現実とはなにか(2008) 1/3

 1 アブダクション(仮定)とレトリックと真理
 2 情報化社会は脱構築する、とはどういうことか
 3 快感を訓練するとはどういうことか
 4 「成功した性関係」とはどういうことか 
 5 「女は存在しない」とはどういうことか 
 6 貨幣の魔法とはどういうことか
 7 なぜ人工知能は笑わないのか
 8 なぜレトリックは人へ訴えかけるのか  
 9 なぜ金玉は「フレーム問題」に陥らないのか
 10 なぜ科学技術は成功したのか

                                                                                                  • -

1 アブダクション(仮定)と修辞と真理

                                                                                                  • -

仮定(アブダクション)による「断絶」

プラグマティズムの祖といわれるパースは、いままでの論理的な推論法である演繹と帰納に、仮定(アブダクション)を加えた。以下に例を示すと、演繹はa、bからcが推論されるという典型的なアリストテレスの三段論法である。しかし仮定(アブダクション)は、c、aからbは決して導かれない。だから仮定(アブダクション)は従来の論理学では誤謬である。しかしまず仮説を立てるという思考は人が推論する方法としてとても納得がいくものである。仮定(アブダクション)では、c、aとbの間に「断絶」が存在する。そして人はその断絶を飛び越えようとする。

 演繹(ディダクション)
  a この袋の豆はすべて白い。
  b これらの豆はすべてこの袋の豆である。
  c これらの豆はすべて白い。
 帰納(インダクション)
  b これらの豆はすべてこの袋の豆である。
  c これらの豆はすべて白い。
  a この袋の豆はすべて白い。
 仮定(アブダクション
  c これらの豆はすべて白い。
  a この袋の豆はすべて白い。
  b これらの豆はすべてこの袋の豆である。
 参照 「プラグマティズムの思想」 ISBN:4480089624

                                                                                                  • -

ベイトソンメタ言語

 ボクはこれをベイトソンの学習論を参考にメタ言語論としてつなげてみたい。

・オブジェクトレベル0 (学習0) 演繹(ディダクション)
ベイトソンの学習0とは学習が必要がないコミュニケーションである。機械のようにINPUT に対していつも同一のOUTPUTを結果する。演繹がプログラムとして使われていることからも、これはまさに演繹に対応するだろう。

・オブジェクトレベル1 (学習1) 帰納(インダクション)
学習1では、パブロフの犬のように反復によって学習が行われる。これは帰納に対応するだろう。

・メタレベル1 (学習2) 仮定(アブダクション
学習2は学習1のメタレベルである。学習1のコンテクストを学習する。この段階は人の言語コミュニケーションに対応する。意味を獲得するためにはコンテクストを必要とする。


パースの記号論では、記号はイコン、インデックス、シンボルに分けられている。そのうちイコン、インデックスは、記号(シニフィアン)と対象(シニフィエ)が見た目や物理法則に関係する、それに対してシンボルは記号(シニフィアン)と対象(シニフィエ)の間に解釈項(コンテクスト)を必要とする。一般的な言語はシンボルとされる。たとえば「いぬ」というシニフィアンシニフィエは動物の「犬」か、「負け犬」という罵倒か、解釈が必要とされる。
これはヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論につながる。日常言語ではシニフィアンに対してシニフィエは事後的にしか決定しない。そこには「暗闇への飛躍」が存在する。ある人は発話する。それを他者がどのように理解するか、そこには断絶が存在し、一つの賭であり、どのように伝わったかは事後的にしか決定しない。すなわち解釈項(コンテクスト)は断絶を橋渡しする。
言語コミュニケーションは、生物が先天的に決定された反応をするように、的確にオブジェクトレベルで伝達することはむずかしく、そこに断絶が存在する。このためにたえずメタレベルの読みを必要とする。そしてそこには絶えず誤配の可能性がある。しかしそれ故に柔軟で多様な表現が可能になるのだ。
これは論理的な推論でいえば、仮定(アブダクション)に対応するだろう。仮定とは論理としては推論されない誤謬であるが、人は論理的な真へ到達するために、まず「暗闇への飛躍」するのだ。パブロフの犬のように反復(帰納)の先に真を見いだすのではなく、メタレベルでコンテクストを読み、真を仮定する。これが実際に人が行う推論の方法だろう。
パースが仮定(アブダクション)を強調するのは、人の推論において帰納は存在しないだろうということだ。人はその始めに必ず何らかの仮定(アブダクション)を行う。言語で思考するということはそういうことだ。

                                                                                                  • -

創造的仮定(アブダクション

・メタレベル2 (学習3) 創造的仮定(アブダクション)、修辞(レトリック)
ベイトソンは、人間はさらに学習2のメタレベルを学習することができるという。コンテクストのコンテクストを知る、あるいはコンテクストを再帰的で操作するレベルである。このレベルには、「お笑い(ユーモア)」、アイロニー脱構築などがあるだろう。

