現実とはなにか(2008) 2/3

 1 アブダクション(仮定)とレトリックと真理
 2 情報化社会は脱構築する、とはどういうことか
 3 快感を訓練するとはどういうことか
 4 「成功した性関係」とはどういうことか 
 5 「女は存在しない」とはどういうことか 
 6 貨幣の魔法とはどういうことか
 7 なぜ人工知能は笑わないのか
 8 なぜレトリックは人へ訴えかけるのか  
 9 なぜ金玉は「フレーム問題」に陥らないのか
 10 なぜ科学技術は成功したのか

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5 「女は存在しない」とはどういうことか

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女は「ドラマ(劇)」を好み、男は「ゲーム」を好む

「女性」はムードを大切にすると、よく言われる。これは先の「ドラマ(劇)、ゲーム、テクスト」というコンテクスト分析でいえば、「ドラマ(劇)」を重視するということがいえるかもしれない。「女性らしさ」とはこのような場の空気(コンテクスト)に敏感で、柔軟に対応し、緊張を緩和する姿勢とも言える。性関係でいえば、性行為そのものよりも、それを取り巻く背景から、快感をえる。
それに対して、「男性」は「ゲーム」としてのコンテクストを重視する傾向があるといえるかもしれない。場の空気を気にするよりも、行為を訓練して場のルールを身につけ、上達することに好む。性関係でいえば、行為そのものをスムーズに、そして女性に快感を与えたという結果に快感をえる。
男性雑誌によくある「女をイカせるテクニック」などの記事に象徴的だが、男性は女性の身体に快感のポイント=スイッチを求める。そのスイッチを押せば、女はエクスタシーを感じる。男性がよく女性の乗り心地など、機械のメタファーで語るのもそのためだろう。あるいは、コスプレなどの倒錯的(フェティシズム)なプレイを好む。それは女性のようなムードを好むというよりも一つの(ゲームの)プレイである。
さらに、これらは性関係だけではなく、男性の方が論理的ということを表しているのかもしれない。男性は決定的な効果を与える「必殺技」が好きなのであり、そこには明確な「原因と結果」と、そこへつぎ込むパワーがある。それはまさに男の子が好む電車、大型車、スーパーカーなどに象徴される「強い機械」なのである。

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「女」という「言語ゲーム

ラカンは「女は存在しない」と言った。この意味は今までのコンテクスト論で考えるとわかるだろう。人間の女性は生物的な「雌」ではなく、コンテクストとして作られたということだ。これをウィトゲンシュタイン風にいえば、「女」という「言語ゲーム」、ということになるだろう。女性は「女性」という「規則に従う」ことを訓練することで「女性」になるのだ。
男性と女性の身体の差は明らかである。運動能力も平均すればその差も明らかである。しかしそれでも人間には動物との「断絶」があり、コンテクストの影響は絶大的である。
先ほどの男らしさ、女らしさには、女性は所有物、男性は所有者という男尊女卑的な文化的背景が見える。「男性」が「ゲーム」を重視することは、場を支配する所有者としての能動性と関わっていて、「ドラマ(劇)」を重視する「女性」は場に従う所有物として生きるための受動性に関係する、という文化的なものが大きいのだろう。

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懐疑という狂気

コンテクストが一つの文化でしかないといっても、懐疑することは困難であるだけではなく、病理である。たとえば恋愛は人を懐疑的にする。彼女はオレのことをどのように思っているのだろうか。このような懐疑は彼女が「好きだよ」と言ってくれたとしても、終わることがない。「ほんとうのほんとうはどうなのだろうか」あるいは思春期も同様に様々なことに素朴な疑問をもつ。「大人は汚い」ということは、単に反抗期というだけではなく、コンテクストが不安定な状態にある。
そこからさらに懐疑が過剰になると神経症となる。手すり、つり革などの人々が使うものがさわれない。人は私の事を嫌っていると不安でコミュニケーションできない。さらに過度になると、今座ろうとしているこの椅子の足が壊れないとなぜ言えるのだろうか。FBI工作員がオレの命を狙われていると妄想にまでいたる。これらは過剰な懐疑によって「現実」が壊れている状態であるといえる。しかしある意味でこのような懐疑は正しい。なぜなら懐疑をやめるような確かな基盤としての「現実」はどこにもないからだ。
たとえば人工知能を作る場合にまさにこのような問題に陥る。ある状況の中でもっとも適切な判断を行うようにプログラムするということは、チェスや将棋のようにルールが明確で、その可能性が有限である場合はよいが、人が生きるコンテクスト(状況)のように無限に可能性が考えられる場合には、その計算は終わる事がなく、フリーズする。
社会において人はフリーズすることなく、当たり前のように「現実」を生きているのは、人は盲目的に信じる基盤としての「現実」(=コンテクスト)によって支えられているからだ。

