を伝える方法として、大きく二つが考えられる。一つはより論理的に詳しく説明して、納得させる。もう一つはたとえ話、物語や俳句、詩などのようにレトリックカル(修辞的)に意味を迂回しつつ伝える。
ギリシア時代以来、この二つは言語研究の中の重要な研究対象であった。論理学が言明の内容よりも前提と結論がどのような形式でつながっているかという「形式」をめざすのに対して、隠喩(メタファー)やアイロニーなどのレトリック(修辞学)は人を説得するための弁論術としてあった。しかし近代に入ると、研究としてのレトリックは廃れていく。現代でも言語研究において曖昧で特殊なものと位置づけられている。
論理が主観を消去し、客観を目指すのに対して、レトリックは主観的な共感を目指す。現代において、レトリックは研究分野と言うよりも、人へ訴えかける物語、詩など芸術的な表現方法としてあるといえる。

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レトリックという運動

このような「レトリカルな効果」は、いままで示した「断絶」によるものと考えられる。コンスタティブな言葉では<言語記号>−<意味(概念)>が明確に結びついている。論理学ではこの結びつきは一義的に決定されるとされ、形式主義へ向かう。
人工知能は、「最後のキスはタバコのflavorがした ニガくてせつない香り」という歌詞からコンスタティブな意味以上の意味を受け取ることはできないだろう。仮にそこに人と同じような過剰な意味を読み込ませようとさせるならば、「フレーム問題」からフリーズしてしまうだろう。
「レトリカルな効果」とは、<言語記号>−<意味(概念)>を切り裂き、小さな穴を開けてしまう。人工知能がフリーズするその手前で、人は「なにか」を受け取らざるをえない。

メタファーは単に言葉の要素ではなく、われわれが考えるときや行為するときにも、避けえないものです。それは思考や行為の媒体であると言っただけでは足りません。メタファーとは、概念の生じる場であって、いわばそこで概念を育む母胎のようなものだ、と理解していただきたいと思います。
ようやく問題を解いた
時間とともに、いっそう問題がもつれた
入り組んだ問題
なんども問題に打ち当たった
にわかに問題が浮上してきた<問題>がわれわれにとって氷や固く結ばれた紐などのように、実質のつまったある種の実体のようにイメージされているのが確認できます。・・・<問題は固形物である>というメタファーを使って、はじめてわれわれは問題に関して語れるようになったばかりか、実は、そもそも問題なるものを概念として思考しうるようになったのです。メタファーの場で概念を形成したおかげで、問題に打ち当ったり、問題を解いたりすることが、われわれに経験としてはじめて可能になったわけです。メタファーが単なる言語の問題ではなく、思考や行為の問題であるというのは、こうした概念の成立を意味します。P46-48
「新修辞学」 菅野盾樹 (ISBN:4906388965

論理では<言語記号>−<意味(概念)>が一義化されている。これは主観の排除であり、人は言葉に対して客観的な立場におかれる。それに対して「レトリックな効果」では、<言語記号>−<意味(概念)>に裂け目が開けられて、<意味(概念)>は宙づりにされる。

たとえばいまでは「巨乳」が性的なメタファーであるのはあたりまえになっている。これはひとつの文化でしかない。人間の性的な倒錯は様々なものに性的な意味を読み込むことができ、「女子高生」でも「幼児」でも性的なメタファーになりえる。対象を「性的なものとして見る」という「概念の成立」には(文化的な)訓練が必要である。ここでは人はすでに運動の一部として巻き込まれており、客観的な立場ではおられない。それが人に訴えかけるという「レトリックな効果」である。