たとえば子供はお葬式では静粛にするというコンテクストをまだ学習していない。すなわち学習2が未熟であるためにところかまわず騒ぐ。しかし大人がお葬式で騒ぐという行為にはアイロニーがある。お葬式では静粛にすることが正しいとしりつつ、「あえて」騒ぐ。それによって死者を楽しく見送ろうという配慮がある。あるいは「お笑い(ユーモア)」とは、「あえて」突飛な発言、行為を行うことで、その場の空気(コンテクスト)を破り緊張させ、ツッコむことで場を緩和させ人々の笑いを誘う。
このレベルを、論理的な推論、すなわち真へ至る方法として考えると、仮定(アブダクション)の一種であると考えられるが、レベル1の仮定(アブダクション)が、コンテクストが固定されることで誰もが想像できるレベルであるのに対して、レベル2の仮定(アブダクション)はコンテクストのコンテクストによって推論の可能性が広がる。エーコアブダクションを三段階にわけて、もっとも高次のアブダクションを「創造的なアブダクション」と呼んだが、それに相当するだろう。 当然、誤謬可能性は高まる。
天才は、常人では考えられないことを発想する。しかしそのような「閃き」は神から降ってくるものだろうか。これがメタコンテクストから展開されたとすれば、その発想の過程は常人には追いかけられず、「降ってきたもの」にしかみえない。画期的な発想がある体系と他の体系のクロスオーバーに生まれやすいのも、メタコンテクストに立っているからだろう。
しかしニーチェがいうように創造とは、「小児の無垢」であると考えらると、このような複雑なメタコンテクストが必要か、という疑問がある。たとえば先ほどの「お笑い(ユーモア)」の話にもどれば、人を笑わせるのは必ずしも高度なコンテクストの操作を必要としない。人が転けると周りの人は笑う。これは転けるという非日常がその場の(空気)コンテクストを破り緊張を緩和するためである。すなわちコンテクストとは社会的に共有されるものであり、「小児の無垢」が到来するときに、周りの人がそこに天才の閃きを感じ感嘆すれば、創造は成立する可能性がある。
創造が、オブジェクトレベルであるか、メタコンテクストのレベルであるかは、社会性として決定される。そして往々にして創造的であるかは、事後的に評価されるのである。

孤独の極みの砂漠のなかで、第二の変化が起こる。そのとき精神は獅子となる。・・・わたしの兄弟たちよ。何のために精神の獅子が必要になるのか。なぜ重荷を担う、諦念と畏敬の念にみちた駱駝では不十分なのか。新しい諸価値を創造すること−それはまだ獅子にもできない。しかし新しい創造を目ざして自由をわがものにすること−これは獅子の力でなければできないのだ。
小児は無垢である、忘却である。新しい開始。挑戦、おのれの力で回る車輪、始源の運動、「然り」という聖なる発語である。そうだ、わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。
ツァラトゥストラはこう言った」 ニーチェ (ISBN:4003363922

                                                                                                  • -

修辞(レトリック)による真の開示

メタレベル2が創造的であるかは事後的にしか評価されないということは、それは多くにおいて「おふざけ」でしかないことを示す。現に多くの天才的な発想は最初社会的にまじめに相手にされないのである。
メタレベル2では真へ至る方法としての論理そのものが、解体される可能性があるからだ。それは修辞(レトリック)と近接する。先の例でしめすと、以下のようになるだろう。b’は詩的な表現であり、無限に開かれる。もはや論理的な真へ至ることが目指されていない。そして論理的な真とは、そもそも論理とはなんだろうか、と宙づりにされている。これは単なるおふざけであるが、また論理そのものを懐疑する新たな真への近接ともとれる。

修辞(レトリック)
 c これらの豆はすべて白い。
 a この袋の豆はすべて白い。
  b’ これらの豆はすべて目立ちたがりだ。

後期ヴィトゲンシュタインは、パースのプラグマティズムと多くにおいて近い。パースは「暗闇への飛躍」を「実際的な関わりのある結果(プラグマティック)」に見いだした。パースの仮定(アブダクション)とは実用的な真理が想定され、そこへ近づく行為なのである。パースのプラグマティズムが、その後論理実証主義の「意味の検証理論」(「命題の意味はその検証方法にほかならない」)に影響を与えたと言われるのもこのためである。パースは有用性を目指して、限りなく進歩主義へ近接する。
それに対して、後期ヴィトゲンシュタインは「暗闇への飛躍」に「規則に従う」をおく。人はただ規則に従っているだけだという。飛躍に進歩的な「価値」を見いだす寸前で踏みとどまる。だから後期ヴィトゲンシュタインの「飛躍」は、パース的な仮定(アブダクション)よりも、むしろ修辞(レトリック)に近いだろう。それがヴィトゲンシュタインの前期から後期への跳躍であり、論理の彼岸における新たな真の開示である。

                                                                                                  • -

2 情報化社会は脱構築する、とはどういうことか

                                                                                                  • -

吉永小百合と優香

かつての映画スターへの熱狂は、いまの人気タレントのものとは違った。彼らは一般の人とは明らかに違う特別な存在であった。たとえば「吉永小百合」がスターであるのは、彼女が特別なスター性を持っていたからだ。いわば何度同じ時間(経路)が繰り返されようと、吉永小百合はスターになるのだ。
それに対して、いまの人気タレントは、これほどの熱狂をえられない。かつてのスターはその超越性を守るために情報公開は管理され、神話だけが公開されていた。しかしいまのタレントはもはや情報を管理することは難しく、プライベートなど様々な情報も公開され、人気を獲得した経路までも公開される。それによって人々が「なんだ、ただの人じゃない」ということを知る。あるいは一般人とかわらない親しみやすさが人気であったりするだろう。
たとえば「優香」の人気は、その可愛さ、タレント性などにあるだろう。しかし同じように、あるいはそれ以上に可愛さ、タレント性をもった女性は多くいることをみな知っている。もはや僕たちはかつてのスターのように特別だから人気があると信じることはでず、偶然に人気を獲得しただけという一面を知ってしまう。すでにスター性は脱構築されているといえるだろう。