例えば、生理有機体としての僕が今いますよね。僕の生理有機体システムが回っているわけですが、大いなる可能性において、一般に普通の臓器が入っていて、普通の循環器系、消化器系、神経系が内蔵する、と期待されているわけです。・・・果たしてそうか、という問題がまずあります。MRTでスキャンしたらそうなった。しかし「そうなった」というのはあくまで操作的な問題であって、ある刺激を与えたらあるリアクションが返ってきたということですから、同じリアクションが返ってくるものであれば、それでなくたっていい可能性がある、という問題がありますよね。
更に言うならば、例えば僕は自分の心臓は人工心臓じゃないと思っていますけれども、人工心臓である可能性もあるわけです。しかし人工心臓じゃないといっても、それでは人工心臓じゃない心臓が心臓なのか、という問題もあるわけです。つまり、いろんな場面で心臓のふりをするエイリアンだという可能性もあるわけですよ(笑)。つまりそれが心臓の「誤配」です(笑)。
我々がそれを心臓として、あるいは偽物として受け取るという認識の問題じゃなくって、我々の体のシステム自身が、実はそれが誤配された何ものかであろうが、本物の心臓であろうが、人工心臓であろうが、「うまく回っている」という事実だけがあるわけです
ね。・・・「そういう視点のフリをした別のものじゃないか」「誤配された何ものかが視点のフリをしているんじゃないか」とか、永久に言えてしまうんで、無限背進になってしまいます。
http://www.miyadai.com/texts/azuma/index.php
宮台真司東浩紀を語る!」

このような懐疑からわかる事は、コンテクストとは認識論である、ということだ。さらに言えば独我論である。みなに共有された明確なコンテクストというものがどこかに存在するわけではなく、それは主体の中にしかない。今はこのようなコンテクスト(状況)だから、みなはこのように振るまうだろうことで、ふるまっているのだ。それは盲目的に、無意識の「信頼」によってなりたっている。
女とは「私は女である」という「信頼」によって女である。コミュニケーションの中で、女であると承認され、女性的であると「かわいがられ」、女性的でなければ「眉をひそめられる」というコンテクストの中で女である。

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6 貨幣の魔法とはどういうことか

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重層的なコンテクスト

コンテクストとはなにか、ということで以前、以下のような図を参照させてもらった。
  
SocioLogic(lovelesszero5.0)  http://www5.big.or.jp/~seraph/mt/000108.html

静から動へと階層化されてとてもわかりやすい図である。先の「ドラマ(劇)」としてコンテクストは、階層の全体を表し、「ゲーム」としてのコンテクストは、「参加者のその場における役割(ルール)」あたりを重視する。「テクスト」としてのコンテクストは、「会話の流れ」そのものを重視する。
しかしいままでの議論から、この図には超越論的、非階層性という2つの修正を加えなければならないだろう。

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修正1 超越論的

一つ目の修正は超越論的、ということだ。コンテクストは客観的にどこかに存在するようなものではない。たとえば「日本人として振るまう」といっても、人々にとっても一律の意味を持つわけではない。だからコミュニケーションは私が考えることを、相手も共有するだろう賭によって成り立ち、事後的にしかわからない。しかしさらに根源的には事後的にもわからない。完全に伝わった事は確かめようがない。
だから問題はこのような差異があるにも関わらず、それでも一つのコンテクストとして共有を支える働きがあるということだ。それはみなに共有されているという無意識の「信念」によって支えられている、すなわちコンテクストは超越論的であるということだ。

