プロテスタンティズムトと日本人の性倫理 (2011-2014)  1/2

 1 なぜ倫理は「進歩」するのか
 2 なぜ日本人の根性論は西洋人から非難されるのか
 3 なぜ日本人は裸を見せることが恥ずかしくなったのか 恋愛と性欲の誕生
 4 なぜ現代日本人は童貞を大切にするのか

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1 なぜ倫理は「進歩」するのか

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どんどん厳しくなる現代の倫理

 部活の体罰が問題になっている。少し前なら先生が学生に体罰を与えるのは当たり前だった。あるいは少し前まで職場や街中で喫煙は当たり前だった。隣に吸わない人がいても気にしない。女性社員に気安くするのもコミュニケーションのひとつだった。それがいまや体罰禁止だ、禁煙だ、セクハラだと、当然のルールになった。
 次に厳しくなるのはなんだろうか。倫理についてはアメリカの先行している。ストーカー規制ではなんメートル以内に近づくなとか。子供の人権では、虐待は問題外として子供への十分な環境を与えられないと親失格となり、強制的に別居させられる。さらに日本のエロ表現の反乱が国際的に問題になっている。公共の場で出版物などのエロい表現を規制、オタクのロリ表現禁止など。倫理って年々厳しくなる方向だ。現代の倫理はより高次の人権尊重に向かっているのだろう。これは人類の「進歩」だろうか。

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倫理の進歩

 古くは身分制が当たり前で、奴隷制があって、人身売買があった。現代のような倫理の進歩へ向かい出したのは西洋近代化からだ。近代の一つの大きな特徴は民主主義である。そこで唱われた基本的人権の尊重をより高度に徹底する方向に向かっている。
 かつて人類は集団を重視してきた。個人では生きられないからだ。強い集団的な協力があって生き残ることができる。集団の秩序には身分制度は当然のことである。その時代には個の尊重という考えはかなり異質な考えだっただろう。近代以前に誰もが平等であるなどと、誰が真剣に考えただろうか。

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個という抽象的概念

 そのような中で早くから「個」の概念を取り出したのはキリスト教だ。キリスト教がその前身であるユダヤ教から世界宗教に飛躍したのは、ユダヤ人に閉じた教えをキリストの説いた隣人愛によって広くユダヤ人以外にも開いたからだ。それがローマ帝国の国教になることでより広域に広まる。何者も制約されない隣人愛、また一神教という神と各人との一対一の関係が個の自立に結び付く。
 たとえばキリスト教が広まる中で「キリストは神か人か」ということが重要な問題であった。その中で正当な考えとされたのが三位一体論だ。神とキリストと精霊は同格である。キリストは神の下にいるのではなく神と同格とされた。
 それとともにキリストは人でもあるともされた。なぜならキリストが人々の代わり死ぬことで、人々に贖罪が生まれる。人は罪を背負った悔い改めるべき存在である。これがキリスト教の最重要な教義である。もし単にキリストが神なら死んだことはフェイクであり贖罪は生まれない。キリストは人であり人が本来背負う苦しみを代わりに背負った。
 そしてギリシア思想という高い論理性をもった西洋文化において、キリストが神であり人であるという矛盾を説くことが神学の課題となった。この思考の中で、神が唯一無二の存在であるように、人にもまた唯一無二の存在=個があり、その二面性を持つ者がキリストという存在であると考えられた。
 このように個という考えは漠然と産み出されるようなものではない。たとえば虚数のようなものである。虚数は自然を設計する算術からは決して生まれない。数学という抽象的な分析の先にしか生まれない抽象的な概念である。概念化された個はその後西洋思想として受け継がれて近代の民主主義思想へと繋がっていく。