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レトリックの共犯と脅迫

先に示したように、「お笑い」というユーモア(レトリック)は「ボケ」という<言語記号>に対して、「おもしろい」という<意味(概念)>へ向かう間に、いかに解釈するか、これはおもしろいのか?という断絶がある。それは人工知能が決して越えられない断絶である。だから「ボケ」と笑いの間に、一瞬の緊張が走る。「ツッコミ」とはこのような緊張か解放するために、「笑うところである」ことをしめすサインである。「はい、みなさんわらってください」ということだ。
なじみのお笑いタレントや、パターン化された笑いでは、安心して笑うことができるが、初めて見る、経験した事がないような「ボケ」では人々がうまく笑えないことはよく起こる。笑いはおもしろいという私的な体験ではない。もしひとりだけ笑うと、それは場から浮いてしまう。笑いは他者と同時に一気に笑わなければならない。乗り遅れてはいけないが、先んじてはいけない。それが「せき立て」である。
自ら(意識)さえもだますように、無意識はせき立てられて身体をふるわせて、回りの人々にわかるように大声で笑う。このような「せき立て」の運動は社会的な共犯関係でありつつ、ひとつの脅迫でもある。
みなが笑っている場で、ひとり笑っていない者は回りに不安を与えて、不気味である。それは「あえて」笑っていないのではなく、ただうまく笑えない場合でもだ。そしてこのように「笑えない者」の進む道は二つしかない。場(コミュニティ)から排除されるか、「王」になるかである。「王」になるためには、みなより一瞬先に大声で笑いきってしまわなければならない。先走ってしまうと共犯性は崩れ、逆に排除されるからだ。それはひとつの賭であり、勇気である。「王」の笑い声が大きいのはこのためだ。
ただ少しの「笑い」の速度差が構造上の大きな異なる位置に立たされる。「王」になるか、「奴」となるかは、わずかな差でしかない。

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「せき立て」

原理的には、コミュニケーションはこのような「せき立て」の連続である。このような「せき立て」の原理を、ラカンは「囚人ゲーム」という見事な例でしめした(エクリ1 「論理的時間と予期される確実性の断言」(ISBN:4335650043))。論理的には決定できない問いがあり、それは他者との一瞬の暗黙の合意によってのみ解を得られる。同様な例を斉藤環が示している。

三人の囚人に五枚の円盤が与えられています。三枚は白で二枚は黒。囚人たちの背中に円盤が貼り付けられています。他の囚人の背中を見ることはできるが、自分の背中をみることはできません。もちろん会話も禁止されています。ゲームの規則は、自分の背中の円盤の色を論理的に推論して言い当てることができた囚人だけが解放されるというものです。規則の説明がなされた後に、三人の囚人の背中には、三つとも白い円盤が貼られます。
ゲームはあっけない結末を迎えます。三人の囚人はいっせいに走り出し、三人とも正しい解答を述べて解放されるのです。彼らはどのようにして、正しい答えを得たのでしょうか。その思考過程は以下のようになります。
 囚人Aは、他の二人の囚人B、Cの背中が白いのを見て考える。もし自分(A)の背中が黒なら、囚人Bの目には黒と白の円盤がみえているだろう。ならば囚人Bはこう考えるはずだ。
「もしも自分の背中も黒なら、囚人Cは駆け出しているはずだ」、「なぜならCの目には黒の円盤が二つ目に入っているのだから」、「しかしCは駆け出そうとはしない」、「ということは、私(B)の円盤は白なのだ。駆け出そう」と。
しかし誰も駆け出すものはいない。ということは、私の最初の仮定は誤っていたのだ。すなわち、私(A)の背中の円盤は白なのだ。
この判断には、明らかに時間的な要因が含まれています。囚人Aの論理構成は「自分以外の二人の囚人が駆け出さないところをみた」という瞬間と、そこから下される事後的な判断なしには成立しないためです。また、この判断を下すには、誰よりも早く駆け出す必要があります。誰かが駆け出す瞬間をみてしまうと、論理的な判断が不可能になってしまうからです。これを精神分析家は「せき立て」と言います。
「ひきこもり文化論」  斉藤環 (ISBN:4314009543
参照 http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20070604

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近代化というレトリック

論理は主体を排除する客観主義を目指すが、「論理」に感動することもあるだろう。そもそも数学、物理学、論理学などの形式化は世界が簡潔な法則でなりたっているという「信念」によって成り立っている。だから世界がE=mc²のような「美しい」方程式として見出されたとき、感動を覚えずにはおれないだろう。
物理学が、「コペルニクス革命」に始まるのは象徴的である。コペルニクスが示したのは、「世界は美しい法則でできている」というレトリックである。そこに近代化という「せき立て」が生まれた。

