プロテスタンティズムと日本人の性倫理 (2011-2014)  2/2

 1 なぜ倫理は「進歩」するのか
 2 なぜ日本人の根性論は西洋人から非難されるのか
 3 なぜ日本人は裸を見せることが恥ずかしくなったのか 恋愛と性欲の誕生
 4 なぜ現代日本人は童貞を大切にするのか
 5 儒教的父権主義からキリスト教的純愛主義としてのロリ萌えへの逃避

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4 なぜ現代日本人は童貞を大切にするのか

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キリスト教の純愛思想

 草食! 童貞36・2%彼女いない61・4%
 http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20111126-868754.html
 国立社会保障・人口問題研究所が25日、通称、独身者調査と呼ばれる「出生動向基本調査」を発表・・・性経験に関しては、20〜24歳では「経験なし」が男女ともに4割以上。35〜39歳でも男性が27・7%、女性は25・5%だった。[2011年11月26日9時1分 紙面から]

 なぜボクたちは禁欲的なのか。その起源の一つがキリスト教だ。日本には明治維新以降、近代化のために、ドミノ倒しのように一気に社会が禁欲にかわった。キリスト教の禁欲的な道徳はやがて近代日本も席巻し、現代のボクたちの生活のあり方を作っている。たとえば現代次々作られる恋愛ドラマの根底にあるのは、キリスト教の一夫一婦制の純愛思想が原型だ。
 江戸時代の日本人にはこのような純愛思想はなかった。一夫多妻制だったし、性交も解放されていた。これは日本人が淫乱だったということではなく、そもそも豊饒宗教では性は豊作と結びつき、開放的であった。

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現代日本の童貞禁欲主義とロリ「萌え」への回避

 現代の童貞を特別視する考えも、明治以降に輸入されたキリスト教文化の影響から来ている。現代の童貞率が高いのはその影響がある。現代、童貞を捨てることはそんな難しいことではない。風俗へ行けば終わりだ。しかしあえて風俗に行かないのは、そこに童貞が神聖なものであると考えがあるからだ。愛する人との純愛の先に童貞を捨てることが正しいというキリスト教的愛の禁欲がある。
 童貞が蔑視される本質は性体験がないということではなく、愛する人との純愛を経験していないためだ。だから風俗で童貞を捨てても素人童貞のような新たな蔑視の言葉が作られている。「リア充」とは愛する人との純愛を経験している人という意味である。
 現代は風俗嬢の純真みたいなことが起こっている。毎日、売春しているから汚れているわけではなく、それとは別の次元でメンタルな純粋主義がある。性情報が氾濫し埋没するから、より純粋なものの価値が高まる。童貞がネットの性情報にまみれながら、童貞というラインで線引きして純潔を守るのは面白い傾向だ。純愛は純愛ドラマなどメディアであまりに神格化されすぎ、ドラマのような恋愛をしなければならないという強迫観念がある。
 純愛への敷居が高くなりすぎて、純愛はオタクの「萌え」へ回避されている。萌えも純愛主義の系譜から来ている。より純粋な愛を突き詰めたところに幼児がいる。幼児はもっとも性的なものから遠い純粋で神聖は存在だ。しかし幼児に神聖な純粋さを見るのは、日本人的な考え方だろう。

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西洋人の過剰な幼児性愛嫌悪

 西洋の方が性に寛容だと考えている日本人は多いだろうが、いまもキリスト教の性倫理は強く生きている。現代ではキリスト教圏でも男女の性関係に寛容になっているが、それは大人同士の性関係、すなわち結婚(生殖)を目的とする正常な性関係という建前が維持されている。
 たとえば少し前にタイガーウッズの浮気が問題になったが、多人数との性関係は精神的な病として治療が義務づけられた。日本では単なる女好きのろくでなしで終わるだろう。だから生殖を目的としない幼児性愛も禁止されるとともに精神的な病とされる。マイケルジャクソンにまとわりつづけた幼児性愛疑惑によるバッシングがなぜあれほど過熱するのか日本人にはよくわからないだろう。