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日本人の「和」の倫理

 倫理は個だけからうまれるわけではない。社会集団にはそれぞれ社会秩序を保つ方法があり、倫理がある。たとえば古代の日本では「和」が重視された。日本初の憲法である聖徳太子の十七条憲法ではます始めに、和がくる。
 十七条憲法はその時代の先端の中国文化、儒教、仏教、道教をもとに作られているが、それらからだけでは、最初に「和」がくる発想は導かれない。その時代にすでに日本人の中に和を重視する思想があったことを意味する。
 これは決して身分制を否定し、個を尊重するものではない。縦の関係とともに人民のための政治を理想とする文化があった。ここにはすでに日本人の疑似単一民族思想が見える。「和」は現代まで続く日本人の理想になっている。

 一にいう。「和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。」
 和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。
 十七条憲法 聖徳太子

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豊かさと倫理の進化

 個がキリスト教からきた概念としても、それが近代的倫理として確立していくには段階がある。キリスト教的な個からプレ近代の理性的主体の啓蒙思想を経て、個の集合としての「マクロ思考」な社会科学へとつながっている。
 現代にもつながるマクロ思考な社会科学による倫理は、私的な趣向について問わない。個人が性的な悪趣味をもつなと問わない。理性的な主体であれとは問わない。問題にするのは、他者と関係する公共のあり方である。マクロの社会科学の中で特に重要なものが自由主義経済だからだ。各人がそれぞれ自由に振る舞うことが経済を発展させて社会を豊かにする。これが現在の個の倫理のベースの一つになっている。

 現代の倫理の進化は豊かさと密接な関係がある。現実として格差が大きくまだ貧しい社会では、セクハラや禁煙などの高次の倫理を実践させることは難しい。それ以上に貧しさからの抑圧、虐待、不衛生などが回りにたくさんあり、それらを改善する必要があるからだ。

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倫理の進歩は先進国の義務

 現代日本人は明治以降、西洋の民主主義制度を移植してきた。しかしその核にある抽象的な概念である個をどこまで理解しているか怪しい。もしかするとこれらはキリスト教の概念を理解しないと真に理解できないのかもしれない。
 だからと言って日本人の倫理が低いとは言えないだろう。日本は世界有数に治安がよく、社会的な人々である。現代の日本人はとてもマクロ思考に繊細で自己責任を心得て他人に迷惑をかけないようにする。特に公共において互いの権利を尊重し、平等であることを重視する。それは考えることではなくすでに習慣化されている。誰もが切符売り場では順番に並んでまつという当たり前の慣習も高度なリベラルな規律訓練によるだろう。
 しかし近代化において倫理のスタンダードは西洋にあり、国際的に認められるためには、新たな西洋からの倫理を導入していかざるをえない。特に性関係はいまもキリスト教の禁欲主義と、日本人の性への寛容には大きな隔たりがある。最近改正された「改正児童ポルノ禁止法」は、キリスト教国へのアピールの面が大きい。倫理はグローバルな潮流の一部であり、豊かさを推進する先進国が果たすべき義務だから。

 中国、日本人の冷静さを絶賛 「マナー世界一」の声も
 http://sankei.jp.msn.com/world/news/110312/chn11031219080002-n1.htm
 地震多発国で東日本大震災への関心が高い中国では12日、非常事態にもかかわらず日本人は「冷静で礼儀正しい」と絶賛する声がインターネットの書き込みなどに相次いでいる。短文投稿サイト「ツイッター」の中国版「微博」では、ビルの中で足止めされた通勤客が階段で、通行の妨げにならないよう両脇に座り、中央に通路を確保している写真が11日夜、投稿された。
 「(こうしたマナーの良さは)教育の結果。(日中の順位が逆転した)国内総生産(GDP)の規模だけで得られるものではない」との説明が付いた。この「つぶやき」は7万回以上も転載。「中国は50年後でも実現できない」「とても感動的」「われわれも学ぶべきだ」との反響の声があふれた。大震災を1面で報じた12日付の中国紙、環球時報も「日本人の冷静さに世界が感心」との見出しで報じた。