われわれは時間を何か資材のように捉えています。言い換えると、われわれは無意識のうちに、時間をある目的にために消費されるもの、量を測ることができるもの、価格がつけられるもの等、と考えているわけです。その証拠は、次のようなありきたりの表現に見ることができるでしょう。
話をする時間がまた沢山ある。
試験時間はもう少ししか残っていない。
時間を節約する必要がある。
会う時間を取っておいてくれ。
時間を浪費してはいけない。
実は、こうしたメタファーの体系が他の体系をさしおいて支配的になったのは、産業社会が成立して以降のことなのです。これはおもに近代の西欧に始まる比喩にすぎません。西欧も近代以前には時間に関してこういた概念をしていませんでしたし、いまでは少なくなりましたが、産業化されていない社会では、時間もこれとは違ったメタファーで時間を経験する選択肢が残されているのです。
フランクリンの有名な格言「時は金である」は、近代社会では時計が計量化されるものになり、同時に労働の量の尺度になったことを物語っています。これのメタファーが「資本主義の精神」の重要な一部を形成している点は、社会学ウェーバーが明らかにしました。P49-50
「新修辞学」 菅野盾樹 (ISBN:4906388965

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9 なぜ金玉は「フレーム問題」に陥らないのか

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金玉は行為し続ける

金玉は不思議な形をしている。体から垂れ下がった袋。温度が低いときには縮こまり放熱を妨げ、温度が高いときは広がり、放熱を促進することで、精子を守る温調機の働きをしている。男性ならば誰もが知っているだろうが、金玉が動くのはある温度においてではない。陸に上げられたタコのように、たえずうごめき、精子を攪拌し、温度を調整している。これは人が生まれ、死ぬまで繰り返される。
ここに行為の本質がある。行為は機械のように、刺激があり→体が感受し→いかに反応するか検討し→脳が反応を命令し→実際に体を動かす、ということではない。そうではなくて、温度、重力、大気圧、さまざまな圧力がたえず体へ作用し続け、さらには他の神経システムを経由してくる内的な刺激もあり、金玉の動きのように、人は絶えず環境との調整を行い、行為している。
金玉の動きは生理反応であって、意図的な行為とは異なると考えるだろう。それはある意味で正しいが、たとえば腕を上げる、歩くなどの能動的な行為において、どこまで意識的だろうか、ほとんどの体の動きは何がどのように行われているか、自らはわからない。勝手に体が動いているのである。
さらには、そもそも行為には切れ目はない。たとえば「歩く」という行為は、なにか。歩くということには足をうごかし進むことだけではなく、手をふる、体の重心をとる、そして目玉を動かし、金玉をうごかすという身体全体としてあり、本人も自ら「歩こう」としているわけではなく、あるいはなにを行っているかは、わからない。それを「歩く」と呼ぶのは、<観察者>が、継続された身体の行為を切り取り、名付け、描写するだけのことである。

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オートポイエーシスシステムには「入力も出力もない」

マトゥラーナが示したのは、神経システムが刺激に対して反応するのではなく、「閉ざされた自律性をもった回路をもち、<世界>と独立に機能している」オートポイエーシスシステムである。オートポイエーシスシステムには「入力も出力もない」といわれるのは、たとえば人が見るということは、光源情報によって外的環境を脳の内部的で映像化しているようなことではなく、神経システムは「見ようとする」ときだけではなく、自律性に「外部環境」なるものを作り出し続けている、ということだ。