                                                                                                  • -

ゲーテル的脱構築

これを、東が言う「ゲーテル的(否定神学的)脱構築」として考えると、ある人が「スター」として熱狂されるのは、偶然その人がが「スター」の位置にいたからだ、ということになる。そして「スター」はシニフィエなきシニフィアン、超越論的シニフィアンである。

レヴィ=ストロールにとっては、交換のシステム、言語のシステムを含む人間の織りなすシステムはすべからく「一挙」に与えられる。世界は一挙に意味があるものとなる。・・・したがってこの見方に従うなら、「マナ」があるから人々がまず贈答や返礼の義務を感じ、次に実際にそれを行うという因果的説明は的外れだということになる。レヴィ=ストロースは、そうした「マナ型の概念」の正体を「浮遊するシニフィアン」だと喝破する。それはシニフィエをもたないシニフィアン、すなわち「内容のない形式」、「純粋の象徴」なのであり、だからこそ、さまざまな内容を詰め込むことができるのだとするのである。
「貨幣と精神」 中野昌宏 (ISBN:4888489785

                                                                                                  • -

デリダ脱構築

それに対して、デリダ脱構築として考えれば、ある人が「スター」になる経路では、その人が「スター」にならなかった可能性(誤配可能性)があった。人々が「スター」に特別性を見るのは、誤配可能性を転倒されてあたかもスターであるように考えてしまう。東がいう「散種の多義性化」という転倒である。

かつてアリストテレスが名指しされた。名「アリストテレス」は、そこからさまざまな経路を通り伝達される。それゆえ名「アリストテレス」はいまや、複数の経路を通過してきた複数の名の集合体である。・・・名「アリストテレス」にはつねに訂正可能性が取り憑く。
固有名の単独性を構成し、かつ同時に脅かすその訂正可能性を、・・・「幽霊」と呼ぶことができるだろう。名「アリストテレス」はつねに幽霊に、つまり配達過程で行方不明になってしまった諸々の「アリストテレス」に取り憑かれている。・・・その経路を抹消して主体の前にある(=現前)固有名から思考するときにこそ、ひとは固有名の剰余、単独性を見いだす。すなわち単独性は幽霊たちを転倒することで仮構される。
存在論的、郵便的」 東浩紀 (ISBN:4104262013

                                                                                                  • -

共時的偶然と通時的偶然

どちらの脱構築にしろ、あるのは偶然性の混入である脱構築という能動的な行為ではなく、情報化社会における大量の情報が偶然性を暴露することで、脱構築が行われてしまっている。

これら二つの脱構築をまとめと、それは偶然の進入の違いと言えるだろう。

ゲーテル的脱構築・・・共時的脱構築。共時の偶然(構造上の位置の偶然)に注目することで解体する。恣意性。
デリダ脱構築・・・通時的脱構築。通時の偶然(経路上の誤配(偶然))に注目することで解体する。事後性。

印象として、「吉永小百合」を説明するときにはゲーテル的脱構築、「優香」を説明するときにはデリダ脱構築がしっくりくるように思うのは気のせいだろうか。たとえばゲーテル的脱構築で説明されるのは「貨幣」である。ただの紙切れが「貨幣」として人々に欲望されるのは、超越論的シニフィアンの位置を占めているためだ。その位置を占めるものは何でも良いが、たまたまあの紙なのである。
そして「優香」をゲーテ脱構築では説明するのは、「強すぎる」ような気がする。いやそれはボクがそれほど優香ファンではないからかもしれない。熱狂的なファンならば納得するのかもしれない。
デリダ脱構築は「ネットワーク(伝達経路)」で説明されて、ネットが発達した高度情報化社会では、ネットワーク経路という速さに関係する通時的な偶然(デリダ脱構築)の方が実感として近いことが多いように思う。それに対して、「吉永小百合」、「貨幣」のような強力な神性はネットワークとして説明されると、その強い引力がイメージされずにゲーテル的脱構築共時的構造)の方がイメージしやすい。

                                                                                                  • -

3 快感を訓練するとはどういうことか

                                                                                                  • -

僕らはどのように歩いているのか

ボクたちは日々当たり前のように歩いている。坂道でも、凸凹道でも、足下に障害物があっても、苦もなく歩いている。走り、飛び跳ねることも問題がない。しかしロボット工学が教えることはこのような当たり前のことがとても複雑な行為であるということだ。僕らはどのように歩いているのか。どのように歩いているか、説明などできない。「ただ歩いているだけだ。」
しかし僕たちは生まれたときから歩けたわけではない。人の子供は生まれて1年程度で立ち上がり歩き始めるが、それから一人前に走りまわるnは数年かかる。あまりに当たり前となるが、歩くとは訓練する行為である。
では、二足歩行をしない人間の共同体は存在しえるのか。恐らくいないだろう。人間は二足歩行する動物である。それは他の動物のように4足歩行するよりも二足歩行することが効率的であるように身体構造によって拘束されている。
しかしいま一般化されている歩き方も一つの訓練であるという話がある。あるいはボールを投げるときに「女投げ」というものがある。野球などの訓練を行ったことがない人がボールを投げるときに、「正しい」投げ方をできない、ということだ。