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2 なぜ日本人の根性論は西洋人から非難されるのか

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 391球の済美・安楽に米「日本の新しい大物」
 http://www.sanspo.com/baseball/news/20130331/hig13033118290011-n1.html
 済美の2年生エースで4番の安楽智大投手に米国メディアが注目している。理由は甲子園で行われている第85回選抜高校野球大会で、先発した2試合で計391球を投じ、"超人的スタミナ"を発揮しているからだ。
 ・・・米CBSスポーツ電子版も30日付で「日本の高校球児が391球」と伝えた。これまでの選抜大会で松坂大輔ダルビッシュ有大谷翔平らが高校野球ファンを賑わせてきたと報じ、「今年のセンセーションは安楽智大だ」と断言。こちらも安楽の熱投ぶりを米国の読者に紹介している。
 成長途中にある16歳の高校2年生に391球を投げさせる行為に「危険でばかげている」と"忠告"しつつ、横浜高時代の松坂が1998年の夏の大会で、3回戦からの3日間でPL学園との延長十七回を含む合計413球を投げた鉄腕エピソードも伝えている。

 済美・安楽、米メディアの投げすぎに“反論”「日本の野球はそういうもの」
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130402-00000013-dal-base
 済々黌との3回戦後、2試合で計391球を投げた球数について米野球専門誌のベースボール・アメリカが「世界で最高の16歳投手の1人だが、正気のさたではない球数」と報道した。この日は138球。3試合で計529球となった安楽は試合後、「投げすぎという印象はない。日本の野球はそういうもの」と、きっぱりと話した。

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日本人は子供に個の自立を求めない

 この記事に表れている日本のスポーツの倫理が根性論なら、アメリカのスポーツ倫理は合理的な未成年保護だろう。日本人の方が未成年に厳しいかというと、逆に甘かったりする。西洋人は子供時代から個の自立を求めたしつけを行う。日本のように子供が寝るときはさびしいだろうから親と寝るというようなことは西洋人はしない。小さいときから自立のために一人で寝ることがしつけられる。
 西洋人が、スポーツだけではなく、性倫理にしろ、未成年を保護するのは過保護ではなく、子供を社会的に、生物学的に「未完成な大人」であり、まだ大人が保護すべきだと考えるからだ。
 日本では子供にこのような個の自立を求めない。子供はこのような「未完成の大人」ではなく、集団の中の「子供」と言う特別な存在である。子供のあり方は環境により決まり、環境が許せばいつまでも親のすねをかじる子供のままでもよいし、環境が許さなければ、たとえば貧しければ大人の代わりに労働をさせられる。

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西洋人権倫理と日本文化のすれ違い

 日本人の根性論はどこからきたのだろうか。その元の一つは江戸時代の儒教的な武士道にたどれるだろう。明治の近代化の富国強兵の中でその精神性は国民に教育された。だからスポーツの中でも相撲、柔道、高校野球という古くからの国民的スポーツで特に根性論は深く根付いている。
 現代の日本人の豊かさは世界トップクラスだと思う。経済的な格差が小さく、失業率が低く、社会的インフラが発達して貧しくてもある程度豊かな生活レベルを維持できる。このような環境の中で他者を尊重する余裕が生まれる。
 それでもやはり現代の倫理は西洋文化の中で発達してきたものだ。特に西洋の倫理と日本文化とすれ違いがちなものが個の自立を前提になるようなことだ。このような中で近年では、パワハラ、セクハラ、禁煙などの繊細な人権倫理が西洋から輸入されてきた。
 日本人は、このような倫理は集団の関係の中では許容されるべきだ、人間関係を繊細にして緊張を生む必要があるのかと、いう批判があった。しかしいまでは西洋的倫理のグローバルな流れの中で日本でも受け容れられている。
 なんといっても彼らの倫理は個の自立を前提にして社会的に生物学的に「未完成な大人」という科学的合理性で武装されたグローバルスタンダードなのだ。日本人的精神論で太刀打ちなどできない。日本人のロリコン文化抑止も高校野球の投球制限も時間の問題なのだろう。

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3 なぜ日本人は裸を見せることが恥ずかしくなったのか 恋愛と性欲の誕生