ある有機体の、環境における状態変化を観察しながら僕らが行動(ふるまい)と呼ぶものは、ぼくらがさししめしている環境における有機体のいろいろな動きについてぼくらがおこなう描写に、対応する[<描写>が<行動>を生み出す]。行動とは、生物がそれ自身の内部でおこなう何かではなく、ぼくら観察者が指摘する何か、のことなのだ。・・・したがってさまざまな動きの、ある特定の配置としての行動が、適切なものだと見えるなら、その行動はそれが観察・描写されている環境に、依存しているわけだ。ある行動が成功なのか失敗なのかは、つねに、観察者が特定する<期待>によってはかられる。P159
神経システムが世界の表象によって作動していると仮定することの、罠が存在する。そしてそれが罠であるというのは、神経システムがそのときどきにおいていかに<作動閉域>[閉ざされた自律性をもった回路]をもった画定されたシステムとして[<世界>と独立に]機能しているかを理解することの可能性にたいして、人を盲目にしてしまうからだ。P153-154
神経システムは環境から「情報をピックアップする」のでは、ない。その反対に、神経システムは、環境のいかなるパターンが攪乱となりいかなる変化が有機体内に攪乱をひきおこすのかを特定することによって、ひとつの世界を生起させているのだ。脳のことを「情報処理装置」だと呼ぶ通俗的メタファーは、単にあいまいなだけではなく、あきらかにまちがっている。P198
「知恵の樹」 H・マトゥラーナ F・バレーラ (ISBN:4480083898

行為は生まれてから死ぬまで終わりない連続で、自律性としてある。そして「歩く」などの行動(ふるまい)は、いわば<観察者>による事後的な名付けでしかない。そして意図とは「自分」という<観察者>による名付けでしかない。

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言語ゲーム」という疑似問題

言語ゲーム」はいかに可能か。たとえばウィトゲンシュタインの建築家の例で、助手に「石材!」と指示し、助手が適切に物を運んでくる。その語の意味解釈には無限の可能性があるにも関わらず。
オートポイエーティックな行為論から考えると、このような「言語ゲーム」はあらかじめ解が<期待>された目的論的な疑似問題である。「石材!」と言われた助手は、当然のように体を動かしてただ「石材」を運ぶだけである。それは現場で働く一連の流れ(行為)の一部としてある。それが建築の現場において身につけた行為である。仮にそれは違うと言われれば、変更するだけだ。現場(環境)と行為の間のオートポエティックなカップリングとしてある。
連続した行為の中から、「言語ゲーム」としての切り取り方法は原理的に無限にある。たとえば、「石材」という声が聞こえたのは幻聴でないとなぜいえるのか。なぜその石を選んだのか。なぜ石を肩で担いだのか。なぜ右足から出したのか。なぜその場所へ運ぶのか・・・このような無限の切り取りは「ゼノンのパラドクス」である。すなわち「言語ゲーム」という想定は、連続性の中からの<観察者>が恣意的に切り取る疑似問題でしかない。

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認知系と行為系の「切れ目」

しかしまたこれを疑似問題と呼べないところに問題の本質がある。動物においてはただ行為するだけで良いだろうが、人の場合には行為するとともに、現に世界を認知する。自らの行為を客観的に認知する<観察者>、すなわち自意識が存在する。だから人においては、認知系と行為系は密接なつながり世界を生きている。
言語ゲーム」や、人工知能の問題は、単なる疑似問題ではなく、人間にとっては、現前化する。「石材!」と言われた助手が、ふと「石材」の意味することはなんだろうか、と自ら「言語ゲーム」を想定し、認知系ははまりこむと、自然に行為することができなくなり、人工知能の「フレーム問題」のようにフリーズする可能性はある。
たとえば慣れていない場面、人々に注目されている場面、好きな人の前など、緊張する場面で行為がぎこちなくなる。いつも自然に行えていたことがどのように行為すればよいのかと、考え出して動けなくなる。このような場面は誰もが経験しているのではないだろう。だから人工知能の疑似問題のように人工知能のようにフリーズすることは起こるだろう。
このような自意識過剰になって、日常的な行為に支障をきたすと神経症と呼ばれる。神経症とは何らかの理由で行為系に対して、認知系が強く現れすぎて、自然な行為をすることができなることを言える。言語を巡って治療する精神分析が主に神経症の治療を目的にすることは、認知系が言語行為と密接につながっているためだろう。
認知系とは、<観察者>の位置にたち、連続した行為に言語によって切れ目を入れて、名付ける、ということだ。このような言語の世界からの脱出、すなわち行為系への復帰にはなんらかの「飛躍」が必要になる。
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」に代表されるように、「日常会話」から「数学」、「痛み」、あるいは「認知」まで、<言語記号−概念(意味)>の結びつきに「切れ目」を入れたが、これらは、<観察者>による認知系と<行為者>による行為系の「切れ目」といえるだろう。