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なぜBABYMETALは西洋で一瞬で売れたのか

 http://natalie.mu/music/news/120722
 BABYMETAL、ヨーロッパツアー初日パリ公演で大盛況の幕開け
 BABYMETALが7月7日(現地時間)にイギリス・The Forumでワールドツアー「BABYMETAL WORLD TOUR 2014」のロンドン公演を開催。この模様が東京・Zepp Tokyoで生中継された。
 BABYMETALは“メタルレジスタンス”としての活動を海外にも広めるために“異国の地へと召喚”され、今月よりワールドツアーを実施中。これまでにフランスやドイツ、さらにイギリス・ネブワースで行われたロックフェス「Sonisphere Festival UK」でライブを繰り広げている。今回のロンドン単独公演はチケットがソールドアウトするなど、現地でも大きな注目を集めたライブとなった。

 BABYMETALというコンセプトはとても良くできている。ロリとメタルというミスマッチのコンセプトが面白い。面白いことに、ロリもメタルも様式化された退廃的な文化という共通点があり、組み合わせてみると相性がよい。
 なんといっても、ともに西洋文化でありながら、西洋からはでてきにくい。なぜなら現在、西洋ではロリに関する倫理がきびしいからだ。日本にはオタクというロリ文化が発達して、クールジャパンのメインになっている。きゃりーぱみゅぱみゅもアニメもロリを基本にしている。西洋では禁止されていた故に、輸入しやすい。彼女たちがまだ十代というのは、西洋でよく倫理団体に叩かれないなと思う。それぐらいに西洋には衝撃があるだろう。ベイビーメタルに一瞬で火がついたのは、このような背景があるとともに西洋ではメタルオタク文化が脈々とあるためだ。それとともに彼女たちのパフォーマンスが素晴らしい。日本のアイドル文化の成熟が小さい頃からのパフォーマンスを育てたのだろう。
 クールジャパンとしてのすごくよいコンセプトであり、まだまだ人気がでるだろう。もしかすると日本発の一番売れたバンドになる可能性が高い。西洋では抵抗があるアイドルを見事に売り込んだ。はたしてこれをもとに西洋に日本の「萌え」は伝わるのか。

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5 儒教的父権主義からキリスト教的純愛主義としてのロリ萌えへの逃避

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ロリ萌えは社会的なストレスの発散を根に持つ

 よくロリ萌えに対して、童貞、彼女いない、セックスレスなど性的欲求不満で語られるが、そうじゃないと思う。極端にいえば性的不満とロリ萌えは別腹ではないか。ロリ萌えは社会的なストレスの発散を根に持ち癒しに近い。子供やペットなどに癒されることと連続性をもつ。でもそもそも人間に動物的な純粋な性的欲求があるわけではないので、性的要求不満とストレスは切り離せないが。
 

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男性の純愛信仰はロリ萌えへ向かう

 明治以降の急激な西洋化推進の中で、西洋の禁欲主義、プロテスタンティズムを取り入れてきた。明治以降、日本人は性を管理してきた。まずは女性の貞操である。結婚するまで性交渉はせず、結婚後は夫に操を通す。これは純愛というキリスト教的物語を通して広がる。白馬の王子様、赤い糸など。
 男性にも同様な倫理はあったが、現実的には合法的な売春が行われ、男尊女子であった。しかし面白いのは戦後、売春が違法となり、徐々に男性にも貞操文化が浸透していく。女性ほどに社会的に貞操を求められていないにも関わらず、純愛文化は男性にも浸透していく。運命の女性を見つけドラマのような充実した恋愛を達成したい。この高いハードル故に性経験しない男性が増えている。このような現象は日本に特徴的ではないだろうか。
 そして純愛信仰による性的禁欲者たちが向かったのがロリ萌えである。彼らが純愛を達成するために処女を求めるのはわかる。それが幼児へ向かうのは究極の処女であり、純化した存在であるためだ。