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裸をさらす江戸時代の日本人

 「裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心」(新潮選書)中野明 ISBN:4106036614、幕末、多くの日本人は毎日銭湯を利用していたが、銭湯は男女混浴だった。銭湯内では男女は丸裸でなにも気にすることなく、体を洗い、また社交場でもあった。このような裸をさらすことの素朴さは銭湯だけのことではない。暑いときは女性でも人前で上半身裸ですごすし、庭先で人目を気にせず行水するなど普通だった。
 その時代の日本人は、春画の反乱や夜這いの習慣などセックスに対してあけっぴろげで旺盛だったが、裸そのものは性的な対象ではなかった。いまテレビで未開の裸族をみて驚くが、ほんの百年前は庶民レベルでは日本も似たようなものだった。
 その時代に来日した西洋人の驚きはまさにいまの日本人以上だろう。彼らのキリスト教の厳しい性モラルからするととんでもない。また儒教圏の朝鮮からの使者も驚き、眉をひそめたという。

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日本人の素朴な土着的な思想

 日本人は世界有数の風呂好きである。たとえばその時代、西洋人には風呂の習慣はなく、清潔に保つためには下着をまめにかえるか、たまに行水をするくらいだった。日本人の風呂好きは地勢的に水が豊かなこと、また温泉がたくさんあることがあげられるだろう。ほとんどが農民であることを考えれば、内風呂などぜいたくなものはないから、毎日の農作業後に皆で体を洗う。そのときに男女がどうだとか気にしていられなかったのだろう。
 明治になり、西洋思想は一部の権力層や知識人に広まったが、最初日本の庶民への影響は少なく、土着の思想世界を生きていた。当然、武士やその家族は混浴に行くことも、人前で無造作に裸をさらすこともなかっただろう。ようするに庶民のレベルでは、儒教にしろ、仏教にしろ、キリスト教にしろ、強い道徳思想に律されていなかった。彼らは土着的な素朴な道徳に生きていたということだ。

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日本女性の魅力

 途上国にいくと、女性が「素」でびっくりすることがある。素とは化粧やファッションで美しく飾っていないということだけでなく、愛想がない。彼女たちに接すると日本の女性がいかに女性的で愛想がいいかわかる。ニコニコあいそを振りまいているなどではなく、小さな仕草一つしても女性的なのだ。途上国では女性というよりも「人間」なのである。
 よく現代の都会は毎日が祭りのようだ、という比喩があるが、祭りと性が切り離せないように、いまの日本は毎日が性的な祭りである。これはセックス産業の反乱の話ではなく、日常のことだ。人々はたえず性的な誘惑にかられている。

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一般女性はおっさんで遊女が女性だった

 田舎なら高度成長期頃まで、日本でも少し前まで女性はおっさんのようだった。化粧はしないし、ファッションなどなく、体を美しく保つ努力もなく、乳たれ、寸胴で、愛想無い。男性とともに肉体的な労働をになって、きれごとを言っている場合ではない。
 江戸時代は、おっさんでない「女性」にあうためには遊廓へいかなければならない。遊廓は単に性交渉をする場所ではなく、「女性」にあうことを楽しむ場であった。遊女は売春婦ではなく「女性」だった。
 現代の男なら女性の裸を見ることに必死だし、遊女に性交を求めるのだろう。しかし「おっさん女子」が普通の時代、美しい女性を見ることはそれだけで価値があった。またおっさん女子は裸を見られることも気にしないし、性交にも積極的であるから、女性の裸そのものや性交そのもの希少性は低かった。逆に美しく着飾っている遊女の芸を楽しみ、擬似的な恋愛をすることに価値があった。