知識の形成と身体行為の形成はまったく別の回路であり、しかも折り合うことができそうにない。・・・にもかかわらずそれらの系は密接に連動する。この事態を主題化する新たなカテゴリーが、オートポイエーシスではカップリングと呼ばれる。その典型的な事例が、認知系と運動系のカップリングである。
科学的知識の領域では、全般に認知系が支配的であり、認知系の枠組みを全面的に組み替えることが、パラダイム転換だと呼ばれる。ところがパラダイム転換を行っても、物の見方は変わるが、世界も自己もなにひとつ変わりはしない。運動系(行為系)の巻き込みがなければ、物の見方を変えても、いつまでも元に戻すことができる。「世界をさまざまに解釈するのではなく、世界を変えることが必要である(マルクス)。」
オートポイエーシスの拡張」 河本英夫 (ISBN:4791758072

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10 なぜ科学技術は成功したのか

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行為系の連続性と可塑性

「行為」による世界との関わりの特徴の一つは連続性にある。たとえば足は「立つ」、「歩く」、「走る」、「蹴る」などのときに作動するわけではなく、絶えず行為している。座っているときは身体のバランスをとっているだろうし、貧乏揺すりのようにストレスの解消を行っている。このような行為の連続性はそのものを語ることができない。語ることは連続性からの名付けによる切り取りでしかないからだ。ただ行為は連続している。
「行為系」のもう一つの特徴は可塑性が上げられる。行為には同じ行為は存在しない。行為は連続性の環境と相互作用しあい、たえず変化している。足という器官は進化という時間の中で、環境との関係によって発達してきただけではなく、現在いまも環境との密接な関係を保ちつつ、行為は変化している。このような行為の可塑性の例として河本は子供が歩行を覚える場面を例に上げている。

オートポイエーシスの機構に相応しい典型的事例は、身体行為の形成に見られる。・・・たとえば始めて歩き始める幼児は、一歩歩くごとに歩行する自己を形成する。一歩歩くことが、そのつど歩行する自己の形成になっている。そのため二度と同じ一歩を踏み出すことができない。歩行の反復は、反復する行為のあり方をそのつど変貌させていく。・・・そのため身体行為の形成プログラムがあるとして、このプログラムは行為の実行をつうじて形成され、行為は次の行為と接続可能なよう実行されるように組み立てられるはずである。P45
オートポイエーシスの拡張」 河本英夫 (ISBN:4791758072

現在は、相対主義の時代である。確かなものはない。しかしそれでも人は現実に適応して生きている。これを支えるのがこのような行為系である。行為は「真実」をしるわけではないが、その連続性と可塑性によって環境と密接な関係を保ち続けている。

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言語認知系による世界制作

では言語はなにを行うのか。言語認知系が行うのは、<観察者>の位置に立ち、行為系によって現れる連続性に区切り(裂け目)を与えることである。たとえば「歩く」という言葉によって、行為の連続性に区切りをいれて、切り取る。この言葉の原初における「歩く」とは、「この行為を歩くと呼ぶ」という宣言であり、そして「歩け」という命令である。
たとえばりんごは「りんご」という言葉の前にはない。その前には切れ目のない連続的な環境しかなく、「これがりんごだ!」という命令によって、りんごははじめて「りんご」になる。しかし本来切り取った実在のりんごは、現前の一つのりんごである。「これがりんごだ」と命令することはりんご一般を意味する。すなわち言語は実在の名指しではなく、「りんご」そのものを制作している。
「歩く」という行動(ふるまい)は、「歩く」という言語以前には存在しない。行為によって現れた連続した世界が先行し、それに言語が切れ目を入れるのではなく、言語によって「世界」そのものが現れる。それが、「言語化されないものは存在しない(ヴィトゲンシュタイン)」言語認知系の世界である。
このように言語は宣言であり、命令であり、コミュニケーションであり、他者と世界を共有するがめざされる。共有性の本質は、動物の群にも見られるように、行為を同調されることによって、群れで獲物をしとめる、敵から身を守るというような、強い力を生むことだろう。そして認知系は、言葉によってより的確で詳細な協調性がめざされる。
このような言語の宣言、世界の形成場面ではシニフィアン(言語記号)が選考する。<言語記号>と<概念(意味)>と間には<裂け目(解釈項)>が存在する。すなわち修辞(レトリック)、特に隠喩(メタファー)である。