ナンバ走りとは)右手と右足、左手と左足を同時に出すような感覚の走り方。古来から日本人の歩き方や走り方はこうであったともいわれている。江戸時代の飛脚は、エネルギーを費やさないことから、この走り方を用いていた。日本では、明治時代の初期に腿を高く上げて、腕を大きく振るという西洋式の走り方、つまり右手と左足、左手と右足を同時に出して体をねじりながら走るという走り方や歩き方が学校で推奨されるようになってから、この「ナンバ走り」は排除されてきた。
http://dic.yahoo.co.jp/newword?ref=1&index=2004000341

                                                                                                  • -

ほんとうに「顔射」は気持ちがいいのか

このように当たり前であるようなことも人の行為のほとんどは訓練によって獲得するものである。たとえば性行為もそうだろう。正式に教育されるわけではないある種の現代の秘技は、アダルトビデオなどを見て覚えると言われる。だからたとえば「顔射」などのように、見る人が興奮するために作られたアダルトビデオの性行為が、(見る人などいない)実際の性行為で行われるという勘違いが起こる。
しかしそもそも正しい性行為など存在しない。「顔射」も一つの性行為である。そしてそれだけではなく、アダルトビデオのような行為を行うことが快感であるのだ。快感は身体に備わる性感帯を刺激するという刺激−反応のような機械的な行為ではなく、そのような状況(コンテクスト)を切り離せない、ということだ。
フロイト精神分析において、性関係に注目したのは、それが生理的なものと「ずれ」ているからだ。生理的なもの=正しい性行為とは生殖を目的とすることである。しかし人間の性関係は必ずしも生殖と関係せずに、人それぞれにフェチ(倒錯)がある。そこでは快感そのものが目的化されている。

性対象倒錯の傾向が多数の人々にみられることが確認されたために、性対象倒錯の素質は人間の性欲動の根源的で普遍的な素質であると考えざるをえなくなった。成熟とともに身体的な変化が発生し、心的な抑圧が行われるようになるため、この倒錯的な素質の中から、正常な性行動が発達してくると考えるべきなのである。
この根源的な素質は、小児期において確認できるのではないかと考えられた。そして性欲動の方向を制限する力のうちでも、羞恥心、嫌悪感、同情、道徳や権威など、社会的に構成された要素が重要であると考えられる。・・・根源的な素質からの<ずれ>がもつ意義を特に重視したが、この素質の<ずれ>と生活における体験の影響は対立するものではなく、互いに協力し合うと想定せざるをえないのである。
「エロス論集 性理論三編」 ジークムント・フロイト (ISBN:4480083456

たしかに性感帯の位置のようなものは身体構造からの拘束はあるだろうが、その刺激部が性感帯への刺激→絶頂(エクスタシー)というのは一つの神話であり、それは訓練との関係で考えなければならない、ということだ。

性感帯とは、身体のうち、刺激を与える事によって性的な快感を得やすい部分を指す。性感帯は男女を問わず個人差があるが、粘膜が体外に出ている部分と、静脈が皮膚に近いところにある部分は性感帯であることが多い。
女性の場合、陰核、陰唇、膣口、乳首、尿道口、肛門、Gスポットなど、男性の場合、亀頭、陰茎、陰嚢、肛門、会陰、乳首などが一般的な性感帯である。一般的ではないが、女性ではポルチオ、男性では前立腺も性感帯と言われる場合がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E6%84%9F%E5%B8%AF

                                                                                                  • -

「規則に従う」

ヴィトゲンシュタインが日常会話研究において、言語コミュニケーションを「言語ゲーム」とよび、そしてそのゲームは「規則に従う」と考えた。ここで重要なことは、人は規則を解釈してそれに従うのではなく、「規則に従う」ということを原単位にして言語コミュニケーションを行っている、ということだ。「規則に従う」はコンテクスト(状況)も含めてどのように振る舞うべきかを、実践的な訓練で身につけていくものである。

規則の表現−たとえば、道しるべ−は、私の行為と如何に関わっているのか、両者の間には如何なる結合が存在するのか?・・・私はこの記号に対して一定の反応をするように訓練されている、そして、私は今そのように反応するのである。(198)
規則の或る把握があるが、それは、規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用において我々が「規則に従う」と言い「規則反する」と言う事の中に現れるものである。(201)したがって、「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践なのである。(202)
 「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」(217)
『哲学的探求』読解 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン (ISBN:4782801076

僕たちは第1言語として日本語をあまりに当たり前につかっているのが、第2言語を習得することは困難を伴う。そしてよく言われるのが「習うより慣れろ」、「(第2言語を母国語としてもつ)外人の彼女を持つことがよい」などと言われる。なぜそのように話すのか考えるよりも、、「規則に従う」ことの実践的な繰り返し訓練することが重要であるということだろう。