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江戸時代の結婚、恋愛、性交の分離

 江戸時代の身分制は仕事を固定し人の流動性を抑えた。農民は貧しくても経済的には安定していた。そして結婚は個人の契約ではなく家同士の契約であり、家の経済性が重視された。
 だから結婚と恋愛や性関係は切り離されていた。結婚は家同士の関係だから個人の自由恋愛は抑制される。そして性関係はこのような家の関係からは切り離されていた。西洋文化が入る前なのでキリスト教的な結婚相手に処女を求めるようなこともないので、夜這いの風習などに見られるように、性交はある程度大人になると参加できる村の娯楽であった。

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの書いた『日欧文化比較』という小さい書物があります。・・・フロイスは十六世紀の中ごろ、一五六二年に日本に来て、一五九七年に世を去るまで、三十五年間、日本で生活しました。
 その第二章に「女性とその風貌、風習について」という一節があります。フロイス自身もびっくりしたのでしょうが、われわれ自身もこれを読むと、ちょっとドキっとするようなことが、そこにいくつかあげられております。
 たとえば、「日本の女性は、処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ結婚もできる。」・・・さらに「日本では、堕胎はきわめてふつうのことで、二十回も堕した女性がある。日本の女性は、赤子を育てていくことができないと、みんなのどの上に足を乗せて殺してしまう。」「日本では比丘尼の僧院はほとんど淫売婦の町になる。」
 日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫) 網野善彦 ISBN:4480089292

 ざっと紹介したように、夜這いは、戦前まで、一部では戦後しばらくまで、一般的に行われていた現実であり、実に多種多様な営みがあったが、このような重要な民族資料を、日本の民族学者のほとんどは無視し続けてきた。・・・そのために、戦前はもとより戦後もその影響が根強く残り、一夫一婦制、処女・童貞を崇拝する純潔・清純主義というみせかけの理念に日本人は振り回されることになる。
 婚姻の調査についても、彼らがわかっていないのは、明治から大正、昭和初期にかけて生きた女性の大半は、マチなら幕末、ムラなら村落共同体の思考、感覚でしか生きていけなかったということである。教育勅語によってそれほど汚染されていないということだ。尋常小もロクにでていないような人間に、家父長制とは一夫一婦制といった思考方法がなじまないのは当たり前で、夜這いについても淫風陋習などと感じておらず、お互いに性の解放があって当然だと考えている。
 村外婚が普及し仲人業者が一般に活動するようになったのは大正に入ってからのことで、三々九度の盃を上げてという小笠原式の婚姻が普及するようになったのはさらに後のことであった。
 P33-35 夜這いの民俗学[文庫] 赤松啓介 ISBN:4480088644

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女性の商品化と恋愛の誕生

 地方の夜這いの風習が廃れたのは、戦後の高度成長期に若者が都会で就職し始めてからだ。共同体の行事の一部に村の顔見知りの間での性関係が組み込まれていたのとは違い、都会では流動性が高く、性関係以前に様々な危険があり人間関係に注意する必要がある。
 明治以後に結婚が家中心から個人同士の契約関係となったとき、経済的弱者である女性にとって、結婚前の「恋愛」期間は、相手の人が将来に渡り頼ることができる男子であるか、見極めるための重要な確認期間となる。そして女性はよりよい男性を求めて美しさを磨き、貞操を価値とするようになる。
 美しい女性のメタファーは「商品」である。美しく装飾されそしてまだ誰も使っていない新品であることが商品の価値を高める。ここに恋愛が現れる。さらに裸は隠されエロティックになり、性交も禁止され「性欲」が誕生する。