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ソシュールの言語論

パースと並んで言語論の祖としてソシュールが上げられる。それはパースと同様に従来の<言語記号(シニフィアン)−概念(シニフィエ)>の結びつきに「裂け目」を入れることで新たな言語研究の分野を切り開いたことによる。ソシュールが考えたのが、意味(シニフィエ)は言語記号シニフィアンから決まるのではなく、差異の体系として決まるということである。たとえば「キツネ」の概念は、「猫」でも、「犬」でも、「タヌキ」でもない・・・という差異によって決定される。
ここからわかるのは、意味(シニフィエ)は言語記号(シニフィアン)とは関係なく、決定されるという「恣意性」である。すなわち<言語記号(シニフィアン)−概念(シニフィエ)>には裂け目があり、さらには概念(シニフィエ)を決定するのは、第三項としての「差異の体系」である。そして差異の体系はその言語を共有する社会・文化を反映したものである。
パースの言語記号論に対応させれば、以下になる。そして差異の体系とは社会・文化的であり、コンテクスト的である。

<言語記号(シニフィアン)−解釈項(差異の体系=社会・文化)−概念(シニフィエ)>

ソシュール構造主義の祖と考えられるのは、言語に差異の体系という(無意識)下部構造があること明らかにしたからだ。構造主義者たちは社会・文化の様々なところに、言語のような下部構造があることを見出していく。

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マルクスの「貨幣論

このような構造主義のわかりやすい例の一つが、マルクスの「貨幣論」である。正確には、柄谷が「マルクスの可能性の中心」で展開した「貨幣論」である。柄谷は労働価値説を消去しつつ、マルクス貨幣論構造主義そのものを見出していく。
この考えに正当性を持たせるのが、そもそもソシュールは言語論を経済学の影響から考えたということだ。ソシュールの概念(シニフィエ)は「価値」である。マルクスはそれまでの<商品(シニフィアン)−価値(シニフィエ)>の関係に、ソシュールに先駆けて「裂け目」を入れたのだ。
たとえばリンゴ1個が100円というとき、リンゴの使用価値はそれを食べて栄養をつける、というものだ。そこからは100円という価値は見いだせない。100円という価値は交換価値という別の法則によってきまる。みかん1個50円、えんぴつ1本30円・・・バイト時給900円・・・などの交換価値による差異の体系によって決定している。これはそのまま先のソシュールの構図に対比されるだろう。

<商品(シニフィアン)−解釈項(交換価値の差異の体系=社会・文化)−価値・価格(シニフィエ)>

しかし貨幣論では、言語論と異なり、価値は貨幣(価格)によって一元的に表される。なぜ貨幣という商品は特別なのか、とマルクスは問う。たとえば貨幣がない場合を考えてみると、商品同士を交換する場合、互いにその商品がほしいという奇跡の出会いが必要であり、なおかつその場で交換基準を決定するという緊張した駆け引きが求められる。それは一歩間違えれば、闘争に至るだろう。そこに貨幣を介在することで交換はスムーズに行われる。

そしてこのとき貨幣は、「あらゆる商品にたいして直接に転化しうる」「一般的価値形態」の位置を獲得する、というか、「一般的価値形態」の位置が貨幣である。それは貨幣への絶対的な「信頼」を獲得する。すべてが貨幣価値化されることを許し、貨幣価値化されなければ社会の一員ではないようなほどの錯覚。それが貨幣への欲望を生む。なにか買いたいからお金がほしいということではなく、貨幣そのものが強く欲望される。
商品を交換価値として、交換価値を商品として掌握しておく可能性とともに、黄金欲が目覚めてくる。商品流通の拡大とともに、いつでも役に立つ、絶対的に社会的な富の形態たる貨幣の力が、増大する。「金はすばらしい物だ!これをもっている人は、彼の願うこと何一つかなわぬものはない。金によって、霊魂さえ天の楽園に達せしめることができる(コロンブス)」・・・貨幣退蔵の衝動は、その本性上とめどがない。質的に、またはその形態上、貨幣は無制限である。すなわち、素材的富の一般的代表者である。というのは、あらゆる商品にたいして直接に転化しうるからである。P229-232
資本論」 カール・マルクス (ISBN:4003412516

ここに(神的な)「転倒」がある。もしかすると「掟」にはかつてそうすべき理由があったかもしれない。しかし「転倒」後においては、「掟」を守る事が目的化する。それは無意識に、盲目的に行われる。そこでは構造を維持するために「掟」にしたがうのではなく、人々はただ「掟」を守ることで構造が維持される。そして商品交換における「掟」とは、「貨幣を信用(欲望)しろ」というものだ。
先ほどの商品交換の図式に戻れば、解釈項としての交換価値の体系が「超越論的なコンテクスト」に対応する。人々は<商品(シニフィアン)−価格(シニフィエ)>という関係を当たり前に思っているが、無意識に超越論的なコンテクストが価値体系を支えているのだ。そして隠されているが、貨幣はただの紙切れだという「裂け目」である。このような貨幣の位置は「ゼロ記号」、「超越論的シニフィアン」と呼ばれる。