われわれは時間を何か資材のように捉えています。言い換えると、われわれは無意識のうちに、時間をある目的にために消費されるもの、量を測ることができるもの、価格がつけられるもの等、と考えているわけです。その証拠は、次のようなありきたりの表現に見ることができるでしょう。
話をする時間がまた沢山ある。
試験時間はもう少ししか残っていない。
時間を節約する必要がある。
会う時間を取っておいてくれ。
時間を浪費してはいけない。
実は、こうしたメタファーの体系が他の体系をさしおいて支配的になったのは、産業社会が成立して以降のことなのです。これはおもに近代の西欧に始まる比喩にすぎません。西欧も近代以前には時間に関してこういた概念をしていませんでしたし、いまでは少なくなりましたが、産業化されていない社会では、時間もこれとは違ったメタファーで時間を経験する選択肢が残されているのです。
フランクリンの有名な格言「時は金である」は、近代社会では時計が計量化されるものになり、同時に労働の量の尺度になったことを物語っています。これのメタファーが「資本主義の精神」の重要な一部を形成している点は、社会学ウェーバーが明らかにしました。P49-50
「新修辞学」 菅野盾樹 (ISBN:4906388965

沢山ある「時間」、少ししか残っていない「時間」、節約する「時間」、取っておく「時間」、浪費する「時間」という「隠喩(メタファー)」の体系が、「時間」の概念を宣言する。それによって、<裂け目(解釈項)>は隠蔽され、<言語記号>=<概念(意味)>がもはや疑うことがない「現実(リアリティ)」として形成される。産業社会以降成立してこのような「時間」の<意味(概念)>は、有史以来の疑われない「真理」とされ、<裂け目(解釈項)>はなかったものとして無意識へと抑圧される。

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メタレベル=言語が宣言される場、オブジェクトレベル=「権力」が増幅される場

再度、メタ言語(制作)図式にもどる。本質的に言語(コミュニケーション)において、オブジェクトレベルは存在しない。先に示した言語による世界の形成場面、<裂け目(解釈項)>が無意識へと抑圧される場面は、メタレベルからオブジェクトレベルへ遡行していく過程といえるだろう。

 メタ言語(制作)図式 (◎はコミュニケーション、◇は制作)

  オブジェクトレベル0 (学習0) 
    ◇演繹(ディダクション)・・・論理、アルゴリズム、数学(イコン、インデックス)
    ◎生得的生物反応(コミュニケーション)
  オブジェクトレベル1 (学習1) 
    ◇帰納(インダクション)
    ◎条件反射(パブロフの犬
  メタレベル1 (学習2) 
    ◇仮定(アブダクション)・・・仮説検証、シンボル
  メタレベル1.5 
    ◎言語コミュニケーション言語ゲーム
  メタレベル2 (学習3) 
    ◇創造的仮定(アブダクション)・・・天才的な閃き
    ◇修辞(レトリック)・・・アイロニー、詩、物語り、お笑い、脱構築

ニーチェはこのような傾向を「権力への意志」と呼んだ。「意味の導入」という「歪曲」によって人は世界を作り出す。この例としてニーチェは、宗教やイデオロギー、「道徳」、さらに論理学を批判する。人は言語を手に入れることで、行為をより的確に同調させ、より強い力を手に入れたことを可能にした。メタレベルが言語の力の生まれる場とすれば、オブジェクトレベルへの遡行は「権力」が増幅される場である、といえる。

ニーチェが示唆しているように、人間を中心にして定義することによる権力への欲求は、人間に、終わることがない解釈の増殖を生み出させる。・・・解釈とは「意味の導入」(あるいは「意味を通じての欺瞞」)であり、比喩形成にほかならない記号形成である。なぜなら、この思考の中には、文字通りの、真実の、自己同一的な意味の可能性などないからである。同一化は比喩化という行為を構成する、したがって、「決してあるものがとらえられるのではなく、むしろあるものが表示され、歪曲されるのである(ニーチェ)」。このことは、もちろん、行為(結果)とその目的(原因)との同一性にも拡張される。「あることが目的をめざしてなされるときにはいつでも、何か根本的に異なった他のことが生起する(ニーチェ)」。力への意志とは、「不断の読解」−表面上の同一化を通しての比喩化、解釈、意味作用−の過程である。P44-45
デリダ論」 ガヤトリ・C.・スピヴァク (ISBN:4582765246