                                                                                                  • -

「無意識は言語のように構造化されている」

歩くことや性行為もひとつの「規則に従う」例であるとすれば、行為とは言語のように「規則に従う」といえるのではだろうか。ここでいう「言語のように」とはある種の構造化である。それはラカンがいう「無意識は言語活動(ランガージュ)のように構造化されている」ということととても近いように思う。
そもそも、後期ヴィトゲンシュタインラカンは近い関係にある。言語(シニフィアン)−意味(シニフィエ)の関係を懐疑している、すなわち「言語コミュニケーションは失敗するものなのに、なぜ成立しているのだろう」ということをともに思考した。そしてラカンの解が、「無意識は言語のように構造化されている」、ということだ。
ラカンの無意識は「大文字の他者」(象徴界)と呼ばれるように、超越論的である。簡単に言えば、「正しさ」とは「みんな(共同体)」がそのように振るまうだろうという信用によって支えられているということだ。

このパロールに創設的な価値を持たせているのは次のことです。絶対的な他者(A)という限りでの他者がそこに存在しているということです。絶対的とは、つまり、この他者(A)は再認されてはいるが、知られてはいないということです。
いわゆるパラノイア的認識は、私が鏡像段階から出発することによって定義づけを試みた一次的同一性を通して、嫉妬という敵対関係の中で打ち立てられる認識です。対象というものの根拠をなすこのような競合的、競争的な基盤が乗り越えられるのは、まさに第三者と関わりをもつ限りでのパロールにおいてです。パロールは常に、契約・同意であり、皆が承認し同意するものです。たとえば、これは君のもの、これは私のもの、これはこれ、これはあれという具合に。
「精神病 上」  ジャック・ラカン (ISBN:4000011758

大文字の他者との契約、同意、承認は、ヴィトゲンシュタインの「規則に従う」にとても近い。それは「命令」であり、習慣(制度)である。無意識とは社会的な「掟」として与えられるということだ。掟にはなぜそうであるのか、という意味以前にただ規則・命令として同意させられている。

或る規則に従う、という事は、或る命令に従う、という事に似ている。人は、命令に従うように、訓練され、その結果命令に或る一定の仕方で反応するようになるのである。(206)
規則に従うという事、報告するという事、命令を与えるという事、チェスをするという事、これらは習慣(使用、制度)である。(199)
『哲学的探求』読解 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン (ISBN:4782801076

                                                                                                  • -

ヴィトゲンシュタインの生理学

ただヴィトゲンシュタインの無意識はその「掟」の根拠を超越論に求めない。ではどこに求めるかといえば、実在/経験論的であり、生理学的なもの、たとえば学習とシナプスの関係に近いのかもしれない。訓練をすることで、意識的で未熟であったある行為が、生理に無意識に、反射的に完成した形で行われる。その訓練の極限にスポーツ選手の超人的なプレイなどがあるのだろう。現にヴィトゲンシュタインの言語論はその後の心理学や認知科学に大きな影響を与えた。
言語コミュニケーションにもどれば、ある人が他者に対して、ある状況(コンテクスト)おいて「規則に従い」発話する。しかし状況(コンテクスト)はその初めから他者と共有されているわけではないので、そこにズレが生まれれば、修正していく、というようなものになるのだろう。

大脳皮質で起きる変化の主役はシナプスであると考えられています。Kleimら(2002)は学習による変化がシナプスでおきていることを示すデータを発表しています。彼らはラットにリーチング(到達)課題を訓練し、大脳皮質の運動野のマップを訓練した群と訓練しなかった群で比較しました。その結果、リスザルの場合と同様、訓練により手指の領域の拡大が見られました。彼らはさらに運動野の組織像を調べました。訓練の結果、・・・1個の神経細胞あたりのシナプスの数が手の領域で有意に増加していました。学習によって細胞あたりのシナプスの数が増えることが確認されたわけです。
 http://www.biological-journal.net/blog/2007/03/000182.html

                                                                                                  • -

無意識の三層構造

ラカンの無意識と、ヴィトゲンシュタイン的な無意識の関係は、三層構造になっているということだ。

1) 先天的な生理構造
2) ヴィトゲンシュタイン的な無意識・・・訓練による生理的な条件反射的
3) ラカンの無意識・・・大文字の他者=超越論的な共同体への信用

再度、性行為の快感にもどれば、体のどの部分に刺激を受けやすい神経が集まっているかは、1)先天的な生理構造である。しかし実際に性行為による快感は刺激部→快感のような機械論に従わず、状況(コンテクスト)を含んだ実践的な訓練によって、「快感の感じ方」が身体に刻み込まれる。これが2)ヴィトゲンシュタイン的な無意識である。
さらにラカンはもっと柔軟であり、必ずしも実在的な訓練がなくても(超越論的な)信頼があればよい。たとえば社会のタブーが無意識化されていれば、そのようなタブーを犯す(だろう)行為に人々は興奮する。性行為は(みなが)禁止している(だろう)から快楽なのだ。ここでは実際に禁止されている必要はなく、主体が信じている(超越論的)なものでしかない、ということだ。