貨幣は、それぞれの商品にあたかも貨幣量で表示されるべき価値があるかのような幻影を与える。すなわち、貨幣形態は、価値が価値形態、いいかえれば相違なる使用価値の関係においてあるという事実をおおいかくす。・・・すべての商品と関係しあう一中心としての商品、すなわち貨幣によって、すべての商品は「質的同一性と量的比率」によって存在させられる。それが最初からあったのではなくい。それゆえに「共通の本質」とは、潜在的な貨幣形態にすぎないのである。
問題は、なぜいかにしてそのような中心化が生じるのかということである。いいかえれば、一商品の中心化こそ、そうしたシニフィアンの関係のたわむれを抹消し、同一性を形成し、超越論的な「価値」を付与するのだから・・・言語(ラング)体系の場合、貨幣のように中心はないが、各語に内在的な意味(概念)があるというプラトニックな常識を支えているのは視えない中心なのであって、だからこそソシュールはそれを否定すべく「中心のない関係の体系」を取り出したのだ。・・・そこで構造主義者は、体系を体系たらしめるゼロ記号を想定する。P37-38
マルクスの可能性の中心」 柄谷行人 (ISBN:4061589318) P32-37

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修正2 非階層性

二つ目の修正は非階層性である。上図の階層はなにを表しているのだろう。無意識としてのコンテクストの深層だろうか。動/静という対比でいうとそのようにもとれるが、これは空間のメタファーだろう。国、文化圏という広大な空間から、いまコミュニケーションするこの場という小さな空間である。
しかしこれを無意識の深層と考えることはできないだろう。たとえば人は身近な家族、友達の関係よりも、「日本人」としてのアイデンティティが深層だろか。むしろ身近なものとの体験ほど深層である。
無意識の深層を考える一つの方法として精神分析がある。精神分析では、人は他の動物に比べて未熟なまま生まれる故に、先天的であるよりも後天的の習得が重要となる。そして生まれてまもない幼児期の体験(教育)ほど深層に刻まれやすいと考える。
さらには、精神分析の症候とは幼児期の忘れられた記憶(深層の無意識)が大人になって回帰すると考える。たとえば性的な倒錯(フェティシズム)はその典型である。なぜ自分はそのようなフェチをもっているかわからない。これは、幼児期の記憶と大人の症候は単純な結びつきではない。子供の頃、親がいなくてさびしかったから大人になって親のような恋人を求めるというようなことではなく、そこには「断絶」があり、無意識は思わぬ形で回帰する。

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メタ言語は存在しない」

先のソシュールの言語の差異の体系、あるいはパースの3項の記号論においても、コンテクストとは言語を解釈する特別ななにかというよりも、言語体系そのものと考えられる。
ラカンが「メタ言語は存在しない」というときにも、同様な意味でコンテクストの階層性を否定する。これは、人は機械のようにオブジェクトレベルでコミュニケーションするということではなく、ラカンの「オブジェクトレベル」とは「メタ言語(制作)図式」でいえば、メタレベル2=言語コミュニケーションの次元である。人はここから階層を降りることも、上ることもできない。

これはデリダエクリチュール論にもつながるだろう。言語行為論では発話の意味をコンスタティブな意味(オブジェクトレベル)、パフォーマティブな意味(メタレベル)に分類する。それに対して、デリダはコンスタティブであるか、パフォーマティブであるかは、決定できないと反論した。これはいままで語ってきた「断絶」の問題である。コンテクストは主体の内面の「信念」でしかない以上、原理的に決定することは不可能なのである。
たとえば、C君が「Aが「君(B)は馬鹿だ」と言っていたぞ。」というのは、メタ言語であり、発話者C君はコンスタティブな意味ではAとBの第三者の立場=メタ位置に立っている。しかし「なぜC君はそのようなことを発話したのか」のかとパフォーマティブなレベルでは、第三者でとして、「「客観的に」「公平に」見ることのできるような中立的な視点」でいられない。
Cが発話する事はメタ言語の形態をとっていたとしても、それはいつも大文字の他者の次元にしかない。これは、先の図式のオブジェクトレベル0においても同様である。ウィトゲンシュタインが示したのは、数学でさえも、「信頼」から切り離すことはできないということだ。