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帰納法のダイナミズム

再度言えば、「メタレベルからオブジェクトレベルへの遡行」は、「真理」、「現実(リアリティ)」が生まれる過程であり、権力が増幅される場である。これは<裂け目(解釈項)>の隠蔽によって行われる。
たとえば中世では多くにおいて、神が<裂け目(解釈項)>を補うことで「真理」が成立した。あるいは演繹、数学などでは、<解釈項>としての西洋文化は隠蔽され、時代、文化に関係なく成立する「アプリオリな総合判断」とされてきた。このような演繹、数学などの世界の整合性を信じる、すなわち強く「オブジェクトレベルへの遡行」を志向する傾向は合理主義と呼ばれる。
それに対して近代以降、新たな「オブジェクトレベルへの遡行」として経験主義が生まれた。経験主義は合理主義のような「強いオブジェクトレベルへの遡行」を放棄することを特徴とする。たとえば帰納法では、「経験」によって行為系の連続性の世界へと実動的に関わり、それを近似的に言語認知系へと描写する。このような経験と描写を反復しつつオブジェクトレベルへの遡行がめざされる。めざすのは合理的な「真理」ではなるが、それが近似値であることに自覚的であるという「弱いオブジェクトレベルへ遡行」と言えるだろう。
合理主義的な「強いオブジェクトレベルへの遡及」は、<言語記号>=<概念(意味)>は強い結びつきを要求することで、疑いを入れない強い信念、すなわち「強い超越性」を要求する。これは憶見を生みやすく、閉塞しやすい。
これに対して、経験主義の「弱いオブジェクトレベルへの遡行」では、経験と描写(行為と認知)の<裂け目>が「差延」する隙間として働くことで、ダイナミズムを与える。その成功例が科学技術である。(実験)行為において環境にコミット(経験)し、認知によって近似的に理論化(描写)する。またそれを元に仮説を立てて、環境に再度コミット(経験)するように反復し続ける。

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「神の見えざる手」が豊かさを生む

経験主義を成功例とするのは事後的である。近代において、経験主義が成功したのは、合理主義よりも方法論として優れていたというよりも、経験主義的なダイナミズムを生みやすい環境によるためだ。
近代における人口増加による都市化、印刷技術、交通手段などの発達によって、コミュニケーション環境が飛躍的に発展し、社会の流動性が向上する。これによって帰納法的な経験と描写(行為と認知)の反復は促進される。描写は高速で拡散伝達されることで、同様な行為(実験)を様々な場所で多くの人々によって追試され、再度描写される。そしてそれらが再度拡散伝達されるというダイナミズムを加速される。
そして近代における経験主義のダイナミズムが、が実際に自由主義義経済として豊かさを生み出したという事実と切り離せないだろう。このダイナミズム表すメタファーが、アダムスミスの「神の見えざる手」であり、アダムスミスに先立つ、経験主義者の祖であるロックにおいて、そのはじめに経験主義は経済と深く結びついている。すなわち現代の「現実(リアリティ)」は、経済性と深く結びついて形成されている。

ロックにおいてはこの自己保全の権利は具体的には、・・・生命、自由、財産の権利、つまり所有権を意味するが、この所有権が「労働」によって生ずるものとされている点に、かれの自然権思想の大きな特徴がある。・・・このようにロックが所有権の根底に労働、経済活動をおいていることは、ロックの政治論として展開されている市民社会の現実が、すぐれて経済的な性格の社会であることを物語るものであるといってよいであろう。いうまでもなく、のちのアダムスミスをはじめとする古典経済学者においては、市民社会は自由放任を原理とする「商業社会」として、貨幣経済にもとづく社会としてとらえられることになるのである。P12
「社会思想の歴史」 生末敬三 (ISBN:4006000898

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