歩く、走るという行為を考えるときには、「大文字の他者」は働らかずに、訓練による生理的な条件反射のように感じる。しかし散歩のようなコンテクスト(状況)がキーになるとラカン的になる。
しかしどちらにしろ、ラカンヴィトゲンシュタイン的な無意識は相補的に働いているとともに、分けて考えることが難しいのは、たしかだろう。強いて言えば、ヴィトゲンシュタイン的な無意識の方が「硬い岩盤」という生理に深く刻まれているというしかないだろう。そのような「堅い岩盤」はラカンでは大文字の他者の領域(象徴界)ではなく、現実界であると線引きされている。ヴィトゲンシュタインが超越論を「語りえぬもの」としたように、ラカンにとって生理学的ものは「語りえぬもの」なのである。結局、二つの無意識はこの線引きの「倫理」の違いでしかないとも言える。

                                                                                                  • -

メタ言語(制作)図式 

先の「アブダクションとレトリックと真理」しめしたメタ言語(制作)図式に対応させてみる。言語ゲーム、すなわち人間の一般的な言語コミュニケーションは、訓練によって「規則に従う」ということで、オブジェクトレベル1条件反射のようであり、しかしそれ以前に状況を読む必要があるためにメタレベル1でもあり、メタレベル1.5とした。ただしラカンの言語論は、よりコンテクストに柔軟であることから、メタレベル2とした。

メタ言語(制作)図式」 (◎はコミュニケーション、◇は制作)

 オブジェクトレベル0 (学習0) 
     ◇演繹(ディダクション)・・・論理、アルゴリズム、数学(イコン、インデックス)
     ◎先天的な生理構造、生物反応(コミュニケーション)
 オブジェクトレベル1 (学習1) 
     ◇帰納(インダクション)
     ◎条件反射(パブロフの犬
 メタレベル1 (学習2) 
     ◇仮定(アブダクション)・・・仮説検証、シンボル
 メタレベル1.5 
    ◎言語ゲーム・・・ヴィトゲンシュタイン的な無意識
 メタレベル2 (学習3) 
     ◇創造的仮定(アブダクション)・・・天才的な閃き
     ◇修辞(レトリック)・・・アイロニー、詩、物語り、お笑い、脱構築
     ◎ラカンの言語論(無意識)

                                                                                                  • -

4 「成功した性関係」とはどういうことか

                                                                                                  • -

パースのプラグマティズムマキシマム

パースの言語論における功績は、言語記号−概念の結びつきに、「裂け目」を入れたことだ。記号論では言語記号から意味(概念)が決まるには裂け目があり、そこに解釈項を導入することで、意味が決定される、と言うことだ。
そしてパースはこの「裂け目」に対して、徹底的にポジティブである。それは、パースが測量技師として働いていたことが大きく影響していると言われていわれる。測量では真に対して必ず誤差が出る。そして誤差とは測量の偶然性(不確実性)である。パースはすでに統計学も身につけ、誤差が正規分布で現れるように、管理されるものであることを知っていた。
そしてパースが提唱したプラグマティズムもこの延長線上にある。この裂け目を飛躍することを実利的(プラグマティック)にとらえる。むしろ「裂け目」があり、飛躍できるから人は実利的(プラグマティック)な結果を出すことができる。パースが命題推論に導入した仮定(アブダクション)は従来の帰納よりも、より速く演繹へ至るための飛躍なのである。

パースのプラグマティズムマキシマム(概念を明晰にする方法)
私たちの概念の対象が、実際的なかかわりがあると思われるどのような結果をおよぼすと私たちが考えるか、ということをかえりみよ。そのとき、こうした結果にかんする私たちの概念が、その対象にかんする私たちの概念のすべてである。
プラグマティズムの思想」 魚津 郁夫 (ISBN:4480089624

                                                                                                  • -

切り裂き魔 ウィトゲンシュタイン

このような第三項(裂け目)の研究は、言語論では、統語論、意味論に並んで、語用論(プラグマティック)といわれる。パースを継承するプラグマティズムは言語論より社会論として展開したこともあり、一般的に語用論は後期ウィトゲンシュタインを継承している言語行為論が中心となる。
後期ウィトゲンシュタインがどの程度プラグマティズムの影響を受けたかわからないが、ウィトゲンシュタインは「暗闇への飛躍」と呼んだように、「裂け目(断絶)」に対する思考はパースに比べてずっとラディカルである。「アプリオリな総合判断」と思われていた「数学」や、生理現象に近い「痛み」、さらには認知現象に近い「アスペクトの認知」まで飛躍があることを示す。人の認識行為すべてを切り裂き、そこに「断絶」が存在することをしめした。

私が私の感覚を同定するのは、もちろん基準に基づいてではなく、私が人々と同じ表現を用いる事によって、である。しかしそれによって感覚に関する言語ゲームは、実は終わるのではなく、始まるのである。(290)
私が私自身について、私は私自身の場合からのみ「痛い」という語が何を意味するかを知るのだ、と言うとすれば、−私は他人についても、彼は彼自身の場合からのみ「痛み」という語が何を意味するかを知るのだ、と言わなければならないのか?そして、そうであるとすれば、如何にして私は一つの場合をそんな無責任に一般化できるのか。(293)
『哲学的探求』読解 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン (ISBN:4782801076