象徴的なレベルでは、(ラカンの)「手紙はかならず宛先に届く」という命題は、次のような一連(ヴィトゲンシュタイン的な意味の「一族(ファミリー)」)の命題を凝縮したものである−「抑圧されたものはかならず回帰する」、「枠組みはつねにその内容の一部によって枠をはめられている」・・・究極的には、これらはすべて同じ一つの基本的前提、すなわち「メタ言語はない」という前提のヴァリエーションである。
解釈学的企ての狙いは、不可視でありつづけることによって、つまり主体に捉えられるのを逃れることによって、主体の視野を前もって決定づける「枠」あるいは「額縁」の輪郭を、目に見えるようにすることである。私たちの眼に見えるものも見えないものも、つねに歴史的に媒介された先入観の枠を通して与えられる。・・・その地位は超越的である。すなわち、先入観が私たちの経験を意味ある全体性に組織化する。世界は、根本的に有限性の枠内においてのみ、私たちに開かれている。このレベルでは、メタ言語の不可能性は、事物を「客観的に」「公平に」見ることのできるような中立的な視点はないということと等しい。
「汝の症候を楽しめ」 スラヴォイ・ジジェク (ISBN:4480847081

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否定神学的主体

そして「信念」によって覆い隠される決定不可能性、すなわち「裂け目」は自己言及であり、ゲーテルの不完全性定理に行き着く。先ほどの商品交換の例では、貨幣の位置がそれに対応する。

形式体系の"内部"(牢獄)から出ようとするか、外部性をとりこもうとする安易な試みがつねにくりかえされる。しかし、外部性があるとすれば、それは形式体系の内部における自己矛盾としてのみあらわれるだろう。そこで、あるテクストの完結的な意味(構造)を、同じテクストからそれに背反するような意味(構造)を引き出すことによって「決定不可能性」に追いこみ、解釈し囲いこむこと自体を向こうかする企てがなされる。ディスコンストラクション(脱構築)とよばれるこの批評行為は、しかし、それ自体"形式化"されれば、ゲーデルの(不完全性の)証明に帰着するのである。
「内省と遡行」 柄谷行人 (ISBN:4061588265

ラカンにおけて、主体は他者との関係でしか自らがなにものか見いだせない。だから他者の欲望を欲望する。想像関係として現前の他者を欲望しても、象徴関係として大文字の他者を欲望しても、決して満たされない。自らが何者であるか、充足する事はない。このような決して満たされる裂け目が現実界である。そしてこの裂け目は、言語体系における自己言及の裂け目=ゲーテルの不可能性の構造をもつ。ここに精神分析と言語論が融合された美しい主体論がある。そしてこれを東浩紀は「否定神学」と呼んだ。ラカンにおいて主体は否定神学的な主体である。
言語ゲーム」が「信念」によるコンテクストを基底にしているとすれば、すなわち「断絶」を超越論的に乗り越えようとするとき、このような否定神学的な主体が浮上する。たとえばウィトゲンシュタインもいうように貨幣交換も一つの「言語ゲーム」である。ある人が貨幣に価値があるように(無意識の「掟」によって)振るまい、他の人がそれに合わせて商品交換が成立させる。そのようなリレーのネットワークよって、貨幣の構造は支えられている。そしてこのときに貨幣を中心化する否定神学の構造が現れる。
だからこのような「信頼」のネットワークがとぎれる外部ではとたんに魔法が解けて、それはただの紙切れでしかなくなる。たとえばある貧しい未開の土地に行って「これは1万円札といって、この国で言うと家が建つぐらいの価値があるんだ。だからこの家と交換してくれ」と言って通用しないだろう。マルクスが恐慌によって資本主義は破綻し、その先に社会主義社会を見たのも、商品交換がこのような「信念」というもろい基盤の上にしかなく、魔法はいつか解けるだろうからだ。