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男子は白馬の王子様からロリ萌えへの逃亡する

 女子も純愛信仰で、男子も純愛信仰なら相性がちょうどよくハッピーエンドで、わざわざロリ萌えへ向かうことなどないじゃないか。しかしそう簡単ではない。
 オタクという人たちがなぜかつて性的に抑圧された女性が逃避するための純愛信仰に向かったのか。それはまた「男性性」からの逃避があるのだろう。明治以降の男女の倫理は一方で西洋キリスト教、もう一方で武士道的儒教の影響を受けてきた。教育勅語に有名なように武士道的儒教は「男子たるもの」という男尊女卑、父権主義を進めた。
 オタクが自らの自虐も含めてネガティブなイメージがあるのは、いまだに儒教的コンテクストが生き残っているからだ。男性の性関係の多さはステータス(甲斐性)である。男性の純愛信仰など「女の腐ったの」だ。
 このような社会的な男性性のコンテクストに対するストレスから、逃避としての純愛信仰。社会的にコンテクストに拘束されたくもない。それに対して、女性の純愛信仰はまさに武士道的儒教コンテクストから生まれてきた。父権主義の白馬の王子様を夢見ている。だから男性は女性の純愛信仰からも男性性を求めないロリ萌えへ逃亡する。

 日本で先進国の中で女性の社会進出が少ないのは武士道的儒教コンテクストの父権主義の影響だろう。男子はそのような男性性からロリ萌えへ逃亡している。では女性はどこへ向かうのか。ボクは男性なのでわからないが女性の中でとても恐ろしいことが起こっている気がする。女子高生の総ミニスカ化はその予兆なのかもしれない。

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童貞生活に付与された卓越性に関しては異論の余地がなかった。この考えは新約聖書のいくつかのテキストにすでに現れている。「コリントの信者への手紙 一」の中でパウロは、童貞生活を義務づけることは拒みながらも、彼自身の教えの表現として、それを保つようにという助言を与えている。・・・二世紀中葉、殉教ユスティノスは、キリスト教の一つの特徴として、「多くの、五〇歳ないし六〇歳の男女で、子供時代からキリスト教の教えを学んだ人びとが童貞生活を保ち続けた」ことを語っている。
 童貞生活に対するこのような敬意は、全教会の一般的特徴の一つであった。しかしユダヤキリスト教の痕跡が比較的多く残っている社会では、さらに強烈な性格を帯びる。・・・ユダヤキリスト教に深く影響された地方では、キリスト教の完全な表現を結婚とは両立しえないものとみなす傾向があったらしい。
 ユダヤ教の一派である)エッセネ派の社会で悪しき「イエゼル」すなわち、悪の霊と、性的本能とが同一視されていることに関係があるらしい。性欲というものは、そのままの姿では人間の悪しき原理に結びつくものとして現れる。そこからユダヤキリスト教の禁欲主義の他の側面も理解される。
 このような傾向は二世紀後半に反対を受けることになる。アレクサンドレイアのクレメンスが、結婚はキリスト教的生活と完全に両立するものであることを初めて示すことになる。・・・なるほどキリストは結婚しなかった。しかしクレメンスはそれに、すばらしい深さをそなえた理由を与える。「ある人びとは結婚は性的な罪であり、悪魔からうつされたものであると言う。そして自分たちは、結婚しなかった主に倣っているのだと言う。彼らは真の理由を知らない。まず、主には自分自身の妻がある。教会である。次に主は、肉による助けを必要とする普通の人間でなかった。主は(自らを持続させるために)子供をもうける必要がなかった。永遠に持続する存在であり、神のただ一人の子であったから」。童貞生活は、その源に神への愛がある時のみ聖なるものである。しかしもしそれが結婚蔑視から出ているならば、良いものであるとは言えない。男は妻を、単なる欲望によってではなく、愛徳にもとづいた愛によって愛さなければならない。性的生活にはいかなる不浄も含まれていない。
 P280-285 キリスト教史1 初代教会 ジャン・ダニエル−(平凡ライブラリー) ISBN:4582761631