                                                                                                  • -

「ドラマ(劇)、ゲーム、テクスト」
 
ウィトゲンシュタインはただ切り裂くだけではなく、それがいかに繕われるかを思考した。それが「言語ゲーム」論である。しかしその射程の広さから、本質的にこれがなにを意味するのかと、いまも言語論のみならず、認知科学、政治など様々な分野に波紋を広げている。
当初ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と言うことで、コミュニケーションを言葉通りに「ゲームのようなもの」と考えられていた。ゲームとはルールによって限定された領域において、行為を「訓練」によって身につけることが重視される。
しかし検討を進めるうちにより、「劇」のようなものとして深まっていく。「劇」の一場面を考えると、そこがどの時代で、どの年代で、そのときの社会的な背景であり、登場人物が社会の中でしめる立場、そしていまこの場面での関係性など「重層的な」関係性がある。そして「劇」ではゲームのような明確なルールはなく、可能性は無限に広がり、コンテクスト(状況)に合った行為を訓練するだけでは乗り切れない多様な場面がふえる。

『哲学的探究』冒頭での言語ゲームとは「ある特定の場面である表現の使い方と行動の型」と大きく越えるものではなかった。ともすれば我々はこの貧弱は言語ゲーム概念がウィトゲンシュタイン言語ゲーム概念そのものであると理解しがちである。しかしそれは彼の「言語ゲーム/劇」概念の進化を見誤ることである。独我論・私的言語・私的対象に関する批判的思考を通じ、ウィトゲンシュタイン言語ゲーム概念は飛躍的に拡張され、単に一定の状況下でも発話行動だけではなく、それを一体化した感情、意図、態度をも含む重層的なものとなったのである。  「ウィトゲンシュタインはこう考えた」 鬼界彰夫 (ISBN:4061496751

人類学者のギアーツは、このような流れを受けて、コンテクスト分析に「ドラマ(劇)、ゲーム、テクスト」という3つのファクターが必要であると提唱している。そしてこのようなドラマ(劇)という大きな射程のコンテクスト分析(上演論)で有名なのが、ゴフマンである。

ゴフマンに従って「トークを演壇の出来事の一部」としてみるならば、日常会話で普通に語られる過去のエピソードもトークの呈示のなかに埋め込まれたいわば劇中劇である。・・・「演劇家が、どんな世界でも舞台の上におくことができるように、私たちはいかなる参加フレームワークや作成フォーマットでも私たちの会話のなかで演じる事ができる」のである。
ここでコンテクストとなるのは、文化的に共有された解釈枠組みであるフレイムである。人々はあらかじめ「共有されていると思われる膨大な文化的前提をたずさえているのである」突然に埋め込まれるトークがもたらす飛躍や断層は前後の会話とは切り放された別個の解釈フレイムをコンテクストとするトークを生み出す。にもかかわらず、話し手と聞き手との間で、たとえば話し手がフレイムを自由奔放に転換したトークを行おうとも、それが聞き手に理解可能になるとすれば、それは両者の間にフレイムが文化的知識としてあらかじめ共有されており、そのためにそれが転換されても、聞き手も同時にその展開に追随することでそれによってトークの意味解釈の飛躍をこなす事が可能だからだ。
「ゴフマン世界の再構成」 トークと社会関係 阪本俊生 (ISBN:4790704033

人は適応の無限後退(つまり思索)に立ち往生することもなく、互いの前提をある意味では無根拠に信じて−信じているかどうか、その必要があるかどうかさえ意識せずに−「社会的出会いの世界」に乗りだしていく。いい例が「儀礼的無関心」だろう。とりわけ匿名的な焦点のない集まりで、人は、周りの動作と外見に互いのラインを一瞥し、万事うまくいっていること、互いに前提が自分の前提とするに足りるものであることを確認しては、つぎの瞬間、自分のラインにもどる。悪意や敵意、恐怖や羞恥心がないこと、進行しつつある行為が表出/読解されるラインそのままであることが確認される。共在のなか、事実として互いに儀礼的無関心を運用しあっていることを相互に確認しあうだけで、それぞれの運用の実効性が安心されることになる。・・・人はただ他の人たちと居合わせるという事実にいて、それだけで既存のプラクティスを採用−運用する。いや、せざるをえない。その結果として、共在の秩序が行為の場面、場面に形成され続けているのだ。
われわれの経験とは、われわれの経験している通りのものではない。人は、慣習的プラクティスの網のなかにいて、ここかしこでこれを作動させては自分の信念を証拠だてる経験を得、また眠りにもどる。ときたま起こるさまざまなフレイミングの誤作動や破綻は、場のリアリティを揺るがし、むしろそれぞれの場のリアリティのプラクティカルな構成を強化・確定する方向に働く。当面の経験を離脱しようとするにせよ、二次的適応や自己欺瞞に従事しようとするにせよ、あるいはフレイムを掃除/確認したり変容させようとしたりするにせよ、経験のなかにいる限り、人はフレイミングの循環を逃れることができない。
「ゴフマン世界の再構成」 <共在>の解剖学 安川一 (ISBN:4790704033