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7 なぜ人工知能は笑わないのか

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「フレーム問題」

人工知能には、1969年、ジョン・マッカーシーとパトリック・ヘイズによって示された「フレーム問題」がある。ダニエル・デネットによる以下のような物語が有名である。

昔、R1という名のロボットがいた。ある日、R1の開発者たちは予備バッテリーを別の部屋に隠して、その部屋に時限爆弾を仕掛け、まもなく爆発するようにセットした。R1は部屋をつきとめ、バッテリー回収作戦を立案した。部屋の中にはワゴンがあり、バッテリーはワゴンに載っている。R1は「引き出す」というアクションを実行すればよいと判断し、ワゴンを部屋の外に引き出すことに成功したが、そこで最初の悲劇が起こった。時限爆弾もワゴンの上に載っていたため、部屋の外に出たところで R1は爆破されてしまったのである。
開発者らは第2のロボットの開発にとりかかった。自分の動作が引き起こす結果 (副次的作用) を判断できるロボットを作ればいい。新しいロボットは R1D1 と名付けられた。 さっそくR1の場合と同じシチュエーションが設定され、R1D1はバッテリーの回収に取りかかった。「引き出す」 というアクションの実行に先立って、 R1D1 は副作用のチェックを開始する。ワゴンを引き出しても部屋の壁の色は変わらないだろう、ワゴンを引き出せば車輪が回転するだろう…、膨大な副次的作用の可能性を検討しているうちに時限爆弾が爆発した。
問題は、関係のあることと関係のないことをロボットが見分けられなかった点にある。そこで開発者たちは、目的に関係のないことを見分けられるロボットR2D1を開発した。だが今度も悲劇は起こった。R2D1が無関係なことを見分けて、それらを一つずつ「無視」し続けているあいだに爆弾が爆発した。
http://www.johf.com/logs/20070422b.html

「フレーム問題」が示すのは、有限の情報処理能力しかないロボットは、無限の可能性がある現実の前に解を収束できない、という当然の帰結である。しかし問題は人間の日常が同様な状況にあるにも関わらず、「フリーズ」せずに行為できているということだ。なぜ人間には「フレーム問題」は起こらないのか。

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解釈と行為

「フレーム問題」を人へ適用するのは問題があると言われる。ここでは、問題を解釈してから行為するということが前提にされているからだ。チェスなどゲームのようにルールによって閉じた系では解釈の計算は有限であるが、現実のようにルールがなく、開いた系におけては解釈が無限後退に陥るのは当然である。
しかし人間は、解釈してから行為するわけではない。これはウィトゲンシュタイン言語ゲーム」論につながる。日常会話は規則を解釈し行為するのではなく、「規則に従う」ということだ。子供や外人が新たに会話を習得するのは理解してからではなく、状況に対応した使い方を覚えるのだ。
そしてウィトゲンシュタインは「規則に従う」は「訓練」によって身につけるものであるという。スポーツ選手が繰り返し繰り返し練習するのは、その行為を体にたたき込み、反応を反射的に行えるようにするためだ。このような状況に合わせた行為を習得することで様々な状況に対して反応することができる。
しかしこれだけでは、「フレーム問題」は乗り越えられない。状況の可能性は無限にあり、すべてのパターンを訓練することは不可能である。

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「作業」、「仕事」、「人として」

たとえば先の例題の状況で「人工知能は使いものにならない。かわりにお前がやってくれ。」と言われたら、ボクは丁重にお断りするだろう。これは単なる「作業」である。爆弾で死ぬかもしれないのに、こんな「作業」をする必要がどこにあるのだろう。
では「仕事」だったらどうだろうか。「仕事」とは労力に対して報酬を得る行為である。しかしそれだけではなく、「仕事」には社会的に貢献するという前提がある。だから非社会的な行為は「仕事」ではない。ただなにをもって社会的/非社会的と言えるのかは難しい問題である。たとえば一日かけて5mの穴を掘る。次の日はそれを埋める。この繰り返しに対価が支払われたとして、この無意味な行為は「仕事」と言えるだろうか。
ボクが爆破処理を仕事とする「プロ」であれば、この「仕事」を引き受ける可能性は高いだろう。対価のためだけではなく、爆破処理を仕事にしているという「社会的な責任」があるからだ。それは「オレがやらねば誰がやる」というプロ意識だ。
さらにこの作業に家族や恋人などの身近な人の命がかかっているなら、爆破処理のプロでなくても行うかも知れない。あるいは見ず知らずの人でも、ボクしか救えないような状況にあれば、「人として」やるかもしれない。おぼれている人を命がけで救うというような利他行為は、このような「オレがやらねば誰がやる」という状況に生まれるといえるだろう。
このような「オレがやらねば誰がやる」というような場合も、「社会的な責任」というときにも、暗黙の圧力として「せき立て」られている。人は無限の可能性を計算する前に、間違っていても決定しなければならないという「せき立て」の状態にある。