 二世紀末の著作「ディオグネトスへの手紙」の中で、この姓名不詳の筆者は次のように書いている。「キリスト教徒たちは、言葉遣いにせよ、言語にせよ、衣服にせよ、ほかの人びとと異なるところがない。食物や生活態度についてもその土地の習慣に従っている・・・彼らは他の人びとと同じように結婚し、子供をもうける。ただし新生児を捨てるようなことはしない」
 キリスト教的風習を創り出すという領域で、三世紀初頭はきわめて重要な位置を占めている。この時代にキリスト教徒は小さな集団の中で生活することをやめ、社会全体にふえ広がり始めたのである。
 クレメンスはまず過度の奢侈を戒める。「装身具、彩色された布地、虚飾に満ちた色彩、贅沢な宝石類、金の細工品・・・こうしたすべてのむなしい技巧に対する好みについて、なんと言ったものであろう」と。つまり純粋さと自然さの理想が提示されているのである。・・・食物についても同様であった。簡素で巧まないものでなければならなかった。健康を犠牲にして味覚を満足させようとする「料理人たちの悪魔的な技術」は断罪された。・・・ここでクレメンスが繰りひろげるのは、よい身じまいと礼儀作法に関する一連の論考である。「キリスト教徒は落ち着きと、静かさと、穏やかさによって性格づけられることが望ましい」。
 結婚の倫理に関しては、キリスト教徒はローマ世界に広がっていた風習に反対する。テルトゥリアヌスは離婚を保留なしに断罪する。・・・彼は一夫多妻制をも否認している。最も強調されているのは堕胎に対する断罪である。

 経済生活もまた多くの問題を提起した。キリスト教徒は、彼らの時代の社会が経済生活の領域で基盤とする原則に、異論を唱えたわけではない。彼らは所有権を認めた。社会的な条件に不平等があることも容認していた。・・・クレメンスもテルトゥリアヌスも奴隷制度を一度も断罪してない。ただ奴隷にも人間としての、キリスト教徒としての品位があることに注意を喚起しているだけである。キリスト教徒はあらゆる形で彼らの時代の経済生活に参加している。「あなただたと一緒にわれわれは土地を耕し、取引を行い、労働の成果を交換します。どうしてわれわれがあたながたの事業に役立たないことがありましょう」。このような手仕事も、商取引も、事業も、それ自体としてはキリスト教の信仰に反するものではないのである。
 しかし具体的な面から、三世紀初頭の経済生活のありのままの姿を見るとき、それはキリスト教徒の良心にいくつかの重大な問題とつきつけたのである。・・・テルトゥリアヌスは問題のむずかしさを見抜いていた。彼の目には、利益は背徳的なものと映った。彼は利息をとって金を貸すことや、期限を定めて金を貸すことを禁止している。・・・しかし一方では商取引は利益の上に成立するものである。ではどのようにして、その時代の経済生活に参加しながら、しかもそれが内包する不道徳な行為の共犯者とならずにすますことができるのであろうか。
 P390-402 教史1 初代教会 ジャン・ダニエル−(平凡ライブラリー) ISBN:4582761631

 梅雨どき、長雨にうんざりすると若衆たちは、気がねのいらぬ仲間の家の内庭や納屋へ集まって縄ないなどの手作業をした。君に忠、親に孝などというバカはいないから、娘、嫁、嬶(かかあ)、後家どもの味が良いの、悪いのという品評会になる。
 ・・・まあムラのイロゴトは筒抜けで、まことに公明正大である。こうしたムラの空気がわかっていないと、夜這いだの、夜遊びだの、性の解放だのといっても、なかなか理解できず、嘘だろうとか、大げさなこというてとかと疑うことにもなるだろう。教育勅語を地で行くようなムラはどこにもあるはずがなく、そんなものを守っておればムラの活力は失われ、共同体そのものが自然死するほかなかった。
 いくら田舎でも大正時代となると女郎買いにも行けるし、郡役所のある田舎町でも芸妓の十人ぐらいはいる。いわゆる「駅前」にはどこでも仲居、酌婦のいる旅館、料理屋ができた。遊ぶのならいくらでも遊べるやないかといっても、タダで遊ばせてくれるところはない。昔ながらの夜這い、夜遊び、性民俗は、男は魔羅、女は女陰さえあれば、お互いに堪能するほど遊べる。それが夜這いが近代社会にも残った、根本的要因である。
 P13-14 夜這いの民俗学[文庫] 赤松啓介 ISBN:4480088644