 現在であれば、躊躇なく「性」や「性欲」という表現を用いるところだが、鴎外が外国語を用いているのは、肉体に特化された男女関係や、精神性を伴わない肉体的欲求を表現するために適当な表現が、それまでの日本語には存在しなかったということを示している。逆に言えば、男女関係を、”肉体と精神”という二分法でとらえる発想が、「好色」や「色事」という表現には希薄であったということである。
 ・・・鴎外の『ヰタ・セクスアリス』は、明治に青春をすごした青年(金井)が「色事」と「性欲」のはざまに生き、「色事」の世界から決別して「性欲」の世界へ移ってゆく様を示す大変興味深いケース・スタディである。遊女と初めて関係をもった金井君は、「僕の抗低力を麻痺させたのは、慥に性欲であった」と、遊女との交際を肉体関係に限定して理解し、「あれが性欲の満足であったか。恋愛の成就はあんな事に到達するに過ぎないのであるか。馬鹿々々しいと思う」と、その経験を「性欲」の問題と切って捨てている。ここにはもはや、「色事」の世界にあったスピリチュアルな「遊び」の要素は無く、ただ、むき出しの欲望があるのみである。「色事」ではなく、「性欲」の対象となった遊女たちは、もはや「娼婦」であり、芸能者ではありえない。
 P51-53 「愛」と「性」の文化史 (角川選書) 佐伯 順子 ISBN:4047034312

 そもそも日本人は、現代で言うパンツをはく習慣はなかった。ましてブラジャーをや、である。男性は褌、女性は腰巻である。ただ女性の腰巻きだと、場合によってその中が外部の視線にさらされてしまう。
 一九十五年代に新聞記者から下着デザイナーに転身して人気を博した鴨居洋子氏の言葉である。「関東大震災が動機になつて、日本ではじめてキモノの下にズロースをはくことが提唱されたときも人はなかなか素直にそれをはかなかつたものです。ズロースが腰巻きなどと違って、マタや尻やモモにぴつたりとまとわりつくのが、異質的な刺激であり、まごついてしまったのです。彼女たちはそれが局部を保護するものであることが分かつていながら、感覚的には、局部を冒涜するような気がして恥ずかしがつたいいます。」
 ・・・日本人にとってパンツが一般的になるのは一九三〇年代後半から四〇年代の初めのことになる。・・・さらに注目したいのは、同じく井上氏が指摘する次の言葉である。「彼女たちは、陰部の露出がはずかしくて、パンツをはきだしたのではない。はきだしたその後に、より強い羞恥心をいだきだした。陰部をかくすパンツが、それまでにはないはずかしさを、学習させたのだ。」
 そして、「性器を見られた時に感じるだろう羞恥心も、前よりふくらみだす」。先の鴨居洋子は「局部を冒涜するような気がして恥ずかしがつた」ため、世の女性はパンツをはくのをためらったと述べた。しかしパンツの着用という一線を越えることで、局部への冒涜が実際となる。こうなると冒涜されている自分に対して「それまでにはないはずかしさ」を感じるようになるのも無理はない。パンツをはくということは、外部の視線を遮断する。意識的か否かは別にして、見ることを禁止する。
 P206-214 裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心 (新潮選書) 中野明  ISBN:4106036614

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性のエンターテイメント化

 現代はもはや純潔主義は古くさいものとなり、自由恋愛、自由な性交が認められている。経済的には女性の社会進出によって、以前に比べて、女性だから経済的弱者であると言えなくなっている。また男性雇用の不安定から結婚することで経済的に安定することがなくなり、結婚制度そのものも崩れてきている。
 現代の日本の女性が美しいのは、もはや単に結婚相手を見つけるためだけではなく、すぐれた街のエンターテナーとして裸を美しく隠すことでエロティックを演出し、男子の性欲をエレクトさせることを楽しむ。あるいは女性同士の競争の場となっている。そして毎日が祭りのように性が氾濫し、エンターテイメントとして消費を盛り上げる。

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オタクの性は神聖な二次元へ回避する

 しかし性が氾濫するのに童貞が増えているのは不思議な現象だ。性の氾濫によって、彼らは本来女性の商品化によって生まれた恋愛、そして性欲を、少女のごとく繊細な感性でより崇高な次元まで引き上げている。
 たとえばオタクたちは風俗にいけばできる性交を認めず、純愛の先の「神聖なもの」として崇拝し貞操を守り通す。もはや純愛の対象は3次元ですらなく、性消費文化を洗練させている。しかしそこには女性が先鋭化させた性のエンターテイメント化から取り残されたための回避の結果であることも否めない。

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