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人工知能はバイト感覚

なぜ人間には「フレーム問題」は起こらないのか、というが、これに近いことは人間でも起こっているのではないだろうか。たとえばコンビニのバイトは、人が入れ替わってもすぐに仕事ができるように、すべての「作業」がマニュアル化されている。バイトはそれにそって仕事をする。しかしマニュアル外のことが起こったらどうだろうか。たとえば店に寄付をしたいと100万円をもって知らない人がやってきたという意味不明な状況が起こると、バイトはどうしてよいか、あたふたし、「フリーズ」する。
この場合には、責任者として「店長」が呼ばれるだろう。店長はマニュアルがなく、間違っていたとしても判断しなければならないという「責任へのせき立て」がある。バイトよりも店長が優秀な人間ということではない。その場ではただの「バイト」であっても、彼も家に帰れば、家族や恋人との関係の中で「せき立て」られているだろう。
店長は「責任ある仕事」として仕事を行う。バイトは作業しかおこなわないが、家庭にもどれば「人として」責任をもち、生きている。しかし人工知能はどこにいっても「責任」をもたず、「せき立て」られることがない。人工知能がフリーズするのはしょせんバイト感覚でしか「作業」をしていないからだ。

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「責任へのせき立て」の力学場

先の人工知能の爆弾処理の例は、「死」に関係することに特徴がある。そこでは、生存本能に対して、利他的な社会的な責任が浮上する。しかし一般的に「責任へのせき立て」はこれほど強く現れない。
たとえば歩いて人とぶつかりそうになり、それをアイコンタクトで交わす。あるいはもっと無意識にお互いにぶつかることなく振る舞う。「おはよう」と言われれば、「おはよう」と返す、このような些細なことこそが「責任へのせき立て」である。人工知能はこのような些細な場面でも、無限の可能性の中でフリーズするだろう。
このような些細な「せき立て」は、ゴフマンの「儀礼的無関心」が特徴的である。「儀礼的無関心」が示すのは、なにか行為をしなくても、そこに黙って存在するだけで、「責任へのせき立て」にある、ということだ。たとえば「おはよう」と言われて、ただ黙っていると、「無視」という意味を発していることになり、かなりの不快感を与えてしまう。何もしないことさえも社会的には大きな意味を持ってしまう。

人は適応の無限後退(つまり思索)に立ち往生することもなく、互いの前提をある意味では無根拠に信じて−信じているかどうか、その必要があるかどうかさえ意識せずに−「社会的出会いの世界」に乗りだしていく。いい例が「儀礼的無関心」だろう。とりわけ匿名的な焦点のない集まりで、人は、周りの動作と外見に互いのラインを一瞥し、万事うまくいっていること、互いに前提が自分の前提とするに足りるものであることを確認しては、つぎの瞬間、自分のラインにもどる。悪意や敵意、恐怖や羞恥心がないこと、進行しつつある行為が表出/読解されるラインそのままであることが確認される。共在のなか、事実として互いに儀礼的無関心を運用しあっていることを相互に確認しあうだけで、それぞれの運用の実効性が安心されることになる。・・・人はただ他の人たちと居合わせるという事実にいて、それだけで既存のプラクティスを採用−運用する。いや、せざるをえない。その結果として、共在の秩序が行為の場面場面に形成され続けているのだ。
われわれの経験とは、われわれの経験している通りのものではない。人は、慣習的プラクティスの網のなかにいて、ここかしこでこれを作動させては自分の信念を証拠だてる経験を得、また眠りにもどる。ときたま起こるさまざまなフレイミングの誤作動や破綻は、場のリアリティを揺るがし、むしろそれぞれの場のリアリティのプラクティカルな構成を強化・確定する方向に働く。当面の経験を離脱しようとするにせよ、二次的適応や自己欺瞞に従事しようとするにせよ、あるいはフレイムを掃除/確認したり変容させようとしたりするにせよ、経験のなかにいる限り、人はフレイミングの循環を逃れることができない。
「ゴフマン世界の再構成」 <共在>の解剖学 安川一 (ISBN:4790704033