                                                                                                  • -

ウィトゲンシュタインの超越論

ドラマ(劇)では、ゲームのルールだけではなく、人々に「共有されていると思われる」「信念」が重視されることになるだろう。そしてここで、「ラカンの無意識」(象徴界大文字の他者)に近接する。
ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」をラカン的な超越論(大文字の他者)として理解することはすでに一般的である。後期ウィトゲンシュタイン解読のクリプキも「規則のパラドクス」として、そこに共同体の必要性を示している。しかしクリプキの共同体は実在する共同体である。それに対して大澤はラカンに近い超越論を展開し、「第三の審級」という概念を導き出す。
その他、多くの人が「言語ゲーム」は、「みんな(共同体)」がそのように振るまうだろうという信念によって支えられている、と考えている。そして、ラカン派のジジェクにおいては当然のことだろう。

結論を述べよう。懐疑的解決は、規則と行為について次のような構図を提示した。つまり、規則の共有があるがゆえに、自己と他者との行為の一致が生ずるのではなく、(クリプキがいうように)他者(共同体)によって一致していると承認されないような行為は規則に従っているとみなされないのだ、と。われわれは、この構図を修正すべきであると提案する。行為の妥当性を承認する他者は、特別な他者、そう「第三者の審級」でなくてはならない、と。・・・その他者は、第一次的には、特殊な超越性を帯びた他者−第三者の審級−なのである。・・・私の行為が第三者の審級に承認されているはずであるとの認知を基礎にして、派生する。
「意味と他者性」 大澤真幸 (ISBN:4326152966

象徴的なレベルでは、「手紙はかならず宛先に届く」という命題は、次のような一連(ヴィトゲンシュタイン的な意味の「一族(ファミリー)」)の命題を凝縮したものである−「抑圧されたものはかならず回帰する」、「枠組みはつねにその内容の一部によって枠をはめられている」・・・究極的には、これらはすべて同じ一つの基本的前提、すなわち「メタ言語はない」という前提のヴァリエーションである。
「汝の症候を楽しめ」 スラヴォイ・ジジェク (ISBN:4480847081

                                                                                                  • -

「成功した性関係」とは

「成功した性関係」とはどのようなものだろうか。性関係を例に上げるのは、コミュニケーションの中でも学習しにくく、失敗することが多いという「断絶」が強調される領域であるからだ。
ドラマ(劇)としての「成功した性関係」とは、文化的な重層的な信頼関係を元にする。性関係は多くにおいて、男尊女卑的な場である。女性が乱れる事は慎まれる。あるいは逆にそれが裏切られるタブーにおいて快楽を生む、とも言える。あるいは、女性は性関係においてムードを大切にするというのもフェミニズムの対象となるのだろうか。さらに最近ならば、性関係はアダルトビデオとの関係が深いだろう。アダルトビデオのような性関係が成功した性関係となるのかもしれない。
ゲームとしての「成功した性関係」は、その性行為の現場に関係する。たとえばA、B、Cという段階が達成されること。あるいはコスプレなどはドラマ(劇)を演じるのであるが、その場だけの切り替えられたドラマ(劇)は一種のゲームである。このようなフェティシズムはゲームの次元であると言えるだろう。そしてフェティシズムが互いに楽しめた(と感じた)時が成功だろうか。
テクストとしての「成功した性関係」は、性行為のより技巧的な問題だろうか。性行為におけるうまい愛撫の仕方、うまい腰の振り方?など。
そしてこれらのコンテクスト(状況)から、できるだけ切り放された「成功した性関係」。これは生物の性行為である。発情期において性的な「シグナル」を出し合って、性行為を行い、生殖する。ラカンが「性関係は存在しない」というとき、人はこのような生物的な性行為は行えない、コンテクストから切り放されて性行為(コミュニケーション)を行う事はできないということだ。
そして「成功した性関係」はこの生物の性行為にしかない。コンテクストに依存した性関係に正解などない。それは成功しているだろうという無意識の「信念」にのみ支えられている。しかしそれを単なる戯れと見てはいけない。先に行ったようにこのようなコンテクスト依存は、性感帯においても現れる。快感は初めから生理的にそこにあるのではなく、経験、訓練の中で開発されるのである。「イク〜」という快感は「もちろん基準に基づいてではなく、私が人々と同じ表現を用いる事によって、である。」

                                                                                                  • -

メタ言語(制作)図式 

このようなコンテクスト論は、先にメタ言語(制作)図式では、メタレベル2に対応するだろう。言語ゲームが「ゲーム」的にはメタレベル1、「ドラマ(劇)」にはメタレベル2といったところだろうか。

メタ言語(制作)図式」 (◎はコミュニケーション、◇は制作)

 オブジェクトレベル0 (学習0) 
     ◇演繹(ディダクション)・・・論理、アルゴリズム、数学(イコン、インデックス)
     ◎先天的な生理構造、生物反応(コミュニケーション)
 オブジェクトレベル1 (学習1) 
     ◇帰納(インダクション)
     ◎条件反射(パブロフの犬
 メタレベル1 (学習2) 
     ◇仮定(アブダクション)・・・仮説検証、シンボル
 メタレベル1.5 
     ◎「ゲーム」的言語ゲーム
 メタレベル2 (学習3) 
     ◇創造的仮定(アブダクション)・・・天才的な閃き
     ◇修辞(レトリック)・・・アイロニー、詩、物語り、お笑い、脱構築
     ◎「ドラマ(劇)」的言語ゲームラカンの言語論(無意識)

                                                                                                  • -

2/3へ http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20150828#p1