「責任へのせき立て」は繕い、維持するような「力学の場」としてたえず働いている。一人部屋にいるときにも、人の振る舞いに作用する。たとえばウィトゲンシュタインが「哲学探究」の中で示したのは、「数学」、「貨幣」、「痛み」も「言語ゲーム」であるということ、すなわち「責任へのせき立て」の力学場にあると言えるだろう。そしてアスペクト論で示したのは、「見る」ことも、「〜として見る」という「責任へのせき立て」による行為であるということだ。
「責任へのせき立て」とは他者への信頼である。他者がこのように振る舞うだろう、他者と共有されている基底があるだろう、他者とコミュニケーション可能だろう。だから自らもこのように振る舞わなければならないだろう。応答しなければならないだろう、という勝手な思いこみでしかない。しかしこのような信頼がなければ人は「人工知能」と同じようにフリーズしてしまうために、無意識の強制的な力としての「責任へとせき立て」へと身をゆだねるしかない。そしてこれが破られることは大きな不安を伴う。

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人工知能お笑い番組の「笑い声」に笑う

「お笑い」も「責任へとせき立て」と大きく関係するだろう。「ボケ」という非日常によって、力学場が崩れる、緊張が走る。そのままでは空気が凍ってしまう。一瞬の「フリーズ」の次の瞬間に「笑い」によって場の修復が行われる。その修復への力としても「責任へのせき立て」が働いている。
テレビのコメディ番組では、おもしろい場面に人工的に「笑い声」が挿入される。これは人々に笑う場所を指示してあげる役割がある。ただタイミングを間違って、一人だけ笑うのは、空気が読めていない場違いである。だから「笑い」はみなが笑う同じタイミングで笑わなければならない。ここに(ラカン囚人のジレンマ的な)一瞬のフリーズがおこる。指示することでこの一瞬の緊張を緩和する。ジジェクはこれを人々のかわりに笑ってあげることで、人々を笑う責任から解放してあげる、といった。あるいは最近のテレビ番組の過剰なテロップも同様だろう。どのように解釈すればよいかを補う。それは難しいからではなく、「みんなの考え」を指し示すことで、人々をフリーズから解放し、「責任へのせき立て」の行き先を誘導してあげている。
人工知能はいくら社会的な情報をデータベースとしてインストールしても、「ボケ」られるとその意味をもとめて終わりない解釈によってフリーズするだろう。しかし「笑い声」が入れば、人工知能でもフリーズせずに笑うことができるだろう。
最近、「KY」などの言葉がはやり、「空気を読む」ということに敏感である、とされる。社会の価値が多様で、流動性が向上することで人々の中に「常識」としての共通の基盤がなくなりつつあり、その場その場で、基盤としての空気を確認することが求められるためだと言われる。
そして最近の「お笑いブーム」はこのような現象と対応しているかもしれない。みなで笑うことは、みなが「責任へのせき立て」の義務を果たしている。人工知能が陥る無限後退という「外傷的な現実(リアル)」は覆い隠され、「社会的現実(リアリティ)」が共有されているように振る舞われる。なぜ人間には「フレーム問題」は起こらないのか、ではなく、「フレーム問題」こそが人間の現実(リアリティ)の成立条件になっているということだ。仮に人間が「フレーム問題」を乗り越えて、完全な解を得られるようになれば(すなわち人工知能が可能になれば)、「現実(リアリティ)」はもはや必要でなくなるということだろう。
「「現実(リアリティ)」とは、われわれが自分の欲望の<現実界(リアル)>を見ないですむように、空想が作り上げた目隠しなのである。(ラカン)」

イデオロギーに関してもまったく同じである。イデオロギーは、われわれが堪えがたい現実(リアリティ)から逃避するためにつくりあげられる夢のような幻想などではない。イデオロギーはその根底的な次元において、われわれの「現実(リアリティ)」そのものを支えるための、空想的構築物である。イデオロギーは、われわれの現実(リアル)の社会的諸関係を構造化し、それによって、ある耐えがたい、現実(リアル)の、あってはならない核(けっして象徴化されえない外傷的な社会的分離、として概念化されたもの)を覆い隠す「幻覚」なのである。イデオロギーの機能は、われわれの現実(リアリティ)からの逃避の場を提供することではなく、ある外傷的な現実(リアル)の核からの逃避として、社会的現実(リアリティ)そのものを提供することである。
イデオロギーの崇高な対象」 スラヴォイ ジジェク (ISBN:4309242332

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